落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (39)

2013-12-31 11:37:08 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (39)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様 
深夜の囲炉裏端




 「・・・・あなたのただの杞憂であれば、いいですね」

 囲炉裏へ薪を足しながら、清子が小さく俊彦へささやきます。
ひと風呂浴びた小林青年が浴衣に着替えたあと、布団の脇に正座をして『お先に失礼します』と、
丁寧に一礼をしておりました、と小声で俊彦へ報告しています。


 「俺も、ただの、余計なお節介だと思いたい。
 しかし1日に3回も、何の目的もなさそうな場所で遭遇をしたとなると、やはりただ事で済まないだろう。
 もう少しここで様子を見ながら起きているから、君は先にやすんでくれ。
 悪いね。俺の勝手な推測で君まで巻き添えにしちまって」


 「普段は石橋を叩いても渡らないほど、慎重な行動をしているくせに。
 こういうことに関してだけは、いたって敏感だもの。
 こうして些細なことから人の世話を焼くのが、あんたの甲斐性です。
 実際には何事もなく、朝になったらあの子が、すんなりと無事に出発をしてくれれば、
 それはそれで、肩の荷が下ろせることになるでしょう。
 どうするか、どうなるのかは、すべてあの子が決めることです。
 私たちは、ただ、それを見守るだけのことしかできません。
 そんな風に考えているんでしょ。あんたも」


 「なかなか鋭いねぇ、君は。
 俺の心配事が当たっていたら、今夜は、長い夜になってしまうかもしれない。
 ひとり寝になるかもしれないから、今夜だけは、寝巻きを着て休んでください」


 「あら。それにはまったく、気が付きませんでしたねぇ・・・・。
 なぁんだ、今夜は寝巻きを着てのひとり寝ですか、
 寂しいですねぇ。でも、ワガママを言っている場合ではありません。
 非常時ですから仕方がありません。
 『忍ぶ川」も、今夜だけは、諸事情によりお休みと相成りますか。うふふ」



 清子が言う『忍ぶ川』とは、 雪国では裸で寝るほうが温かいのだと書いた三浦哲郎の小説のことです。
『あたしも寝巻きを着てはいけませんの?』『ああ、いけないさ。あんたももう雪国の人なんだから』
映画では、東京の下町の料亭で働く娘(栗原小巻)と、彼女にひかれて店に通う大学生(加藤剛)の
2人が、気品のある純情と愛の美しさを存分なまでに見せてくれます。


 お互いに暗い過去を持つ二人は、それぞれの境遇を語り合ううちに愛情が芽生え結ばれる、という物語です。
男の故郷、雪深い米沢で初夜を迎えた二人の会話が、先ほど紹介をした有名な会話です。
志乃を演じた栗原小巻もこの時はまだ、初々しさが香る清廉な22歳。
つぶらな瞳が、匂うような可憐さと気品を、画面いっぱいにただよわせています。
かつての日本の若者たちは、こんな生き方をしていたのだったと、しみじみと思わせるような
そんななつかしい想いと詩情を、たっぷりと描いた作品です。
清子は、この小説と映画が、ともに大好きなのです。


 「私もこれで、先に休まさせていただきます。では最後に・・・・」



 と、清子の切れ長のいつもの目が、妖艶なままに俊彦をのぞき込みます。
『チューはやめとけよ。チューだけは。非常時だ。遊んでいる場合じゃない』この修羅場でと俊彦が
あわてて顔をそむけてしまいますが、清子の唇は、的確に俊彦の頬を捉えてしまいます。
『一回パスをすると高くつきますよ・・・うふふ』と、耳元へ笑い声を残します。

 
 『まったく・・・・』君は、と言いかける俊彦を尻目に、清子が床から立ち上がります。
作務衣に隠された清子の丸いお尻が、挑発するように、ゆらゆらと揺れながら
奥の寝室へ向かって消えていきます。
パチンと爆(は)ぜた火の粉がひとつ、点滅を繰り返しながら天に向かって立ち上ります。


