落合順平 作品集

現代小説の部屋。

農協おくりびと (36) 松坂亭へ、尼さんがやって来る

2015-10-30 10:10:23 | 現代小説
 農協おくりびと (36) 松坂亭へ、尼さんがやって来る




 白い尼頭巾に、浅葱色(あさぎいろ・ごく薄い藍色)の袈裟。
白足袋をはいた若い尼さん2人の登場に、店内にざわめきが走る。
松坂亭の従業員も思わず1歩、うしろへ退く。
だが続けて現れた男たちの姿に、今度は居合わせた客たちの腰が一斉に浮く。
男たちのいでたちが、常軌をはるかに越えていたからだ。



 先頭であらわれた祐三は、武蔵坊弁慶そのもののいでたちだ。
頭部は、白の五条袈裟(けさ)で覆われている。
素絹(そけん)と呼ばれる衣の下に、甲冑が見える。
僧兵たちが好んで身に着ける、下腹巻と呼ばれている甲冑だ。
さすがに太刀となぎなたは身に着けていないが、これではどこからどうみても
五条大橋の上で、義経と刃を交わした武蔵坊弁慶そのものだ。



 背後に続く独身の男たちも、祐三に負けていない。
墨衣に鎧を着け、顔を白い布で隠し、足には僧侶の下駄を履いている。
どうみても、これからいくさにおもむいていく僧兵たちの一団だ。
突然あらわれた若い尼僧と僧兵の一団に、店内に居合わせた客たちが、
キョロキョロと驚きの視線を走らせる。



 「いやいや、決して怪しいものではない。
 騒がせてすまないが今日これから、ここで宴会を始める武蔵坊弁慶だ。
 あ、いや、すまん。予約を入れておいた山本祐三だ。
 女4人に男が4人。一番奥の部屋を予約しておいたはずだ。
 訳あってこんな格好をしておるが、悪ふざけをしているわけではない。
 では案内してもらおうか、予約の部屋へ」



 くすりっと笑った接客嬢が、こちらへどうぞと先に立つ。
接客嬢のあとをゆっくりと歩く尼僧から、歩くたびに、清廉な香りが匂い立つ。
2度見、3度見の視線が客席のあちこちから飛んでくる。
その多くが、居合わせた男性客たちからのものだ。
無理はない。普段まったく目にする機会のない、正装した尼僧が目の前を歩いている。



 しかも20歳代半ばと30歳そこそこの、美しい尼僧だ。
男たちの熱い視線を、あとを歩いて行く僧兵たちが「ジロジロ見るんじゃねぇ」
と乱暴に遮っていく。
尼僧と僧兵たちの行列の最後を、おしゃれ着のちひろと先輩が並んで歩いていく。



 (聞いていません。祐三さんたちが僧兵のコスプレをするなんて。
 こんなことなら私たちも、白拍子の衣装で来ればよかったわね)



 (先輩!。平安絵巻の行列じゃあるまいし、悪乗りするにも限度があります)



 (考えたわね。祐三さんらしい演出です。
 尼僧姿で来てくれと頼んだ手前、注目を集めすぎたら申し訳ないと考えたのでしょう。
 いいとこあるじゃん。キュウリばかり作っている農家とは、思えませんね)



 部屋の中央にどっかりと腰を下ろした弁慶が、早く座れと全員を手で促す。
途中で、笑顔で待機している接客嬢の存在に気が付く。



 「案内ありがとう。だが、注文のためのメニュー帳はいらん。
 店長にすでに、今夜のメニューは頼んである。
 前半戦はステーキだ。使うのはA5ランクの雌(メス)の処女牛。
 低い温度で脂が溶ける。そのうえ雑味が少なく、あっさりとしている。
 後半戦は、同じ肉を使ったしゃぶしゃぶだ。
 あ・・・少しだけ待ってくれ。君に頼む用事が有った。
 好きな飲み物を頼むから、ひとりずつ、注文を聞いて回ってくれないか」



(37)へつづく

新田さらだ館は、こちら

農協おくりびと (35)尼僧2人は、肉食系?

