落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(37) 第二幕、第一章(11)茜の告白  

2012-09-29 12:26:54 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(37)
第二幕、第一章(11)茜の告白


 
 
 碌山美術館は、小さいながらも隅々にまで配慮の行き届いたたいへん居心地の良い空間が用意されています。
たとえば正面入り口のドア飾りをはじめ、各所のドアノブにはブロンズの小品が、さりげなく配置をされています。
また館内入り口の左手には、「杜江(もりえ)の水」が静かに流れています。
来館者にも安曇野の水で喉を潤してもらおうと言う配慮から、後になったから掘られた井戸水です。

 「杜江」という文字は、碌山が書簡のサインにたびたび用いていたことに因んでいます。
そして、水を汲みあげる柱の部分にも十字架文様の木彫がこれもまた、さりげなく施されています。
喉を潤してから上を見上げると、屋根の上にいるフエニックス(不死鳥)が目に飛び込んできます。
30歳の若さで早逝した碌山の遺した作品の傑出した魅力を象徴するかのように、
安曇野の空に羽ばたいています。


 木漏れ日に目を細め眩しそうに見上げたあとに
木蔭のベンチの腰を降ろした茜が、散策中のレイコを手招きしました。


 
 「私も、10年以上も前から石川さんが大好きだった。
 過去形だけど、決して忘れたり諦めたわけではなかったし、
 あこがれとして、つい最近までずう~とその気持ちはあたためていたの。
 でもお互いに、現実には全く別々の10年間を過ごしたわ。
 劇団の解散以来、音信不通のままの10年間になった。
 ・・・・あ、でも誤解をしないでね。
 ただの片思いだったのよ、私だけの。
 あの頃の石川さんは、姉のちづるばかりを見ていたのし、
 時絵さんだって、とてもチャーミングだった。
 私なんか、たぶん眼中になんか無かったわ。
 みんなに比べたら、あたしはそばかすだらけのチビだったし、
 華やかでもなかったし、引っ込み思案だったもの。
 いつだって、姉の背中に隠れていたわ。」


 
 レイコも同じように葉裏に輝く木漏れ日を見上げました。
同じように目を細めてから、茜の隣へ腰を下ろします。
気持ちの良い安曇野の初夏の風が、髪を揺らして二人の間を吹きぬけて行きました。



 「わたしは普通に看護婦さんになっって
 普通に病院勤務を始めたわ。
 劇団が解散をして、姉が突然、座長さんと結婚をして日立へ引っ越したわ。
 そこまではあっという間の、急展開の日々だったけれど、
 その後はありきたりで、
 まったく平凡な毎日が何年も続いたわ。
 昼勤務と夜勤が繰り返されるだけの仕事の日々で、
 後はまったくもって単調だった。
 5年前には実家を出て、アパートを借りたの。

 26の時だったかなぁ・・・・
 入院中だった男にナンパされて、なんとなく付き合いが始まり
 たいした感激や感動もないままに、私のアパートでの半分だけの同棲生活が始まった。
 お互いに拘束をしないと言う約束で、中途半端な付き合い方だった。
 3年近くも続いたのかしら、そんな都合のよいつき合い方が。
 たまたま避妊を怠った時に、妊娠をしてしまったわ。
 彼に告げたら、籍を入れようという話になり、
 私も安心をしていたらその1月後に、
 もらったばかりのボーナスを全部持って、男がどこかに消えちゃった。
 後で聞いた話では、水商売の愛人というのがもう一人いて
 ヒモ同然の生活をしていたんだって、そいつったら。
 そこの彼女のところからも、あるだけの現金を持ったまま
 姿をくらませてしまったの・・・

 本当のことには何ひとつ気がつかないままに、
 そんな男にふりまわされていたのよ、私は。
 でも、自分でも情けないとは思うけど、
 そんな男でも、私の身体はその男を、愛していたんだよ、
 最悪だったなぁ、あの頃は」




 レイコのまっすぐな視線が長いまつ毛が揺れている、茜の横顔をしっかりと見つめました。
膝の上で重ねてられている茜の細くしなやかな指の上に、レイコがそっと自分の手のひらを置きました。