 『さて、と・・・・この先は、いったいどうなることやら・・・』
茶碗を持ち上げた俊彦が、傍らの一升瓶を手にします。
なみなみと注いだあと、ふと清子が座っていた嬶座(かかざ)の辺りに目をやります。
いつのまにか丸いお盆が置いてあり、布巾の下には肴の支度の様子が見えます。
『長期戦になるかもしれませんねぇ。まずは焦らず、じっくりと構えて頑張ってくださいな』と笑う
清子の姿が、まるでそこに有るような佇まいさえあります。



 山あいにある孤立集落では、夜が更けるのに連れて、さまざまな物音が飛び交いはじめます。
昼間には決して聞こえてこなかった小さな物音たちまでが、俄然として、息を吹き返してきます。
山に住む小さな獣たちのほとんどが、夜行性です。
視覚が発達をしている鳥類の大部分は昼行性ですが、フクロウやゴイサギ、ミゾゴイ、ヨタカ、
タマシギ、ヤマシギなどは夜行性で、夜になると、その日の捕食活動を開始します。
さらに、息を潜めたまま暗闇に隠れている大きな獣たちの、その息使いまで聞こえてくるような
気配までが、どこからともなく漂ってくるから、これもまた夜中特有の不思議さです。

 
 
 乾いた古民家とは言え、深夜になると、家全体が静かに呼吸などをはじめます。
ピシッという鋭い音が、深夜の空気を切り裂く瞬間がやってきます。
長年を経過した古民家の木材といえども、そのすべてが、細部や内部にわたって乾燥を
し切っているわけではありません。
ほんのわずかに残った水分が、人の寝静まった深夜になると、ふたたび自らの存在を示すような意味合いで、
大きな音を立てて、いまだに割れ目を入れることがあります。
ミシリ・・・・と、奥の部屋から、廊下を踏みしめる小さな音が聞こえてきました。






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『ひいらぎの宿』 (38)

2013-12-30 06:25:22 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (38)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様  
静かな空気のままに 
 



 日本の伝統的な古民家は、床敷きの部屋と土間の空間が大黒柱を軸に結合をした形を作っています。
囲炉裏が切られるのは多くの場合、床敷きの部屋の中央部分です。
マッチなどによる着火が容易でなかった時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や
照明具の火種として使われてきました。
燃料は、煮炊き専用として作られた「かまど」とは異なり火力よりも、火持ちのよさが重視されています。
現代家屋では煙の出ない炭火が用いられることが多いのですが、古い持代においてはコストのかかる炭火は
むしろ火鉢専用として使われ、囲炉裏では、大割りした薪が用いられることが多いようです。


 暖をとるために用いられるほか、食物の煮炊き用にも使われます。
自在鉤(じざいかぎ)や五徳などを用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なってきました。
魚などの食材を串に刺し火の周囲の灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも多かったようです。
徳利を灰に埋めて酒を燗する場合などもあります。
北陸地方の場合、竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、それまではあらゆる煮炊きを
囲炉裏で行なってきたという歴史があります。
温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれてきたようです。


 囲炉裏はまた、家族や人を集結させる場としての機能も持っています。
食事時や夜間は、自然と囲炉裏の回りにおおくの人が集まり、会話が生まれます。
家族の着座場所が端然と決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能などもあります。
着座場所の名称は地方によって異なりますが、例えば横座、嬶座(かかざ)、客座、木尻または
下座(げざ)といった風に呼ばれています。



 土間から見て奥が家長専用の横座です。その左右が主婦のすわるかか座(北座)と、客人・長男・婿のすわる客座(向座)、
土間寄りが、下男や下女たちのための木尻と定まっているようです。
部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくさせます。
また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺の屋根、藁屋根の建材に浸透し、
防虫性や防水性などを高めてくれます。



