落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第122話 大晦日の朝

2015-02-28 12:51:22 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第122話 大晦日の朝




 ひと晩じゅう降り続いた雪は、夜が明けるころ、20センチを超えた。
窓から見える景色のすべてが、どこもかしこも厚い積雪の下だ。
雑魚寝の布団から、最後に起き出してきたサラが窓の外を見て「うわ~」と
大きな歓声を上げる。


 「話には聞いていましたが、綺麗なもんどすなぁ、雪景色というもんは。
 ウチ。こんなに雪が積もっているのを見るのは、生まれて初めてどす」


 亜熱帯生まれのサラは、本格的な雪を見るのは初めてだ。
窓に駆け寄ったサラが、ほんのりと曇っているガラスを忙しく左右に拭いていく。
「佳つ乃(かつの)姐さん。ご飯を食べ終わったら散歩へ行きまひょう。
ウチ。真っ白の雪の上に、下駄で二の字、二の字の歩いた跡を刻むのが夢なんどす。
こんなに早く夢が実現するなんて、嬉しい限りどす!」
とりあえず朝ごはんをいただきましょうと、サラが元気に部屋を飛び出していく。



 初めて体験した祇園の雑魚寝は、まったく眠ることができなかった。
正面に眠る佳つ乃(かつの)からは、成熟した女の香りが漂ってくる。
背後から浴衣一枚のサラが、ぺったりと、似顔絵師の背中へ張り付いてくる。
(まいったなぁ、とてもじゃないが男の生き地獄状態だ・・・眠れたもんじゃない。
こんな状態で眠れと言うほうが、残酷だろう)
咳払いをすると、背後ですやすやと眠っているサラの邪魔をするような気がして
なぜか、似顔絵師が必死で我慢をする。


 見かねたた佳つ乃(かつの)が、静かに身体を寄せてきた。
それがまた、似顔絵師に逆の効果をもたらす。
(腕枕・・・)小さくささやいた佳つ乃(かつの)が、静かに頭を持ち上げる。
隙間へ左腕を差し込んでいくと、「ウチもこんな風にされんのが、夢やった」
とつぶやき、音をたてないように似顔絵師の胸へ顔を埋める。
(もう寝ます)と佳つ乃(かつの)がささやく。
(あなたも寝たら)と、似顔絵師の右腕の上に、ほんのりと汗ばんだ指先を乗せる。


 大広間は、泊り客で3割ほど埋まっている。
のんびりと年を越していく湯治客が多いせいか、朝食の出足もゆったりとしている。
夕食よりもバラエティに富んだ、朝の弁当が並んでいる。
鯖フィレー、青菜のおひたし、ひたし豆、昆布の煮物、わらびと昆布と大根の酢の物、
温泉たまご、温泉大根粥、温泉味噌汁、ヨーグルトのキウイソースがけ。
温泉で炊いたお粥が付いているが、通常のごはんを選ぶこともできる。


 眼下に赤い橋とその下を流れる新湯川(あらゆがわ)が見降ろせる
窓際の席へ、3人が並んで腰を下ろす。
サラが甲斐がしくお茶を入れているところへ、おおきに財団の理事長が、
芸者見習い中の駒子を連れて現れた。



 「なんや。帰ってこんと思ったら、やっぱり佳つ乃(かつの)の部屋で邪魔しとんのか。
 すまんのう2人とも。迷惑じゃろう、我儘過ぎる孫娘には」


 「賑やかで、かえって、退屈しのぎができてます」と愛想笑いを返す似顔絵師に、


「相変わらず優柔不断な男やな、お前さんという男は。
迷惑やったらはっきりと言え。そうでないと、何時まで経っても2人きりにはなれん。
遠慮するという事を、生まれた時から知らない女の子じゃからな。この子は」
と理事長が、きっぱりと切り捨てる



 「そうでもおへん。うふふ。夕べは3人で、祇園の雑魚寝を堪能しました。
 大作はんも、美女の2人に前後を挟まれて、大満足をしたようどす。
 かないません。おかげでウチは朝まですっかりの寝不足どす」