 「そんな絶望の時に、
 座長さんから劇団再結成の葉書が届いたの。
 お腹に小さい生命を置いたまま、
 懐かしさだけでその再結成の場へ出掛けたわ。
 それが、レイコさんも良く知っているはずの時絵ママのところ。
 その入口で石川さんに再会したの。
 もう夢中で甘えちゃった・・・
 自分でもびっくりするほど、あとは大胆だった。
 勢いに乗ったまま、無理やり石川さんをドライブに誘いだして
 お正月を2泊3日で過ごしたの・・・
 でも彼は、とても紳士だった。
 全部、私の事情を知った上で、お腹の子供の面倒まで見るから
 本気になってつき合おうと言ってくれた。
 嬉しかったけど、今度は当の私が当惑しすぎちゃった。
 とてもじゃないけどこのままでは、
 石川さんの奥さんになんか、
 収まりきれないでいる自分に、そこで初めて気がついた。
 遅すぎる事は、充分に解っていたけど、
 でも石川さんに甘え切る訳にはいかないの・・・・
 このままじゃいけないって言う、
 そう言う声が聞こえてきた」



 レイコが茜の指を握りしめます。
一筋だけこぼれ落ちた涙を、茜がそっとこぶしでぬぐいました。




 「私は、自分の罪と自分の恥を償なわなければなりません。
 初めて碌山の『女』を見たときに、
 私はそれを確信をしました。
 石川さんの気持ちにこたえるためには、
 これは決して避けては通れない道なんだと、その覚悟も決めました。
 それからさきは、レイコさんもご存じのとおりです。
 でもね、今回の原因となった私の、
 この不始末だけは、実は誰にも話してはいないのよ、
 打ち明けたのは、レイコちゃんが初めてなの。
 お願いだから軽蔑をしないでね、
 こんな茜を。」



 
 レイコが、小刻みに揺れる茜の指先を抱きしめました。
恥ずかしさに頬を真っ赤に染め切った茜が、それでも必死に涙をこらえています。
レイコの指先にも、自然と力がこもります。



 「茜さん。
 あなたの本気は、みんながちゃんと受け止めています。
 あなたの本気と熱意が、時絵さんを動かし、座長さんを動かして
 順平と私を、この安曇野まで引っ張ってきました。
 いいえ、私たちのために。
 もっと大きなプレゼントまで用意をしてくれました。
 順平からのプロポーズは、茜さんが導き出してくれたものだと
 私は信じています。
 茜さん、私たちは、良い友人になれると思います。
 あなたが勇気を持って踏みだしてくれたその一歩目が、
 もうすでに、多くの人たちの心を一斉に動かし始めています。
 過ちをしっかりと見つめて、その先の希望にむかって恐れずに歩きだすという
 茜さんの生き方は、本当に素晴らしいと、私もそう思います。
 私も精一杯に、茜さんを応援をします。
 茜さん、是非、黒光を実現しましょうね。
 順平は、きっと茜さんのための『黒光』を書きあげてくれると思います・・・
 いいえ、かならず書かせます!
 きっと書かせて見せますとも。
 茜さんのためにも、私が、絶対に。」




 目じりに溜まった涙を小指で拭いていた茜が、ふっと笑みをこぼします。





 「あれぇ?、レイコちゃんのところは、カカア天下なの? 」

 「あ・・・・いいえ、決してそんな」




 二号館では、再び中庭の様子を見に来た石川さんがガラスに額を着けていました。
やがて、嬉しそうに順平を振り返ります。





 「順平さん、お待ちどうさまでした。
 女性陣の長い話もようやく、平和的かつ友好的に終了したようです。
 これで心おきなく本命の『女』を鑑賞に行けますね。」


 「ほう、それはありがたい。
 ようやく、はるばる此処まで来た甲斐がありますね。
 やっと碌山の『女」にご対面です。
 われらの女性陣には、だいぶ邪魔をされましたが・・・・」


 