 「囲炉裏の火というものは思いのほか、暖かいんですねぇ。
 紙と木材だけで作られた古民家が、囲炉裏の火だけでこんなに暖かいとは驚きです。
 凄いものがありますね、先人たちの知恵というものには・・・・」


 温かい食事が済みすっかり落ち着いたのか、小林青年がどっしりとした梁を見上げながら感心をしています。
屋根裏をむきだしのまま横切っていく黒々とした梁の太さが、この家の屈強さを物語っています。
イギリスの住宅寿命は141年。フランスやドイツなどのヨーロッパの国々は、石造り建築の文化がある為、
住宅の平均寿命は、100年に迫るという長さを誇っています。
消費大国で、モノを使い捨てるようなイメージがあるアメリカは日本と同じように、木造の住宅が多いものの
それでも103年という長い寿命を保っています。


 これらにたいして日本の木造住宅は、わずかに30年の寿命しかありません。
古民家の屋根裏や骨組みの様子を下から見上げると、圧倒的な木材の太さと逞しさに驚嘆をします。
くねった曲線をそのままに生かし、表面を荒々しく削ったままで硬質の肌をそのまま見せる木材たちの
存在感というものに、無言にうちに圧倒をされてしまいます。
真っ直ぐの木材ばかりを使う製法にこだわりすぎて、細い柱や木材を使いすぎたことが
近代日本の住宅寿命の短さを生み出す結果になってきたのです。
100年の歳月を乗り越えて、いまだに微動だにしない古民家の屋根裏からは、そんな声が
まさに、静かに聞こえてきそうな気配さえ漂ってきます・・・・


 小林青年が思わず、囲炉裏の傍らで生あくびを噛み殺します。
腹が満たされたことと、目の前で滔々と燃える炎から来る暖かさが、思わずの安心感と眠気を誘ったようです。
『あら・・・・』それを見つけた清子が、小さくクスリと笑います。



 「奥の部屋に、お布団の支度などができております。
 別棟を旅籠にするためただいま改装中ですので、出来上がるまでのあいだ母屋の一室を客間としています。
 お湯も湧いておりますので、一風呂をあびてから休まれてはどうですか。
 私たちもそろそろ休もうかと思いますゆえ」


 「あ。居心地が良すぎたために、つい長居などをしてしまいました。
 どうかもう、これ以上はお気づかいなく。僕はもうこれで失礼をしたいと思います」


 「いやいや。どうやら疲れているご様子だ。
 急いで帰る理由が無いのなら、遠慮しないで泊まっていってください。
 館林までなら朝早くに起きれば、通勤的にはなんの問題もないでしょう。
 あなたのおかげで、私も遭難をしないで済んだのですから。・・・・と言うのは少々大げさかな。
 清子。小林君を部屋まで案内をしてあげなさい」

 
 『はい』と清子が立ち上がります。
『遠慮なさらずに』と清子に重ねて促されると、素直に小林青年も立ち上がります。
『それではお言葉に甘えまして』俊彦へペコリと頭を下げると、安心をしたような足取りを見せながら
清子のあとについて、古民家の奥へと消えていきます。






(39)へ、つづく


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『ひいらぎの宿』 (37)

2013-12-29 11:43:52 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (37)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様 
囲炉裏端でのやりとり




 「見た通りの古民家だ。
 カミさんと2人で旅籠を始めようと、つい最近、移り住んだばかりだ。
 『旅籠』なんて言う古い言葉を、いまどきの若い人たちにはわかるかなぁ」


 「旅館のことですよねぇ。ウチの旅行部でも『旅籠』特集の企画をしています。
 古き良き日本の郷愁を誘うとかで、けっこう『旅籠へ泊まろう』ツアーは人気です。
 あ。足元に気をつけてください。ここの敷居、ちょっと高いようですから」