 「なんと!。美女二人に挟まれて雑魚寝したとは、お前は果報者過ぎるのう。
 どうじゃ、今夜は駒子も引き入れて、5人で雑魚寝と洒落こむか!」


 「お祖父ちゃん。場所をわきまえてくださいな、酔狂にも限度があります」


 「冗談じゃ。雑魚寝などしたらワシの血圧がいっぺんに上がる。
 ワシが顔を見せたのは、まったく別の用件じゃ。
 明日から、新しい年がはじまる。
 湯治の雰囲気を味わいたいということで、本館の安い部屋を手配したが、
 正月の3が日から、弁当では味気がなかろう。
 佳松亭の正月料理を頼んでおいたから、3日間はワシのトコロへ飯を食いに来い。
 伝えたい用件は、それだけじゃ」


 じゃぁな、ワシはこれから伊香保まで挨拶に行ってくる、と駒子を連れて
おおきに財団の理事長が大広間から去っていく。
「ねぇ理事長と、あの駒子さんというのは、一体どういう関係になるの?」
2人の背中を見送った似顔絵師が、小さな声でサラに尋ねる。


 「はて。詳しいことはウチもよう知りまへん。
 舞子志望という事で、1度、京都まで来たことがあるそうどす。
 お祖父ちゃんのとこへ相談に来たそうどすが、すでに20歳を過ぎていたんどす。
 引き取ってくれる屋形が見つからず、結局、お祖父ちゃんが知り合いを紹介して、
 水上温泉で芸者見習いを、はじめたそうどす」


 えっ、幼く見えたけど、もう20歳を過ぎた大人なんだあの子は、と
似顔絵師が、2人が消えていった廊下を驚き顏で振り返る。

 
 123話につづく

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おちょぼ 第121話 お姐さんも、やせ我慢する

2015-02-24 11:00:18 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第121話 お姐さんも、やせ我慢する




 「舞妓としてデビューする店出しのとき、舞妓と姉妹の盃を交わします。
 一度交わした姉妹の盃は、一生もんどす。
 店出しや襟替えのあいさつ回りに、妹と一緒に歩きます。
 なんやかんやのつながりが出来て、それは、お互いに祇園町にいるかぎり
 一生にわたって続くんどす。
 舞妓に出たての頃はだれも、お座敷に呼んでくれはらへんのどす。
 そういうとき、自分のお客さんに頼むのどす。
 あたしの妹がこんど舞妓に出ましたんどす。
 一度呼んでくれはらしませんか、と言うんどす。
 なぜこんなことをするかと言うと、これまであたしらも先輩の芸妓さんに
 ようけしてもらったさかい、そのお返しを妹にするいうこともあるんどす」


 「へぇぇ、姉妹の契りが、祇園という花街を支えているのか」



 「祇園全体でいい妓を育てようという考え方が、根底にあるんどす。
 いい舞妓。つまり、可愛らしく、よう舞って、お座敷で気配りがうまい妓は
 ぎょうさんお花を売りまっしゃろ。
 評判の売れっ妓がいると、祇園全体が活気づくんどす。
 その妓に会いたさで、お客さんがお茶屋へあがります。
 宴会の予約が入ります。そうすると、お茶屋には席料が入るんどすなぁ。
 宴席に舞妓ひとりということはおへんから、一緒に入る芸妓やお囃子をつとめる
 地方さんの収入も増えまっしゃろ。
 宴会の時は、お料理を有名な仕出し屋さんから取るんどす。
 その仕出し屋さんも、儲かりますなぁ。
 お茶屋さんで遊んだあとは、舞妓さんを連れてバーへ行きまっしゃろ。
 そこへも同じようにお金が落ちますなぁ。
 そんな具合で、祇園全体が潤って、経済が上手に回るんどす」


 「なるほど。風が吹けば桶屋が儲かるのたとえ話と一緒だな・・・」


 「それだけや、おへん。
 売れっ妓は、着物をぎょうさん作りまっしゃろ。
 そのおかげで、着物を作る西陣や、室町あたりが潤いますなぁ。
 潤ったお店の旦那はんが、また、祇園にお金を落としてくれはるんどす」


