落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第100話 メトロに乗って

2015-01-31 10:37:05 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第100話 メトロに乗って





 パリの中心部は、20の行政区に分けられている。
中心から左に渦を巻くように、1区から20区までの番号が振られている。
中心部は、山手線の内側ほどの面積しか無い。
ここにパリっ子の200万人が住み、郊外には1000万人が住んでいる。


 朝の道路の混雑ぶりは、日本の東京と同じだ。
いまほどの車社会になる前に完成した市街地なので、どこもかしこも大渋滞をする。
パリっ子たちの多くは、16路線あり、300の駅が有るメトロを利用する。
メトロは朝5時から深夜の2~3時まで、数分毎に走っている。
駅間が短いため、目的地へ最短距離で行くことができる。
路線の交差もおおいため、乗り継ぎをしていくのも、きわめて便利だ。


 「メトロは便利だけど、そのあとが不便なの。
 乗車時間は10分だけど、降りてからの徒歩が、20分以上もかかります。
 こんな不便なところにどうして建てたのだろうと思うほど、辺鄙な場所なのよ。
 だもの、学生たちの出席率は、必然的に低くなるわ」


 「なんという名前なの。君が通っている大学は?」
サンドリーヌとともにメトロに乗り込んだ似顔絵師が、通路の真ん中にある
棒に、しっかりと掴まっている。
古い路線は、車内の揺れがきわめて激しい。
とてもではないがパリの初心者では、普通に立っていることが難しくなる。



 「国立装飾大学です。
 1868年に開かれたアトリエで、画家のボナールやマチスを輩出しています。
 いまはグラフィックと、室内建築に特化した大学です。
 わたしが専攻しているのは、グラフィックデザイン」


 「グラフィックデザイン?。
 デザイン専攻の君が、なんでヌードデッサンの勉強なんかするの?」


 「最初の2年間は、徹底的に、基本のデッサンを叩き込まれます。
 大学の1年目は、誰でも入れる準備学級です。
 グラフィック科に250人。建築科に300人が、簡単な試験を受けて入学します。
 年末に試験が有り、ここで半分以下に学生が振るい落とされます」



 「半分に振るい落とされる・・・ずいぶん厳しいんだねぇ。君の大学は」

 
 「わたしの大学だけでは有りません。フランスでは、ごく普通のシステムです。
 こんなことは序の口で、本当に厳しいなるのはその先からです。
 3年生になると、宿題に追われる毎日が続きます。
 でもって、平均点が取れないとクビ。
 遅刻をすると、教室に入れてもらえません。
 ひと月に3回遅刻すると、親宛に警告の手紙が届きます。
 もちろん欠席が多すぎると、こちらもクビになります。
 病欠の場合は、医者の診断書がなければ、その日の課題は0点がつきます」


 「なるほど。入学するのに苦労している日本とは、だいぶ事情が異なるね。
 能力が足りなければ進級も、卒業も出来ないってわけか」


 「その通りです。
 4年になると、卒業作品の製作に入ります。
 ただし、一学期と二学期の成績が規定以上に達していないと
 卒業作品を作る資格がもらえません。
 もちろん。卒業作品のできが悪いと、卒業することができません。
 再挑戦はできませんので、クビということになります。
 卒業できるのは、結局、10人から20人くらいになってしまいます」



 「日本の大学とは大違いだね。
 で。君はいま、大学のどの段階にいるんだい?」



 「無事に卒業して、アーテイストデイレクターのディプロムをもらいました。
 ディプロムというのは、資格という意味です。
 でもね。資格を活かして仕事することよりも、もうひとつの仕事のほうで
 いまの私は、とっても忙しいの」


 「カフェのアルバイト以外にも、仕事を持っているというのかい?。
  そういえば卒業したというのに、古巣の大学へ通っているのはいかにも不自然だ。
 なにか、隠された事情でもあるのかい?」


 「大学へ行けば分かることです。うっふっふ」


 全身、黒い衣装に身を固めたパリジェンヌが、鼻の頭に小じわを寄せ、
嬉しそうに、くくくと小さな声で笑う。

 
  