 青年の肩を借りながら戻ってきた俊彦の様子に、清子が驚いて囲炉裏端から立ち上がります。
薪が投入されたばかりの囲炉裏には、到着したばかりの客人の姿を歓迎するかのように暖かそうな炎が
赤々と揺れています。


 「まぁ。どうされました、あなた。大丈夫ですか、」


 「大事はないと思うが、散歩の途中で少しばかり足をくじいた。
 駐車場で偶然見かけたこちらの青年に、無理なお願いをして、ここまで乗せてきてもらった。
 いや、一時はどうなることかと思ったが、君のおかげで助かった。
 親切にしてもらった礼がしたいので、清子、すまないが急いでお茶と
 食事の支度などを頼む」

 「はい。承知いたしました」


 「あ、いや、僕は決してそんなつもりでは。
 無事に送り届けましたので、これで失礼をするつもりです。どうぞ、お気遣いなく」


 「そういう訳には、まいりません。
 この人には迂闊な行動がありまして、ときどき向う見ずなことをいたします。
 さいわい、親切なお方と遭遇をいたしたからいいようなものの、一人のままでは
 ここまで戻ってくるのにずいぶん、難渋をしたことだと思います。
 いま、温かいものなどを急いで用意いたしますので、遠慮なさらずに
 こちらへ。囲炉裏へどうぞ」


 にこやかに微笑んだ清子が、囲炉裏端を勧めてから台所へ立ち去ります。
上がり框(かまち)へ腰を下ろした俊彦も、『遠慮することはない。温まって行ってくれ』と
自らの靴を脱ぎながら青年を見上げています。



 「山の中のことだ。
 草木ダムが観光地とは言え、日が暮れてしまうとこのあたりの店は終わりが早い。
 食事ができそうな店や食堂も、残念ながら、この近場には見当たらない。
 ろくなものは出せないが、温かいものくらいならできるだろう。
 遠慮しないで上がってくれ。それともなにか、先を急ぐ特別な用事の途中かな?
 それならば、引き止めてしまうのは迷惑にあたるが、そうでなければ
 遠慮しないで上がってくれ」


 「はぁぁ・・・特にこれといって、急ぐ用事などはありませんが」


 『君の好意に、感謝をしている』遠慮しないでと、囲炉裏の奥から俊彦が手招きをします。
追加された薪に本格的に火が移ってくると、真っ赤に立ち上がる炎が室内を一層明るく照らし出します。
『囲炉裏端というのは、生まれて初めてです』と、青年が火の傍で正座をします。
青年のちょうど目の前に、一本だけの残されたイワナが竹串のまま灰の中に突っ立っています。



 「それは今日、渓谷で釣ってきたばかりのイワナだよ。
 黒坂石のキャンプ場下のあたりだが、そういえば、午前中に君の車をそこで見たような気がする。
 館林市といえば県南の町だが、そこからここまで営業活動にやって来るのは遠いだろう。
 JA(農協)も最近は合併などがすすんで、将来的には県内でも3つか4つに統合されるという話だ。
 吸収合併が進むということは、守備範囲が広域化をするということになる。
 そうなると、勤めている人たちは毎日が大変だ。
 まさに、今日の君のように、1時間半以上もかけてこのあたりまで
 仕事で飛んでくることが、毎日の日常になる」


 「あらあら、あなた。くつろげと言っているくせに矢継ぎ早に勝手に自分ばかりが
 話を進めていたのでは、お若い方の緊張が、何時までたってもほぐれません。
 食事の支度が整いました。
 有り合わせのものしかありませんが、お腹の足しくらいにはなるでしょう。
 あら、そういえばお会いしてからまだ、お名前などを伺っておりませんねぇ。
 不都合などがなければ、教えていただけますか。
 私はこれの家内で、清子と申します」


 「あ。ご挨拶が遅れました。
 JA館林に勤めている小林といいます。まだ勤め始めて2年あまりの、駆け出し者です」

 青年が、崩しかけていた膝をあわてて元の状態に戻します。





(38)へ、つづく


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『ひいらぎの宿』 (36)