 「上手く出来ているね。引いてくれたお姐さんは、どうなるの?。
 まさか、骨折り損のくたびれ儲け、みたいなことにはならないだろうねぇ?」


 「大丈夫。お姐さんにもええことがあるんどす。
 その妓が出たての頃、お客さんのところを引いて歩いて、顔を売ってあげたように
 逆に今度は、売れっ妓舞妓が自分を指名してくれはる宴会に
 お姐さん芸妓を呼んであげるんどす。
 そうすることでようやく、長年の恩返しができるんどす」



 「帰国子女のサラはどうなの。将来性は、有るの?」


 「帰国子女ならではの、自己主張の強さが有りますなぁ。
 良いにつけ、悪いにつけ、どちらにも転ぶ両刃の剣を持っている女の子どす。
 けど心配はおへん。ウチが何とかいたします。
 預かった以上、ウチより上手な、舞の名手に必ず育ててみせますさかい」



 売れっ子芸妓の佳つ乃(かつの)にも、姉に当たる芸妓が居る。
「あんたは、妹に縁がないなぁ」と、事あるごとに佳つ乃(かつの)に同情する。
佳つ乃(かつの)は22歳で辞めていった清乃の前にも、妹舞妓を預かったことが有る。
佳代の名前で店出しをした妹芸妓は、悪い男に簡単にだまされて、
20歳になる前に祇園から姿を消していった。
佳つ乃(かつの)が独立して間もない頃の話だから、いまから10年ほど前の出来事だ。
どこかの温泉地で芸者の真似をしていると、噂で聞いたことがあると言う。


 妹を持たない芸妓は、花街の世界で肩身が狭い。
佳つ乃(かつの)の責任ではないが、「子どもの産めない新妻みたいや」
と、暗に陰口を叩かれる。
「それも事実やから、仕方ありません」と笑う佳つ乃(かつの)の姿を、
似顔絵師は、この1年余りの間に何度も見てきた。


 「あっ、ウチがお布団を敷きます。
 まかせてください。大好きなんどす、こういうの!」


 そろそろお布団でも敷きましょう、と立ち上がる佳つ乃(かつの)を、
サラが慌てて制止する。
積善館の本館では湯治気分を味わってもらうため、布団の上げ下げは
客自身が行うことになっている。
4人用として提供された部屋には当然ながら、4人分の布団が揃っている。
炬燵から飛び出したサラが浴衣の裾を翻し、元気よく布団の前へ飛んでいく。



 「お布団は、3つ並べて敷いてもええどすかぁ。
 真ん中に兄さんが寝て、両サイドにウチと佳つ乃(かつの)姐さんの布団どす」


 「き、君・・・泊まっていくつもりか。せっかくの新婚さんの部屋へ・・・」


 「兄さん。断っておきますが、間違っても夜中に、ウチに手を出さんでくださいな。
 ウチはまだ、おぼこやさかい。男はんは知りまへん。
 あ、それ以外の事は大丈夫どす。
 ウチ。一度寝付いたら、簡単には目をさまさない性質どすから、
 少々の物音では絶対に、目を覚ましまへん。
 いいでしょう、佳つ乃(かつの)姐さん。ウチが今夜ここへ泊まっても!」


 「かまいません。なんならひとつのお布団で寝ましょうか。
 あら、不服なのあなたは、そんな目をして。
 手を出さないと約束ができるなら、3人で雑魚寝をしてもかまいません。
 どうします?。膝を抱えて寂しく眠るか、それとも3人で雑魚寝をするか、
 お好きな方を選んでくださいな、ねぇ、あなたったら。うっふっふ」



 「わぁ~、雑魚寝ですか。憧れているんですウチ昔から、祇園の雑魚寝というのに。
 お兄さん、そうしましょうよ。
 お布団を3つ重ねて、みんなで雑魚寝をたのしみましょう!」

 サラはもう、すっかりその気で興奮している。
雑魚寝にしましょうと提案した佳つ乃(かつの)も、ね、いいでしょうあなた、と
色っぽく、似顔絵師に向って片目をつぶって見せる。

 
第122話につづく

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おちょぼ 第120話 祇園の義理姉妹

2015-02-22 10:21:30 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第120話 祇園の義理姉妹