第101話につづく

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おちょぼ 第99話 サンドリーヌの朝

2015-01-30 11:58:05 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第99話 サンドリーヌの朝



 
 翌朝。似顔絵師がサンドリーヌのベッドから聞こえてくる、さわさわと
触れ合う衣擦れの音で目を覚ました。
目を覚ました瞬間。見覚えのない天井の様子に、自分がいまどこに居るのか、
覚醒するまで少しばかりの時間がかかった。


 (そうだここは、昨日知り合ったばかりのサンドリーヌの寝室だ・・・)


 日本風にいえば、8畳ほどの寝室だ。
壁に寄り添う形で、2つのベッドが隙間を取らずに並んでいる。
そのまま新婚カップルが使いそうな、ベッドの並べ方だ。



 「あら。一人暮らしのパリジェンヌの部屋に、ベッドが2つあると可笑しいの?。
 不意のお客さまに備えて、置いてあるだけよ。
 訪ねてきた大切なお客様を、まさか、床に寝かすわけにはいかないでしょう。
 うふふ。怖い男は出てこないから、安心してください。
 このベッドに最初に眠るのは、遠い日本からやって来たあなたですから」


 とサンドリーヌは昨夜、サラリと笑ってみせた。
カーテンの隙間から、パリの冬の陽ざしがゆらゆらと差し込んでくる。
目は覚めたものの、こんな風に冷えこむ冬の朝は、温かみの残るベッドから
簡単に出たくはない。

 何時だろうと時計を探し始めた似顔絵師の耳へ、またなにやら
ごそごそと動く気配が聞こえてきた。
(何の物音だ、朝っぱらから。なんだか見るからに怪しそうな動き方だな・・・)
興味を覚えた似顔絵師が、おそろおそる隣のベッドへ目を凝らす。
花柄の可愛い布団が、怪しく上下に揺れ動いている。



 (なんともセクシーな動きかただ。
 夜中に誰かが、この部屋に忍び込んで来たのかな。
 俺が眠っているあいだに、誰かがサンドリーヌのベッドにもぐりこんで、
 よからぬことでもしているのかな・・・
 それとも朝っぱらから、ひとりで、いかがわしい事でもしているのかな?)


 気が付かなかった振りをして、似顔絵師がそっとベッドから抜け出す。
そのままトイレに姿を消そうとした瞬間、起きてきたばかりの背後からサンドリーヌの
声が似顔絵師を追いかけてきた。



 「変な風に誤解しないで頂戴。
 これはパリジェンヌの朝の日課。手シャワーです。
 冷える冬の朝は、ベッドからなかなか出たくないものでしょ。
 ギリギリの時間まで、二度寝をしたいくらいです。 
 でもそれじゃ、遅刻をしちゃうし、朝食も手抜きになります。
 朝からすっきり目覚めるため、パリジェンヌたちのあいだに流行っているのが
 身体を目覚めさせてくれる、この、手シャワーなの」


 「へっ?。手淫じゃなくて、手シャワー・・・でも何なの、それって?」
驚いた顔のまま似顔絵師が、トイレの前で立ち止まる。


 「手淫?。初めて聞く日本語だわね。
 言葉の響きからしてなにやら、よからぬことを連想させますねぇ。
 まぁいいわ。手シャワーは、一度覚えるとクセになるの。
 男性にも有効な方法です。教えてあげますから、一緒にやりましょう!」



 サンドリーヌが、花柄の布団を元気よく跳ね上げる。


 「つらい朝でも気分よく、簡単に起きることができるのよ。
 まずは、ベッドに横たわったまま、手が温かくなるまで両手をこすりあわせます。
 手が温まったら、顔をやさしくなでます。
 水をすくう時の手の形のように、指の間にすき間ができないようにして
 やや丸める形で最初に頭蓋骨、次に耳の後ろ側から首もと、肩、
 胸もとにかけて、円を描くようにまわしながら撫でていきます。
 同じ様に腕、足、お尻からつま先まで、丹念になでます。
 最後に、ベッドからおき上がり、窓を少し開けます。
 外気を大きく吸い込んで、深呼吸をするの。
 ちなみに、起きてすぐの深呼吸は、身体の中にたまった毒素を
 4分の3まで減らしてくれるそうです」



