落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第七章 (1)「絹」の故郷

2013-02-14 10:48:27 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(1)「絹」の故郷




日本に養蚕(ようさん)技術が伝わってきたのは、大変に古く
弥生時代の中頃からと言われています。
上州(群馬県)では、古くから養蚕が行われていたと推定されていますが
記録上で確認できるのは、奈良時代からのことです。


 江戸時代に入ると、生活が豊かになり
国内産の生糸の需要がたいへんに高まります。
それにつられて、農民たちの養蚕への関心も大きくなります。
絹を織る桐生市や、銘仙織りで知られる伊勢崎市なども、
この江戸時代において大きな発展を遂げました。

 この時代には、「蚕書」と呼ばれる
養蚕の指導書が盛んに作らています。
それらの多くは翻訳をされ、海外へも発行されていきました。
これはおそらく、日本農業の技術書として
最初に、外国語に翻訳されたものだと思われます。

 幕末から明治にかけて、大きな課題となっていたのが、
蚕の病気対策と飼育方法の改善でした。
日本政府が最初に始めた蚕の研究は、蚕病防除のための研究でした。

 群馬県内では、
明治2年に永井紺周郎が「いぶし飼い」を考案しています。
さらに明治5年になると、田島弥平が「清涼育」を発表して、
蚕の飼育のためには、まず風通しを良くすることが大切であると教えます。

これらの飼育法の長所を取り入れた「清温育」が
県内・高山村に住む高山長王郎によって、明治16年に完成をします。
県の内外で養蚕を営む農家では、こうした飼育法を取り入れて、
蚕の飼育環境に適した構造の蚕室兼用の住宅が
建てられるようになりました。

前橋藩士の速水堅曹は、
日本で初めてイタリア式の製糸器械を導入し、
スイス人のミュラーを招いて、明治3年に前橋市に、藩営の製糸所を設立した人物です。
廃藩置県によって、2年余りで閉鎖となってしまいますが、この製糸所は、
日本で最初の洋式の機械製糸所であり、製糸業近代化の草分けになりました。

 こうした機運と背景の中、
明治5年に上州・富岡に、外国人の指導のもとに
近代的な生糸機械を揃えた、大規模な官制の生糸工場が完成をします。
※今日、世界遺産入りをめざしている「富岡製糸場」です。


 琴と良之助一家が、
郷里の深山村へと戻ってきたのは、年も明けた2月半ばのことです。
浪士組をめざして上京を果たしてから、足かけ12年目のことで、
良之助は35歳、琴も33歳になろうとしている春先のことです。

 
 下男の茂助がことのほか喜びました。

 早速に、道場が整備をされました。
法神流が久々に、発祥の地に復活するという噂が広まると、
たちまちにして赤城の各地から、かつての門弟たちが集まってきます。
主に前橋方面を中心に、出稽古を受け持っていた高弟の一人が、
琴に、生糸の仕事を持ちこんできます。


 深山流に入門をした者の一人で、
明治3年に深沢雄象とともに、藩営の前橋製糸所を設立させた、
速水堅曹(はやみ・けんぞう)、の口ききです。
地元の子女たちを富岡製糸場へ研修に出すために、
そのまとめ役として、是非にと言う要請でした。

 速水は、明治期における
洋式の製糸技術における指導者のひとりです。
武蔵国・入間郡川越町(埼玉県・川越市)の川越藩士の家に生まれ、
藩主の移封により、前橋へと移住をしました。
前橋製糸所設立の頃には、しばしば自宅にも帰らずに
スイス人技師のミューラーから直接の指導を受けます。
ヨーロッパの製糸技術を吸収せんとするあまり、
泊まり込みを続けたというほどの、熱い気概の持ち主です。

 日本の器械製糸の発展に
生命を賭けようとする熱い気概の持ち主が、
琴を、しきりに口説きます。


「これからの時代、生糸は日本を変えるでしょう。
 また日本の未来を担うとも言える、
 生糸の工女たちを、模範的な指導者として、
 大量に育成しなければなりません。
 剣の道を極めたうえに、数々の窮地も切り抜けてきた、
 琴どのの気概こそ、これからの乙女たちに受け継いでもらいたい、
 日本女性の真髄です。
 しかしまだまだ、生糸の道も前途は険しいものとなりましょう。
 琴どのにはわたくしどもとも同じく、生糸の道を歩く、
 先人のひとりになっていただきたいと思います。」






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