 午前中から降り始めた雪が、日暮れにはゆうに10センチを超えた。
窓から見える旅館群の屋根が、白一色に変った。
銀世界に変った山々が闇の中に消えかけた頃、「ごめんやす」と声が聞こえ、
カラリと襖が元気に開いた。
振り返る似顔絵師の視線の先に、3人分の夕食を抱えたサラが立っていた。


 「夕食どす。
 大広間でも食べられるそうどすが、お2人は世を忍ぶ日蔭の旅どすなぁ。
 ウチが気を利かせて、せっせと運んでまいりましたぁ」と笑う。


 「誰が世を忍ぶ、日蔭の旅だって?」似顔絵師が、きつい目でサラを睨む。
「お祖父ちゃんが泊まってはる贅沢な佳松亭の部屋よりも、
 カビ臭いこっちのほうがウチは、はるかに親しみの気持ちが持てるんどす。
 ウチなぁ、こんな風にひなびた感じの、日本間の部屋が大好きどす」



 サラがまったく気にしていませんからと、微笑みを返してくる。


 「ご苦労はん、寒かったやろ。いつまでも入り口に立ってないで炬燵においで」
佳つ乃(かつの)がサラを手で招く。
「ほな兄さん、あとのことは、よろしゅうお願いします」とサラが、
子猫のように、炬燵の中へ潜り込む。


 本館の食事は、すべて弁当形式で提供される。
積善館は、自炊の出来る湯治宿として長年にわたる歴史を刻んできた。
だが県の重要文化財に指定された今、客が火を使うことは禁止されている。
そのために本館に限り、湯治宿らしい素朴で滋味に富んだ食事が3日サイクルで
メニューを変え、弁当として提供される。



 「お前も変わっているなぁ。
 ろくに暖房も効かないし、古いだけが取り柄の部屋だぜ?。
 弁当だって、体裁は整っているけど作り置きで、おかずは全部冷たい。
 やっぱり。理事長が泊まっている佳松亭か、昭和11年に建てられたという
 山荘のほうが、よっぽもマシだと思うけどな、俺は」


 「そこまで言うんなら、兄さんがお祖父ちゃんのお部屋へ行けば、どうどすかぁ。
 ウチはここで佳つ乃(かつの)姉さんと一緒におるのが、最高どす」



 炬燵から顔だけを出したサラが、チョコンと佳つ乃(かつの)の膝へ
頭を乗せる。
2人の姿を見ていると、まるで、歳の離れた本当の姉妹のようだ。
祇園に生きる女たちは、姉妹の契りを交わす。
仕込みが舞妓としてデビューするその日、姉妹としての契りの盃が交わされる。
引く側の芸妓が姉になり、引かれる側の舞妓が妹になる。
此処で交わされた義理姉妹の関係は、2人が祇園で生きていく限り、
終生にわたり厳密に守られていく。


 仕込みとして屋形へやって来たその日から、姉妹の関係は育まれる。
福屋へやって来たサラは、最初の日から佳つ乃(かつの)を姉のように慕った。
佳つ乃(かつの)もまた、自分が守るべき妹としてサラを受け入れた。
女たちだけが棲む花街の世界では、厳しい修行を耐え抜いていくために、
肉親以上の援助者と理解者の存在を必要とする。
祇園の女たちが交わす姉妹の契りの中には、300年以上にわたる京都の伝統芸能を
守り、後世に伝えていくという厳しい決意が含まれている。



 佳つ乃(かつの)が面倒を見た最初の仕込み、清乃は22歳で祇園を去った。
舞の名手として将来をおおいに期待されたが、病のため、芸妓を続けることを諦めた。
清乃は医療事務の資格を取り、病院で働きながら病気と戦い続けている。
「元気で頑張っています」という清乃の便りは、京都の季節が変わるたびに、
佳つ乃(かつの)の手元にいまでも届く。