 「なるほどね。確かにその方法は健康にはよさそうだ。
 だけど君。夕べのようなワインの飲み過ぎは、精神的に良くないぜ。
 問題は今朝の、君のその格好だ。
 パジャマを脱ぎ捨てたままの、まったく無防備といえる格好だぜ。
 君のその、なんというか、ほとんど裸といえる状態がまぶしくてたまらない・・・
 それを見ているだけで、手シャワーなんかしなくても、
 朝から元気になっちまいそうだ・・」


 あっと声を上げたサンドリーヌが、裸体に近い自分の姿にはじめて気が付く。
顔を真っ赤に染めたサンドリーヌが、慌てて毛布をかき集める。
ぐるぐると毛布を身体に巻き付けたあと、猛ダッシュで、シャワールームへ
逃げ込んでいく。

  
第100話につづく

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おちょぼ 第98話 ヌードデッサンの誘惑

2015-01-29 09:30:06 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。



おちょぼ 第98話 ヌードデッサンの誘惑


 
 サンドリーヌは、おしゃべりだ。
6時頃からはじまった夕食が、8時を過ぎてもまだ終わらない。
会話の合間にサンドリーヌはワインを飲み、チーズを口に運ぶ。
そんなに食べたらたっぷりと肥りそうだと、似顔絵師は心配顔で見つめているが、
当のサンドリーヌは、会話とワインとチーズを心行くまで楽しんでいる。



 「チーズには、内蔵脂肪を減らす効果があるの。
 脂肪燃焼率をあげてくれる必須アミノ酸や、ビタミンB2が含まれているから、
 ダイエット中に起こりがちな、肌荒れの心配も解消してくれます。
 でもね。ダイエットのためにもうひとつ、大切なことがあるの。
 1日に、1.5リットル以上の水を必ず呑むことです。
 水をたくさん身体に入れることで、体内の水分量を一定に保つことができます。
 毒素も排出してくれるので、綺麗な体を維持することができるのよ」


 サンドリーヌのお喋りは、何時までたっても終わる気配がない。
長い髪をふわりと左右に揺らした後、今度はワインを片手に、テーブルへ頬杖を突く。


 「で。1年半の放浪の末、イギリスから来たばかりというあんたの、
 フランスでの目標は。いったい何なの?。
 あちこちで絵の勉強をしてきたという点は、よくわかったわ。
 で、まさか、モンマルトルの丘で観光客たちを相手に、絵を描きたいなんて
 考えていないでしょうね?」



 「実はそれも、考えている。
 実益をかねて、絵を描きながら過ごせれば最高だと考えているんだが、
 君の口ぶりだと、広場で絵を描くことは無謀のようだね」


 「風景画や肖像画、似顔絵などを書くパリ市公認の画家たちが、120人。
 それぞれが1m四方の自分の場所をもらい、商売をしています。
 これからパリ市の公認資格を取るのは、至難の業です。
 運よく資格が取れても、120人と言う定員に空きは一切有りません。
 パリにやって来たばかりのあんたなんか、誰も相手にしてくれないでしょう。
 テルトル広場で絵を描くことは、無茶なことだと思います。
 悪いことは言わないわ。諦めたほうが無難です」



 冷たく言い切ったサンドリーヌが、しげしげと似顔絵師の顔を見つめる。
「そう言えば、あんた。絵画の知識は確認したけど、肝心の腕前は未確認ですねぇ。
明日、大学でヌードデッサンの教室が有るけど、あたしと一緒に行って見る?」
酔った眼のサンドリーヌが、突然、大胆なことを口にする。