 
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/

「舞台裏の仲間たち」(36) 第二幕、第一章(10)再びの碌山美術館

2012-09-28 11:19:40 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(36)
第二幕、第一章(10)再びの碌山美術館



 4人共に、思い思いに充分な時間を過ごしたちひろ美術館を後に車は、
当初の目的地である碌斬美術館へ向かいました。その車内で茜が、石川さんにお願い事をしています。
それは、女たちだけで碌山の”女”を鑑賞したいので、その間だけ、順平の車いすを
押していてくださいという依頼でした。



 二つ返事で引き受けた石川さんは、緑が濃くなったツタの絡まる本館での見学を後回しにして、
順平と会話をしつつ中庭から二号館に向かって車いすを押していました。
「何があるんでしょう・」と小首をかしげる石川さんに、順平は平然と答えます。



 「茜さんは、レイコに、
 たぶん女の本音を聞きたいのでしょう。
 男たちが傍に居ては、それらを簡単には口に出来ません。
 恐らくそんな話題になると思います・・・
 まぁ、たまにはそれもいいでしょう。
 それにしても、昨日も今日も良いお天気ですねぇ。
 ここは、庭にまで芸術が溢れています、
 実に見事な景観そのものです。
 何度も足を運んだという、石川さんの気持ちが
 充分に解ります」



 男たちが中庭をゆっくりとめぐり、やがて二号館に向かい始めたころに
女性二人はまだ、膝まずいて螺旋に宙を仰ぐ碌山の絶作『女』を前に無言のまま並んで立ちつくしていました。
これで二度目となる茜は、早くもまた別の感動を見つけ出したのか、
すでにその目を潤ませていました。


 
 「ねぇレイコちゃん、正直に答えて。
 あなたにはこの碌山の『女』が、どんな風に見える。」



 「目に希望の光が見える。
 でも不思議ねぇ、
 この彫刻には瞳が刻まれていないのに、その瞳自体を強くかんじるの。
 でも一体何を見つめているんだろう・・・
 背中にはなにか抗えないほどの重いものを背負っている感じなのに
 瞳から額にかけて聡明な輝きを感じるわ。、
 たぶんそれは、希望だろうと思うけど・・・」



 「うん、私も其れを何となく感じはじめた。
 変よね・・・
 前回は暗い未来しか見えなかったような気がしたのに。
 確かに、希望のような輝きも秘めているわ」



 レイコが半歩、茜に近寄りました。
茜がそれに応えて、レイコの側へ上半身を傾けました。
ほとんど距離を置かずに二つの顔が並びました。やがて少しだけためらった時間の後に、
レイコが茜に問いかけました。





 「やっぱり聞いてもいかしら。
 劇団の誰に聞いても本当のことは教えてくれないし、
 たぶん、茜さんにはとても失礼な質問になってしまうと思います。
 それでも、かまいませんか?
 私が、質問をひとつだけしても。」



 「そのつもりで、二人だけになったの、レイコちゃん。
 それに答えるつもりで此処にあなたを連れてきたんだもの、
 本当のことを言わなければ、あなたにも
 脚本を引きうけてくれた順平君にも失礼にあたると思う。
 何でも聞いて頂戴、
 全部答える。」



 「最初の時には茜さんには、此処で何が見えたのですか?。
 それが今回の、脚本を書いてほしいというお話の原点になると思うのですが・・・
 実は今回の話をきっかけに、私には嬉しい展開が始まりました。
 順平が、このお話に、あんなにやる気を見せたのもたぶん久々だと思います。
 それ以上に、もうひとつ大きなものが動き始めました。」