 佳つ乃(かつの)は、「祇園はお客さんも、お姐さんもやせ我慢するところどすなぁ」
と、事あるたびに口にする。


 「祇園では、お客さんも、やせ我慢をすんのどす。
 お茶屋で可愛らしい舞妓さんに会ったら、チップをはずみたくなります。
 『ご飯食べ』にも、連れていってあげとうなる。
 あの芝居を見たいというとったら、無理してでも買うてあげたくなる。
 お金がどこぞから湧いてきて、湯水のごとく使えるお方ならいざしらず、
 みなさんどなたもいろいろ算段しはって、無い袖を振るのが祇園と言う世界なんどす。
 そやけど。やせ我慢して無い袖を振ってはるのは、お客さんだけではないんどす。
 あたしらも芸妓になると、無い袖を振りますえ。
 姐さんになると、生涯にわたって面倒を見る妹分ができまっしゃろ。
 そしたら、実は、えらい大変なことになりますのや・・・・」



第121話につづく

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おちょぼ 第119話 農家の跡を継ぐ

2015-02-21 12:15:11 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第119話 農家の跡を継ぐ




 風呂からあがり、受付時にフロントで渡された浴衣に着替えると、
ようやく旅人らしい気分が湧き上がって来る。
並んで歩く素肌の佳つ乃(かつの)から、甘い香りが漂ってくる。
着物を着るときの習慣で、佳つ乃(かつの)は大きく大胆に襟を抜く。
湯上りの火照ったうなじが丸見えになる。
濡れたほつれ毛が、ふわりと揺れて桃色の肌に舞い降りる
つられて手が出てしまいそうな衝動を、似顔絵師があわてて抑え込んだ。


 途中の窓から、白一色に変った通りの様子が目に飛び込んできた。
雪は、さらさらとした小さな粒に変っている
だが細かくなったものの、降り止む気配は一向にない。
部屋へ戻った2人はつられたように、暖房の効いたテラス席に並んで腰を下ろす。
「静かやねぇ・・・」と雪に見とれている佳つ乃(かつの)に、似顔絵師が
「そうだねぇ」とだけ、小さく答える。


 「あんたのお姉さん、陽子さんになぁ。
 一緒に仕事せえへんかと、熱心に誘われました」



 「姉に誘われた?。君が、美容師として働くという意味かい?」


 「農家に嫁ぐのは、大変なことやと聞かされました。
 指が荒れる前に、美容師の資格を取り、着付けの仕事を手伝ってほしいと、
 そんな風に、お姉さんに言われました」


 「実家に住んだとしても、君が農業をする必要はないさ。
 それに俺はいまのところ、おやじの仕事を継ぐつもりは一切ない」



 「ふふふ。そないな風に反発をする子供こそ、親の仕事を継いでいくそうどす。
 あなたは必ず農業を継ぐ。きっとそうなると陽子さんが断言しておりました。
 姉弟やから、見ているだけであなたの本心が分かるそうどす。
 ええやないどすか、土に生きる仕事というのも。
 ウチも嫌いやおへん、あんたのそばに居られんなら、農家の仕事でも」


 「生まれたときから祇園で育ってきた君に、農業は無理だろう・・・
 農家に育った俺だって、2の足を踏んでいる。
 君には、できることなら綺麗なままで、いてほしいなぁ・・・」

 
 「綺麗にいてほしいのは、ウチの外観どすか?、それとも内面どすか?
 ええ加減で覚悟を決めなはれ。
 農家の長男に生まれたというあんたの素性を知ったとき、
 ウチは土に汚れてもええと、覚悟を決めました。
 白い顔は好きやけど、陽に焼けた小麦色のウチの顔は、嫌いどすか?」
 
 返す言葉を失った似顔絵師が、佳つ乃(かつの)の顔から目をそらす。
たぶん。父の仕事を継ぐことを決意する日が、そう遠くない未来にやって来るだろう・・・
そうなることを似顔絵師自身が、幼いころから熟知している。
それは単に、農家の長男に生まれたという宿命からではない。
野良で働く父の背中が、昔から大好きだったからだ。



「農業は、日本の自然を守る仕事だ。だがな、実際の仕事はそんなに楽じゃねぇ。
 朝早くから起きて、陽が暮れるまで家と畑を往復する。
 好きでなければできない仕事だ。
 たぶん。農耕民族の血が濃すぎるんだろうな、俺は。あっはっは」