 「大学でヌードデッサンの教室?。
 大学の授業だろう。俺みたいな旅行者が突然顔を出しても、大丈夫なの?」


 「平気よ。貴方は日本から来た美術大学の卒業生だもの。
 聴講生の真似をしていれば、絶対にばれません。
 月曜と火曜日は、ごちゃまぜでモデルさんたちがやって来る日。
 20代の若い子から70歳のおばあちゃんまで、誰が来るのか当日まで
 秘密だから、当たりと外れの大きい日。
 でもって、金曜日はゆいいつ、男性モデルがスッポンポンになってくれる日。
 あいだに挟まれた水曜と木曜が、女性のプロモデルが登場する日。
 明日がちょうどその水曜日。あなたはとっても運が良いわ。
 ピチピチのパリジェンヌが、望みのポーズをとってくれる最高の日だもの。
 わたしと一緒に大学へ行きましょう、貴方の腕試しも兼ねて。
 どう。悪くない提案でしょ?」


 いきなりの提案に、似顔絵師がおおいに戸惑う。
ヌードデッサンは初めてではない。
大学で学んでいた頃も、プロを呼び、教室で裸体を描いた経験がある。
有志によるゼミでも、受講生たちが交代で全裸になり、デッサンを繰り返した。


 新入りの1年生は、モデル役として真先に指名を受ける。
似顔絵師も数回にわたり、先輩女子学生たちの鋭い視線をあびながら、
羞恥心に耐えて、全裸モデルの役目を果たしたことがある。


 パリジェンヌの裸と言う言葉に、似顔絵師の心がいつの間にか揺れはじめた。
「じゃ。そういう事で決まりね。うふふ、今から明日が楽しみ!」
と、サンドリーヌが目を細めて嬉しそうに笑う。

 
第99話につづく

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おちょぼ 第97話 パリジェンヌの夕食

2015-01-27 09:42:38 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第97話 パリジェンヌの夕食




 パリに有るアパルトマンはどれもこれも、見るからに時代を感じさせる。
それもそのはずだ。
観光地としての現在のパリの街並みは、今から100年以上も昔。
19世紀後半に完成をした風景なのだ。


 だが古びた外観とは裏腹にひとたび建物の中に入り、らせん階段を上り、
ドアを開けるとまったく別の世界が目の前に現れる。
驚くほど現代的で、住みやすそうな空間が、ドンと目の前に出現する。
古い建物を大切にしつつ、それぞれに自分だけの快適な空間を作りあげていくのが、
パリに住むパリっ子たちの暮らし方だ。



 パリジェンヌのサンドリーヌも、例外ではない。
部屋の中の家具は、目にも鮮やかな色彩で統一されている。
漆喰の白い壁の色に、ビビッドな青や赤の原色がとても綺麗に映える。
鮮やかな色合いは人間の視覚に、良好の刺激を与えてくれる。
気持ちをリフレッシュさせてくれるし、様々なアイディアを生み出す源泉になる。
鮮やかな色使いは生活をより充実させるため、この世に存在している。


 「そのあたりに、大人しく座っていて」と、サンドリーヌがキッチンへ消えていく。
(住みやすそうな空間だなぁ・・・)と主の消えた部屋で似顔絵師が
無遠慮な目で、隅から隅まで、女性が一人で暮らしている空間を見回していく。
正面に、壁一面の大きな本棚が有る。


 パリジェンヌは、本も大好きだ。
子供の頃から文学に親しみ、大人になっても日常の中で読書の習慣を大切にしていく。
個性を大事にするパリジェンヌたちにとって、読書は日頃から欠かせない。
自分の意見をしっかりと持ち、感性を磨くために、欠かせないアイテムになるからだ。

 いくら話題を呼んでも、日本人のようにベストセラーを追うわけではない。
自分だけの好きな作家を見つけ出し、気張らないスタイルで読書を楽しんでいく。
ベッドで読書するパリジェンヌの姿は、欠かせないシーンのひとつとして
フランス映画などによく登場をする。


 「出来たわよ」と、サンドリーヌがキッチンから戻って来た。
「ずいぶんと早いねぇ。さては君は、短時間でフランス料理を作る達人かな?」 
「作ったのはサラダだけ。あとは帰りの道で、適当に選んできたものばかりです」
さぁ遠慮しないで召し上がれと、テーブルの上にディナーを広げる。
いつものお店から買ってきたという、チーズとハムがまず目の前に置かれる。