2013-12-28 10:42:25 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (36)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様 
白い車に乗っている青年は・・・・ 



 
 車を降りた俊彦が、ひとつ身震いをします。
日の落ちた湖の周囲には、今夜の冷え込みを予測させるヒヤリとした夜気が漂よっています。
アスファルトをコツコツと踏みしめながら、駐車場が見下ろせるカーブまで俊彦が戻ってくると、
街灯の下には、さきほどの白い車が、相変わらず白い排気を吐き続けています。
 

 「こいつは、予想外の冷え込みだな。
 できることなら、短期決戦で片付けないと、こっちの身体が先に悲鳴をあげそうだ。
 さてさて、お節介をかってでたものの、運転手が実際には何者かはわからない。
 注意をしながら、ひとつ、単刀直入で切り込んでみるか・・・・」


 ぶるっと身震いをした俊彦が、駐車場を横切りながら白い車に近づきます。
近づくにつれて運転席が見えるようになり、若そうな男の横顔がほのかに浮かび上がってきます。
『若そうな男だ。助手席側に人の気配は見えない。ということは一日中、ここのあたりを
独りで居たということか。やはり、帰れない訳が実はあるという意味かもしれん・・・』
運転席まで数歩というところまで近づいた俊彦が、そのまま速度を緩めずに距離を詰めます。
運転席の窓ガラスを軽くノックします。
既に近づく気配を察していたのか、半分ほど運転席の窓ガラスが開いていきます。



 「夜分に申し訳ない。
 ちょうどよいところで車を見かけたもので、図々しくお邪魔をした。
 このすぐ上に最近越してきたばかりの者です。先ほど散歩に出てきたのはいいのですが
 不注意なことに、そこの斜面で足をくじいちまった。
 車なら5~6分の距離だが、坂道をこのくじいた足で上がっていくとなると、
 少しばかり辛いものがある。どうだろう。ものは相談だ。
 ぶしつけなお願いで申し訳ないが、俺の家まで乗せて行ってくれないだろうか。
 怪しいものじゃない。ついこのあいだまで、桐生市で『六連星(むつらぼし)』という
 蕎麦屋を営業していた者で、名前は俊彦という。
 乗せてくれるとありがたいな。この寒さで、少しばかり身体までキツくなってきた」


 運転席の男から、即座の反応は見えません。
考え込んでいる様子もなく、ただ、心ここに有らずという目で、じっと俊彦を見つめています。
『無理かな?。もう一歩、気持ちの中に踏み込む必要がありそうだな・・・・』さて、
次の一手はと俊彦が逡巡をはじめたその瞬間、男が『どうぞ』と助手席のドアを
指し示します。



 気が変わらぬうちにと、いそいで車を半周した俊彦が助手席のドアを開けます。
温められた車内の空気の中には、鼻をついてくるタバコの異臭がかすかにながら混じっています。 
しかしこの異臭も、先程まで青年が喫煙していたという訳ではなく、既に長年にわたり
車に染み付いてきたというような気配がしています。
『複数の人間が乗り回す、営業車独特の匂いだな。なるほど、タバコをやめて3年も経つと、
麻痺をしていた鼻の嗅覚も、こんな微細なタバコの匂いまで即座に嗅ぎ分けるようになるんだ。
なるほど、たったいま、初めて気がついた』



 「あのう・・・・道はどう行けば・・・・」



 ハンドルを握りしめたままの青年が、おずおずと声をかけてきます。
ライトを点灯し、走り出す準備を整えた青年が、運転席で早くも俊彦の指示を待ち構えています。


 「ありがとう。助かった。
 駐車場を出たら、湖畔の道を左方向へ直進してくれ。
 500mほどで山へ登る小さな道と遭遇をする。その道を4~5分も登って行けば俺の家だ。
 わるいねぇ、ほんとに助かった」