 農家を継ぐ道に進まなかったのは、似顔絵師に宿った画才のせいだ。
農家の苦労を知り尽くした父は、「好きなことが有るのなら、そっちへ進め」と
常に似顔絵師の背中を押した。
親に甘えて生きてきたつもりはない。
事実。ヨーロッパ放浪の旅に出るまでは、画家として成功する自信が似顔絵師には有った。
だがヨーロッパ各地の美術館で出会った巨匠たちの作品が、似顔絵師の
自信をいとも簡単に、根底から打ち砕いた。



 何もかもが違いすぎる・・・
生まれつき才能に恵まれた者と、そうでない者との運命的な違いに、
似顔絵師が生まれて初めて気が付いた。
芸術家とは、生まれた時から天分に恵まれた、ひとにぎりの人たちを指す。
それ以外の人間は、ただ頂点に至ることを夢に見ているだけだ。
努力の末に、夢の途中から転落していくその他大勢の人間のほうが、圧倒的に多くなる。


 スポーツの世界で、プロを目指す者にも同じことが言える。
甲子園を目指し、小さな頃から修練を積み重ねてきた数万の高校球児たちのうち、
甲子園のグランドに立てるのは、都道府県の頂点に立った1チームだけだ。
わずか20名だけが、都道府県の代表として甲子園にたどり着く。
プロへの狭い門を通過できるのは、さらに限定される。
高校野球からプロの舞台に辿り着けるのは、5人から6人くらいと言われている。


 ヨーロッパで本物の芸術と、はるかな高みに到達した作品を目の当たりに
見てきた似顔絵師は、(そろそろ俺も、本気で家業を継ぐ、決意を固める時期かな、)
と傷心の気持ちを抱えて、佳つ乃(かつの)の居る京都へたどり着いた。


 「寒くなってきましたなぁ」と佳つ乃(かつの)が、浴衣の襟を合わせる。



 「路上の似顔絵師もええと思いますが、野良で描く似顔絵もまた、
 素敵やと思います。
 日本にただひとり。畑で絵を描く似顔絵師が居てもいいと、ウチは思います。
 なんならウチが、京舞を野良着で舞ってモデルになって見せますぇ~」


 ウフフと笑った佳つ乃(かつの)が、
「お部屋のほうへ戻りましょう、窓際では、そのうち風邪をひきますなぁ」
と似顔絵師を急き立てる。


第120話につづく

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おちょぼ 第118話 混浴の岩風呂

2015-02-20 11:45:39 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第118話 混浴の岩風呂



 
 積善館の本館は元禄4年に建てられた。
日本最古の木造湯宿建築として、そのままの形でいまに伝えられている。
表向きはとても小さな宿のように見える。
正面に、300年の歴史を持つ木造の本館だけが見えているからだ。
本館の後ろに、山荘、佳松亭と山の斜面に、趣の異なる館が連なっている。
本館と山荘の間を『浪漫のトンネル』が繋ぎ、『鏡の廊下』が山荘と
最上層の佳松亭をつないでいる。


 開業した当初から、典型的な湯治宿のひとつだった。
徐々に増える湯治客のため、数度にわたる増築が繰り返された。
寛政12(1800)年に書かれた古文書によれば、屋敷の大きさと、建物の大きさは
共に現在と完全に一致しているという。



 「湯治』の「湯」は薬湯を意味し、「治」は治療を意味している。
病気と傷の治療を目的に、四万の温泉と薬湯が利用されてきた。
食料を持参し、自炊しながら、長期滞在する場所として積善館の本館が利用されてきた。

 
 山荘と本館をつなぐ浪漫のトンネルで、また、サラが歓声を上げた。
「千と千尋の神隠し」の冒頭に、千尋の一家がトンネルを抜けていくシーンが有る。
ここから千尋が異界に迷い込んでいくことになるのだが、これとまったく
瓜二つのトンネルが積善館の本館に有る。
トンネルを抜けると、暗い電灯に照らされた古い廊下が目の前に現れる。