 仕事の帰り道。パン屋に寄り、バゲット(フランスパン)を買い求める。
キッチンには常に、ワインが大量にストックされている。
野菜がたくさん食べたい時は買ってきた野菜をサラダに足し、子供達が居れば、
温かいスープを人数分だけ用意する。
乳製品と加工肉、パンとワインがとても美味しいフランスだから、
これだけで充分豪華な食卓になる。


 「君っていう女の子は、いつもこんな風にまったく見知らぬ初対面の旅行者を、
 自分の部屋へ、平気で引っ張り込むのかい?」


 「失礼を言うにも、限度が有ります。
 一宿一飯に生きるニッポンのヤクザだって、皮肉を言う前に、
 仁義として、先にわたしの食事を褒めるか、いただきますを口にします。
 お母さんから、そういう躾(しつけ)を受けなかったのかしら。
 親の顔が見たいですねぇ、あなたの。
 あ~あ、失敗しましたねぇ・・・日本から来た、見識のある画学生だと思ったら、
 粗野だけが取り柄の、礼儀知らずを釣り上げてしまいましたぁ」


 あっと大きな声をあげて、似顔絵師が椅子から立ち上がる。
すっかりサンドリーヌの部屋で知人のようにくつろいでいたが、よく考えれば
このパリジェンヌとは、出会ってからまだ半日と経っていない。
あわてて自己紹介をはじめようとする似顔絵師を、サンドリーヌがやんわりと
目で停める。



 「気にしないで。あたしも、あんたの浮世絵の見識ぶりに驚きました。
 あそこまで、的確に言い当てた人はあなたが初めてです。
 真面目に絵を勉強している人だという事は、逢った時からよくわかりました。
 でもね。初対面のマナーは、からっきし駄目なようです」


 うふふと、サンドリーヌがふたたび目を細めて笑う。


 「さぁ、食べましょう。時間なら、たっぷりと有りますから。
 フランス人は、食事にたっぷりと時間をかけます。
 親しい友人とお喋りしながら、楽しく、ゆっくりと食事を楽しむの。
 食事の時間を長くすることで、消化を助けます。
 朝ごはんは簡単に30分くらいで済ませるけど、ランチには1時間半くらいの
 時間をかけるし、ディナーには最低2時間をかけます。
 日本人は平均して、食事にセッカチすぎます。
 量が多くても時間をかけてゆっくり食べることで、パリジェンヌは
 消化のいい食生活を送ることが出来ます。
 だからね、ほら。あたしのように、パリの女性は、絶対に太らないのよ」
 
 
第98話につづく

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おちょぼ 第96話 サンドリーヌという女の子

2015-01-26 09:28:27 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第96話 サンドリーヌという女の子



 
 おしゃべりなアルバイトは、サンドリーヌという名前ですと自ら名乗った。
大学を卒業したばかりのグラフィックデザイナーだ。
日本語が達者に聞こえるのは、1年ほど東京の大学に留学した成果だという。
「冬のパリの日暮れはとても早いの。すぐに暗くなります。
まもなくあたしの仕事も終わりになりますから、表でもう一度逢いましょう」と
去り際に、お互いの携帯番号を交換した。


 ヨーロッパの主要都市は、日本列島よりもかなり北に位置している。
南に位置しているローマ(北緯41.5度)でさえ、同緯度といえる日本の都市は
青森市(北緯40.5度)だ。
日本最北端の稚内市(北緯45.4度)よりも、パリは(北緯48.5度)、もっと北にある。
ヨーロッパの主要都市が、日本よりもかなり北に位置しているにも関わらず、
温暖な気候であるのは、暖かいメキシコ湾流とその熱を運ぶ偏西風の
影響が有るからだ。


 11月から3月の冬期間に入ると、パリの日照時間は極端に短くなる。
夏なら22:00頃まで明るいが、12月の半ばに入った頃から16:30でもう、
パリの空はうす暗くなる。
サンドリーヌが「すぐに暗くなる」と言ったのは、この意味だ。