 『いえ、どういたしまして。お互い様です、困ったときは』と口の中でボソッとつぶやいた青年が
ギャを前進に入れると、同乗者をいたわるような静かな動きで、駐車場をあとにします。
湖畔に沿って周遊をしていく道路に街灯はありません。
暗闇を照らし出していくライトの光の輪が、なんどかのカーブを照らし出したあと、
闇の中から、山腹へ向かう分岐の小道を浮かび上がらせます。



 「その道だ。さほど急勾配というわけではないが、曲がりくねっている厄介な道だ。
 悪いねぇ。面倒なことを君に頼んじまって。」



 『いえ、お互い様です』と青年は、同じ言葉を静かに繰り返します。
ゆっくりと坂道を登り始めた青年の車は丁寧な運転を続けたあと、数分後にひいらぎの生垣に到着をします。
『中まで入ってくれるとありがたい』という俊彦の言葉に素直に従った青年が、
低速を保ったまま、用心深く古民家の庭の中へ乗り入れていきます。


 「安心をしたら、なんだか、くじいた足が急に痛み始めてきた。
 甘えついでで君には大変に申し訳ないが、家に入るまで少しばかり肩を貸してくれないか。
 悪いねぇ。おんぶに抱っこみたいな話で、恐縮するよ」


 『いえ。お互い様ですから』と3度目の同じ言葉をつぶやいた青年が、シートベルトを外すと
軽快な足取りで車を半周し、外側から助手席のドアを開けます。
『独りで降りられますか?。なんなら、手を貸しましょうか?』と俊彦の顔を覗き込みます。


 「ありがたい。好意に甘え、少し支えてくれると助かる。
 君みたいに優しい青年と行き合うことが出来て幸運だった。助かったよ、ありがとう」






(37)へ、つづく

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『ひいらぎの宿』 (35)

2013-12-27 10:13:03 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (35)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様 
気になる白い車と、3度目の遭遇




 『じゃな。今度は杉原と2人で、お前さんたちの宿作りの陣中見舞いにやってくるから』と、
片手を上げた岡本が、定刻通りに山あいを下ってきたディゼルカーに、ヒョイと乗り込みます。
夕闇が濃厚になってきた谷底の無人駅から、あっというまにディゼルカーの赤い尾灯は鉄橋を越え、
山腹を貫ぬいていくトンネルの中へ、その姿を消していきます。


 「あっというまに電車が、渓谷の先のトンネルに消えて、お別れです。
 足尾線のお見送りというものは、のんびりと、名残を惜しむ暇もありませんねぇ。
 さすがに、人の少ない辺境の鉄道ですね・・・・」


 清子が拍子抜けしたようにホームから、電車が呑み込まれていった鉄橋の先を見つめています。
神戸駅は、「富弘美術館」の最寄り駅として、土日や祝日には大変な賑わいぶりをみせますが、
平日の夕方時刻にこの電車を利用しようという地元の人の姿は、
ほとんど言っていいほどありません。



 駅前には、大型観光バスが数台止められるスペースが確保されているほか、
路線バスの方向転換が、一度で出来るほどの広さを保有しています。
さらに離れた場所に、自家用車を20台ほど停められるスペースも持っています。
こうした利便性から無人駅でありながら、草木湖湖畔へのアクセスや、日光東照宮や中禅寺湖方面への
電車からバスへの乗り継ぎ地点として、たいへん便利に活用がなされています。



 「帰りはもう一度、堰堤上の道を走って、東の岸沿いに我が家まで戻りましょうか。
 気になるんでしょう、あなたは。あの白い車のことが?」

 「うん。やっぱり聞いていたのか、君も」



 「気になることと言えば、実は、もうひとつ有ります。
 岡本さんがやってきたのは、ただ単純に、渓流釣りを楽しむだけではないでしょう?
 もうひとつ、あなたへ大切な相談事などが有って、
 わざわざと、こんなところまでお見えになられたのと違いますか」
 