 「まるで迷路のようどす、厄介な旅館どすなぁ・・・」
館内案内図を頼りに、サラが3階の客間に向かって先頭を歩いて行く。
「お前はワシと同じ、佳松亭に泊まれ」と理事長に命令されたのにもかかわらず、
サラは佳つ乃(かつの)の傍から、ひと時も離れようとしない。


 ちょこんと座ったサラが、甲斐がしくお茶の支度を始める。
手慣れた様子のサラを見て、「何時の間に、お茶の支度なんか覚えたの?」と
似顔絵師が首をかしげる。
作法のため、茶道教室に通っていることは以前から知っているが、サラが
日常のお茶を入れる姿を見るのは、初めてのことだ。



 「お茶を入れるのは、最長老の小染め姉さんから教わりました。
 けど、小染め姉さんが呑むのは、煙臭い京番茶どす。
 ウチは紅茶のほうがええんどすが、それでは小染め姉さんが機嫌を損ねます。
 我慢して京番茶を呑んどるうち、なにやら親しみなどを感じるように
 なりましたから、不思議なもんどすなぁ」



 お茶を呑んだら、混浴の内湯へ行きましょうとサラが似顔絵師の顔を覗き込む。
誘われた似顔絵師が、「混浴の内湯?」ごくりと思わず生唾を呑み込む。
「佳つ乃(かつの)姉さんも一緒どす」とサラが、さらに追い打ちをかけてくる。
佳つ乃(かつの)は聞こえない振りをして、窓際の椅子から外を見ている。


 積善館には、源泉の異なる4つの浴室が有る。
「佳松亭」の浴室は一般旅館と同じように、露天風呂と内湯がセットになっている。
山荘に有る2つの浴室には、何故か鍵が架かるようになっている。
希望すれば、家族風呂として利用することもできる。
本館には、大正時代の雰囲気が漂う「元禄の湯」と、混浴の「岩風呂」が有る。
いずれの風呂も、掛け流しの源泉を満喫することができる。


 (入りたいのあなたは。混浴風呂に?)
佳つ乃(かつの)の目が、遠くから訴えてきた。
(君が断るのなら、俺も辞退をする)
上目使いの返事を佳つ乃(かつの)へ送ると、意外な反応が返って来た。
(いいわよ、入ってあげても)
佳つ乃(かつの)の目元が、いつになく柔らかく笑っている。
(旅の恥はかき捨てです。せっかくの機会どす。背中で良ければ流してあげます)
うふふと笑う佳つ乃(かつの)の口元が、重ねて似顔絵師を誘う。



 「よかったぁ。決まりですねぇ、では早速、善は急げです!」
サラが先頭をきって立ち上がる。
3階の客間から2階にある岩風呂まで、迷路のような通路が続く。
建て増しを何度も繰り返した結果、館内に複雑きわまる迷路が出来上がったためだ。
赤い絨毯を敷き詰めた廊下が、突然、とんでもない方向へ曲がる。
まっすぐ行けると思った廊下が、不自然な壁に突き当たる。
(無事に戻ってこられるのかしら・・・)角を曲がるたびに、佳つ乃(かつの)が
不安そうな目つきで廊下を振り返る。


 岩風呂の引き戸を開けると、男女別々の暖簾が揺れる脱衣所が目の前に現れる。
じゃあねと手を振り、サラと佳つ乃(かつの)が女湯と書かれた
赤い暖簾の先へ消えていく。
脱衣所は、きわめてシンプルに出来ている。
間仕切りの有る脱衣用の棚が有るだけで、銭湯か、誰でも入れるどこかの
共同浴場のような雰囲気が漂っている。
浴室の扉を開けると、青い石を敷き詰めた浴槽に透明の源泉が湯気を上げている。


 100%の源泉を指先で確認していると、女湯の扉が静かに開いた。
前を隠した佳つ乃(かつの)が、湯気の向こう側に、少し恥ずかしそうに現れる。
「・・・サラは、どうしたの?」と声をかけると、
「用事を思い出したそうどす。うまく逃げられてしまいました。
ふふふ。かないませんなぁ、ずる賢い、いまどきの若い子には・・・」

  
 湯気の中。ポチャリと音を立てて、天井から水滴がひとつ落ちてきた。


第119話につづく

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