 「レイコちゃんにとって、大きなもの?
 なんだろうそれ。
 少し気になる言い方ね。」



 「でも、ちょっぴり恥ずかしいなぁ・・・
 実はね、順平が、この本を書きあげたら結婚しょうと
 初めて言ってくれたの。
 わたしたちって、幼馴染でもう25年近くも知り合いのままだった。
 いつから順平を好きになったのかも気がつかなかったし、
 気がつけば私は、いつも順平の周りに自分の居場所を作っていたの。
 順平が私のことをどう思っているのかは知らないけれど、
 私には、順平がどうしても必要なの。
 それがはっきりと分かった時に、あいつったら
 4年近くも日本中を放浪したまま帰ってこなかったし、
 やっと戻ってきたと思ったら、
 今度は私が保育園の仕事で、てんてこ舞いになっちゃった。
 そんなこんなで、また3年がたっちゃった。
 でも・・・・やっと順平が、私のもとに帰ってくるの。
 茜さんと石川さんが、順平にきっかけをくれて火をつけてくれたんだと思う。
 ありがとう、茜さん。
 あなたのおかげなの、私の未来が開けたのは。」



 「そうなんだ。
 それなら希望が見えるはずだわ。
 良かったねレイコちゃん、
 長年待った甲斐が有ったわね。」



 レイコが嬉しそうにちょっぴり頬を染めます。
そんなレイコの袖を引いて、茜が目で戸外へと誘いました。
気配を察したレイコが、ぴったりと連れ立ったまま明るい日差しの溢れる中庭に向かって歩きは始めました。
ちょうど、二号館では一通りの作品を見終わった男たちが、窓際から、中庭に出てくる、
このレイコと茜の姿を見つけました。



 「順平さん・・・・
 二人が連れだって出てきましたが、
 また訳あり風にベンチに腰をおろしてしまいました。
 雰囲気的に見ても、どうやら難しそうな話がまた始まる気配がします。
 どうします・・・
 もう一周しましょうか。」



 「やむをえませんね・・・。」






 
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デジブック 『やっと満開、蕎麦の花』

2012-09-27 09:53:05 | 現代小説
デジブック 『やっと満開、蕎麦の花』

蕎麦は本来、山間地や冷寒地などが特産とされています。
こちらのように平坦地で育てられる蕎麦はきわめて珍しく、近年のプロジェクトとして、
試験栽培を続けた末、ようやく市販化の見通しがたってきました。

純白の花を満開にさせた蕎麦は、これから三角形の小さな黒い蕎麦の実をつけます。
例年、11月初旬に香り高い「新そば」となり、蕎麦屋さんなどで季節のおすすめメニューとして登場をします。


「舞台裏の仲間たち」(35) 第二幕、第一章(9)ちひろという作家

2012-09-26 09:52:30 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(35)
第二幕、第一章(9)ちひろという作家





 いわさきちひろは、子どもを生涯のテーマとして描き続けた画家です。
モデルなしで10ヵ月と1歳のあかちゃんを描き分けるというほど、その観察力とデッサン力を縦横に駆使をして、
9,400点を超える作品のなかで子どものあらゆる姿を描き出しました。

 ちひろの作品は、母親として子育てをしながら、
子どもたちのスケッチを積み重ねることで生み出されてきました。
また東洋の伝統的な水墨画の技法にも通じる、にじみやぼかしを生かした独特な水彩画には、
若き日に習熟した藤原行成流の書の影響なども見られます。


 青春時代に戦争を体験したちひろは、
「世界中のこども みんなに 平和としあわせを」ということばを残しました。
ちひろが描いた子どもや花たちは、今でもいのちの輝きと、平和の大切さを雄弁に語り続けています。



 西洋で発達した透明水彩絵の具という画材を用いながら、水をたっぷり使ったにじみやぼかし、
大胆な筆使いを生かした描き方は、むしろ日本の伝統的な水墨画に近い表現をみることができます。
赤ちゃんや花びらなどを描く時には、輪郭線を描かずに色のにじみで形を表す
「没骨(もっこつ)法」という技術が用いられています。


 ほかに、先に塗った色が乾く前に別の色をたらして複雑ににじませる「たらし込み」や、
筆のかすれたタッチを生かした「渇筆(かっぴつ)法」など、実にさまざまな技法が使われています。
また、こうした水彩の表現とあわせて的確に描かれた線の美しさも、ちひろの絵のもつ大きな魅力のひとつです。
画家を志した20代後半から、ちひろはデッサンの習練に励み、息子を得てからは
成長していくその姿を数多くのスケッチに残しました。