 「君は、なぜそんな風に思うわけ?」


 「女の第六感です。
 いいえ。もうピンと来ています。
 あなたたちの大切なお仕事の運営に、いま重大な支障が出始めたはずです。
 私のワガママを聞き入れてくれて、こんな辺境な地で私と一緒に暮らすために、
 あなたは長年の蕎麦屋をたたみ、アパートを引き払いました。
 別にこちらから通ってもいいと思っていたようですが、片道で1時間もかかるようでは
 それもやがては重荷になるでしょう。
 すべてのものを切り捨ててくれたあなたの決断ぶりは、実に見事です。
 ですがその潔(いさぎよい)あなたの決断が、その結果として、
 かなりの不都合などを生じさせてしまったようです。
 旅籠用として改装中の別棟を、今までのように、
 原発労働者のみなさんの、療養の場所として使えばいいじゃありませんか」



 「えっ。それでは、君の夢の邪魔をすることになるだろう。
 人情豊かな旅籠を、自然豊かな山の中に作りあげることが、君の当面の夢だろう」



 「男の人たちの夢の邪魔をしてまで、成し遂げようなどと考えてはおりません。
 病気で療養中の人たちを見捨てて、なんで人情の宿ですか。
 芸者を辞めたのは、あなた1人の女になるために、私が勝手に決めたことです。
 私が生まれて育ったこの地へ、終の棲家を作ろうと決めたのも、
 私の単なる都合と、わがままからのことです。
 あなたが休みの日に、ここへ通ってきてくれるだけでも充分だったのに、
 最初から一緒に住もうなんて優しいことを言い出してくれたんだもの。
 もう、これ以上に望んだらバチが当たりそうです。
 あんたの夢ならあたしの夢。あたしの夢もあんたの夢。
 ふたつを足して2で割れば、局面ごとに夢の形というものも変わっていくもんでしょう。
 どう。あんた。結構いい女でしょう、あたしって」


 「うん。確かにいい女だ。たった今、君に惚れ直した」



 「あっ・・・・などと艶めいた会話などを、こっそりと楽しんでいる場合ではなさそうです。
 どうやら、あなたの懸念が当たりそうな気配が漂ってまいりました。
 さきほどの堰堤上には見当たりませんでしたが、人気のない東岸の駐車場に、
 それらしい先程の、白い車の様子などが見えます」


 前方の駐車場の一角に街灯を浴びながら、暗闇にほのかに浮かび上がる
白い乗用車の姿が接近をしてきます。
赤いテールランプが光っているところを見ると、エンジンは始動しているようです。


 「どうしましょう、あなた。
 こうなるとやっぱり放っておけないでしょう、あなたとしては。
 これで、3度目の遭遇ということになりますし」


 「そのまま、通り過ぎてくれ。
 その先で山裾を回り込んだところで、俺を降ろしてくれ。
 思いすごしなら構わないが、どうも最初に見かけた時から気にかかっていたんだ。
 場所といい、時間帯といい、どうにも不自然な気配を感じる。
 ちょっと事情を確かめてくるから、君はこのまま先に戻っていてくれ。
 場合によっては、連れて行くかもしれない」



 「分かりました。
 見過ごしができない人ですからね、あなたという人は。
 でも、無理強いなどをしてがダメですよ。人にはそれぞれ都合というものがあります。
 などと忠告しても、あなたには無理か・・・・
 困っている人を見ると、放っておけない性質だもの。
 そのくらい私にも執心をしてくだされば、もっと早めに所帯がもてたのに、ねぇ。
 うふふ。野暮なことを、ドサクサにまぎれてつぶやいてしまいました。
 不謹慎そのものです。まったくこの場にはふさわしくない、
 愚痴、そのものですねぇ」


 『何があるのかわかりません。くれぐれも気をつけてください』と、
山裾を回り込んだ暗闇で清子が静かにブレーキを踏み、車を停止させます。





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