 日が落ちるとあれほど居た観光客たちの姿が、潮が引くように消えていく。
閑散とした広場から、目の前に見える下り坂を降りかけた時、約束通り
サンドリーヌから電話がかかってきた。
「ムッシュ?。いま、どこに居るの?」
「ムーランルージュで有名な、歓楽街の坂道を降りはじめたところだ。
前方に壁を見上げている観光客の一団が見える・・・なんだろうね、あれは?」
「壁抜け男の彫像ね。すぐに追いつくわ。動かず、そこで待っていて」
それだけを伝えて、サンドリーヌの通話が切れた。


 私服に着替えたパリジェンヌは、とびきりお洒落に見える。
息を切らして追いついてきたサンドリーヌは、カフェの制服の時とは
まったく別人の女の子だ。
洗練された装いが、引き締まったサンドリーヌの全身をさらに細身に見せる。


「あれ、意外にスリムなんだね君は・・・まったくの別人かと思った!」
「パリっ子は、流行なんかに流されず、試着をたくさん繰り返します。
自分の体のラインを、キレイにみせてくれる納得のアイテムが見つかるまで、
とことん吟味を繰り返すの。
いくら良いものでも、似合わないものは絶対に買いません」
うふふと笑ったサンドリーヌが、大きく膨らんだ紙袋をガサリと反対側の腕に回す。
空いた片手が、ひょいと似顔絵師の右腕を捕まえる。



 「壁に有るのは、モンマルトルの作家マルセル・エメの小説『壁抜け男』を
 モデルにした彫像です。
 俳優と彫刻家をはじめ多彩な才能を持っているジャン・マレ氏が
 1982年に製作した、路上の作品です。
 壁を抜ける能力を使い、パリ中を騒がせる大泥棒として暗躍していた男が、
 ある日、一人の人妻に恋をします。
 壁を抜ける特技を使い、夜な夜な人妻の元に通っていました。
 ところがある日。壁抜けが出来なくなる薬を間違って飲んでしまったため、
 壁抜け男は、壁の中に閉じ込められてしまいます。
 奇妙なお話を再現したこの像は、モンマルトルで一際目立つ場所に有るために、
 こうして観光客たちの、人気スポットになっているのです。
 ほら。面白いように、みんなが必ず立ち止まるでしょ。うふふ」


 モンマルトルの路地は奥に進めば進むほど、下町らしい情緒が深くなる。
美しく歳を重ねてゆく古いアパートの群れ。
街角で1軒だけ灯をともして、ポツンと営業しているカフェ。
そんな家々の間をうねるように、くねくねとどこまでも続いていく石畳の坂道。
ときどき、青い原色の鎧戸が目に飛び込んでくる。
壁と玄関を覆い尽くす様に、野生のブーゲンビリアが枝を伸ばしている風景。
階段を、ぼんやりと照らし出している古びたガス灯。 


 なんだか心がなごんでくる空気を感じ始めた頃、「此処よ」と言って、
サンドリーヌが街灯の下で立ち止まる。
だが似顔絵師が、暗い頭上を見上げて「あっ」と思わず驚きの声を上げる。
白い壁越しに、古い小さな十字架と、教会風の古ぼけた屋根が見える・・・・



 「うふふ。お洒落でしょう。もともとは修道院だったとても古い建物です。
 今は内部を、なんとかという有名な建築デザイナーが、※リノベーションを
 ほどこした、現代風の共同住宅(アパルトマン)です」


 「どうぞ」と言いながら、サンドリーヌが共同住宅の青いドアを開ける。
どうぞと言われても、相手は今日行きあったばかりの、パリジェンヌだ。
似顔絵師が躊躇っていると、中から
「早くして。ここは、男子禁制のアパルトマンなのよ。
誰かに見られたりしたら、あたしの立場がまずくなるじゃないの!」と
サンドリーヌの、鋭い声が飛んできた。


 ※リノベーション(renovation)とは、既存の建物に
 大規模な改修工事を行い、用途や機能を変更して性能を向上させたり、
 あらたな付加価値を与えることをいう※

 
第97話につづく

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