 納得のいくまで線を追求し続けたことが、
流麗な線を生み出すいわさきちひろの原点となっています。
ちひろは後年、どんな格好でも人間の形ならモデルなしで描けると語っています。
優れた技術に、母親としての愛情と、みずみずしい感受性が融合したところに、いわさきちひろの
豊かな作品が生まれたといえるでしょう。 




 「ねぇ、順平。
 やっぱり、絵が書きたくなったんでしょう・・・
 見ているだけの私だって、うずうずしてくるもの。」



 「そういうものを感動と呼ぶんだよ、レイコ。
 良質の感動は、必ず人を行動に駆り立てる。
 心が揺さぶられると、人は自らの能力の中で身動きをしたくなる。
 芸術にはそういう力が秘められているのさ。」



 「その通りだわ、
 なんとなくだけど、私も頑張ろうって気になってくるもの。
 やっぱり・・・本物は違うわね。」


 「そういうことだろうね。
 さて、たっぷりと感動をもらったから、茜さんたちの所へ行こうか。
 もう待ちくたびれているだろうから・・・。」



 「そうかなぁ・・・
 茜さんったら、2~3時間はクギ漬けでもいいって言ってたわよ。
 テラスから雄大な穂高の景色を眺めながら、彼と恋人気分にひたるから、
 なるべくゆっくりしてきてくださいって、別れ際に
 それとなく耳打ちをされちゃった。」



 「なるほどね、それも一理ある。
 じゃあ、お嬢さん、
 こちらも負けずに、前に見えるちひろ公園の散策などに行きますか。
 表は晴れていて、とても天気がいいようです。」



 「お嬢さんは、すこし気恥ずかしいな。」



 「もう少ししたら、この先で奥さんと呼べるけどね。」



 「え?どういう意味・・・」



 「石川さんと約束をしたんだ。
 どんな深い事情があって茜さんがこだわっているのかは、よく分からないけれど
 黒光を演じることに、どうやらこだわりと大きな意味がありそうなんだ。
 目立つことは避けて、いつも姉の背中に隠れていた茜さんが
 一大決心をしたうえでの、初めての挑戦になるそうだ。
 石川さんも、そんな茜さんをしっかりと受けとめるために、
 いまから準備をはじめるそうだ。
 二人に何があるのか、いまだに事情は解らないけれど
 俺に出来ることと言えば、全力で黒光の脚本を書き上げることだけだ。
 たぶん、最近には記憶が無いほどの、
 緊張感のある、とてもやりがいのある創作になると思う。
 絶対にいいものを書き上げて見せるから、書き上がったらその時には
 レイコ、 俺と結婚をしてくれ。
 お前へのプロポーズのつもりで書きあげてみせるから。
 今度こそ、この機会を逃さずに一緒になろう・・・
 ずいぶんと待たせてしまったね、レイコ。
 一緒に暮らそうぜ、俺たち。」



 「ッ順平・・・」



 「いやか?。」


 「ううん・・・
 でもさぁ、なんで今頃になってから、泣かせるのさ。
 順平ったら。」



 「25年もたったんだ。
 別々に過ごしたまま、四半世紀になっちまったんだぜ、俺たち。」





 「待ったかいがあった・・・。」


 「ン、何か言ったか?」


 「別に。
 さあ行くわよ、表。」





 
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「舞台裏の仲間たち」(34) 第二幕、第一章(8)ちひろ絵本美術館

2012-09-25 10:54:36 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(34)
第二幕、第一章(8)ちひろ絵本美術館




 北アルプスのふもと、信州・安曇野に位置していて、
高瀬川・乳川・芦間川が流れる自然豊かな松川村、ここに今回の目的地のひとつ、
いわさきちひろの絵本美術館があります。(現在の安曇野ちひろ美術館)


 かつて教科書にも載ったことがあるという神戸原扇状地が、村のシンボル「有明山」から美しく広がり、
その緑が豊かに広がりを見せる大地には、すでに初夏まじかの趣がありました。
2日目も、こうして快晴下でのドライブがはじまりました。


 信州は、ちひろの両親の出身地です。
ちひろにとっては、幼い頃から親しんできた心のふるさとでもありました。
美術館のある松川村は、ちひろの両親が第二次世界大戦後に開拓農民として暮らしていた村です。


 安曇野の自然にとけこむように設計された建物は、内藤廣氏の手によるもので、
周囲には北アルプスを望む36500㎡の安曇野ちひろ公園が広がっていて、清流の乳川(ちがわ)が脇を流れています。
ここはちひろの作品や、その人生に出会える場所であるとともに、世界の絵本画家の
作品にも出会える貴重な場所です。


 第一展示室は、『ちひろの仕事』と命名されていました。
ちひろの代表作とその原画を中心に、1年に4回のテーマを決めて、
それぞれの時期にちひろの仕事と作品を展示している部屋になっています。



 その次の第二展示室には、 『ちひろの人生』と名前がつけられています。
ちひろが誕生してから没するまでを時系列に沿って、人生で重要であったと思われる
いろいろな出来事などを追いながら紹介をする部屋になっています。
素描やスケッチ、遺品などもたくさん展示されていて、ちひろの全体的な人間像が浮き彫りにされています。
さらに、第三展示室には、世界の絵本画家 散逸しがちな絵本の原画を保存するための、
国際的なコレクションが展示されていました。
アジア・ヨーロッパ・アメリカなど、国籍もさまざまな作家たちが
一堂に取り上げられています。



 第一展示室で、順平の車いすがピタリと止まってしまいました。
自ら車輪を手繰ってちひろの原画への接近を繰り返しています。
席を外していたレイコが戻ってきて、優しく後ろから順平の背中を支えました。




 「順平。ゆっくり見ていていいそうですよ。
 茜さんたちは、一通り見てから、テラスでお茶を飲むそうです。
 後から合流をしましょうということで、今、お二人を見送ってきました。
 よかったわね、優しい人たちで。」



 1940年代から50年代にかけてのちひろは、油彩画などを数多く手がけており、
作家としての仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主なものでした。
1952年頃から始まったヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずに、ちひろに自由に筆を
ふるわせてくれた貴重な仕事でした。
1954年にはその仕事ぶりが認められて、朝日広告の準グランプリを受賞しています。



 ヒゲタ醤油の挿絵は、ちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間余りにわたってつづきました。
1956年の、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で小林純一の詩に挿絵をつけて
『ひとりでできるよ』を制作します。
これがちひろにとっての、初めての絵本となりました。


 この頃のちひろの絵には、少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな
民衆の子どもの姿を描くべきなどの批判が多くあり、ちひろ自身もそのことを深く思い悩んでいたようです。
転機となったのは、1963年(44歳)の時です。
雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当するようになったことが、
その後の作品に大きく影響を与えることになりました。



「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはこれまでの迷いを捨て、
自分の感性に素直に描いていく決意を固めます。
1962年に書かれた作品『子ども』を最後に、油彩画をやめて、これ以降は、もっぱら水彩画に専念することになります。
この後に今日ではよく知られている、透明水彩の色調の中に繰り広げられるあくまでも
淡く・優しく・美しい・ちひろの世界が花開きます。



 「透明水彩の絵の具の使いこなしが、非凡で独創的だね。
 にじませたり、たらしこんでみたり
 独特のぼやかした輪郭の技法を駆使した上に、これ一本しかないという、
 説得力を持つ線で対象物を描ききっているんだよ。
 なみに技術力では、とてもここまでの表現がはできない。
 レイコ・・・この人はデッサンの天才だ。
 こんな凄い描線も初めて見たよ、
 子供たちの表情は、実に無邪気で、
 まるで生きているようだ。」



 「ほんとう。
 どれも生き生きとした愛らしい子供たちだわ。
 原画の持っている技法のことは、私にはよくは解らないけど、
 たしかに、すごい説得力を感じるもの。
 順平が言うように・・・
 この人は、天才よね。」



 「たしかにね。
 この人の才能には、嫉妬さえするね・・・」






 
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