2015-10-28 11:32:14 | 現代小説
農協おくりびと (35)尼僧2人は、肉食系?



 尼僧の連絡先は、苦もなく判明した。
「私も連れて行ってくれるなら、尼さん2人を、間違いなく口説いて見せる」
ちひろの耳へマネージャ格の先輩が、自信たっぷりにささやいた。
どうやら祐三との会話を立ち聞きしていたらしい。


 「松坂牛のA5ランクでしょ。庶民には手が出ない垂涎もののお肉です。
 1人や2人増えたって、女が増える分には祐三さんも文句ないでしょ。
 あそこのお寺には、少しばかり顔が利くの。
 まかせて。必ずいい返事をもらってくるから、私も合コンに混ぜてちょうだい」



 A5ランクの肉の魅力につられて、思わぬ援軍があらわれた。
ちひろにしてみれば、大歓迎の援軍だ。
引き受けてはみたものの、正直、口説き方に苦慮していたからだ。
可能性が有るのなら先輩の申し出に甘えたほうが、好結果を得やすいだろう。



 「私こう見えても、仏教学部を出ているの。
 今日来た尼さん2人のうちの1人、妙子はわたしの学部の後輩なのよ。
 住職はもちろん、妙子にも絶対に嫌とはいわせないわ」



 絶対の自信を見せて、先輩が胸を張る。
仏教学部を置いている大学は、かなりの数で存在している。
独立した学部ではなく、文学部仏教学科として置いている大学なら、さらにある。
駒沢大学や京都大学、広島大学などが有名だ。
「わたしに任せなさい」と胸を叩いた先輩は、東洋大学を卒業している。



 自信をもって胸を張った結果は、すぐにあらわれた。
「いつでもいいわよ。期日を指定してくれれば、2人とも合コンに顔を出すわ」
ちひろのラインに、先輩からのコメントが届いたのは翌朝の事だった。
さすがにやることが早い。
「尼さんと言うのは、暇な職業なのですか?」と書き送ると、
「わたしと同じです。A5ランクの魅力に負けて、生き方を変えたのよ」と
返事が返ってきた。



 祐三のほうも、素早い反応をみせる。
「明日の晩でもいいぞ」と、こちらもおおいに乗り気の返事がかえってきた。
「ただし。頼みが有る」とひそめた声で、追加注文が出た。


 「2人とも、尼さんの正装で来てくれないか。
 普段着で来られたんじゃ、どこの誰だかわからない。
 俺たちは尼さんのあの姿と合コンすることで、精神的な満足を得るんだ。
 頼んだぜ。そのあたりのところを、抜かりなく手配してくれ」



 じゃ任せたぜ、と通話が切れる。
尼さん姿の合コンはさすがにまずいだろうと思いながら、ちひろがささやかな
可能性を信じて先輩へメールを送る。
「先方は尼さん姿が所望だそうです。大丈夫でしょうか? あの2人から
反感などを買いませんか?」今度も、返事が返って来るのが早かった。



 「そちらの件も了解を取り付けました。
 A5ランクの焼き肉、プラスしゃぶしゃぶで、2人とも了解しました」



 見かけによらず2人とも、どうやら肉食系の女子らしい。
ただし。松坂牛のA5ランクなどは、滅多なことでは口に出来ない。
しゃぶしゃぶまで食べられるというのなら、禁断の衣装くらいお安いご用らしい。
ともあれ。焼き肉プラスしゃぶしゃぶで、簡単に話がついた。
祐三へ電話を入れると、こちらも快諾の声が響いてくる。



 「焼き肉に、しゃぶしゃぶの追加か、お安いもんだ。
 ついでだ。お前と先輩にも同じように、しゃぶしゃぶを食わせてやろう。
 明日の6時。隣町の松坂亭の個室を予約しておく。
 尼さん2人と、お前と先輩の合計4人だから、男どもも4人用意しょう。
 いまから楽しみだな、明日の合コンが。
 松坂のA5ランクの肉は口に入れただけで、あっというまに、とろけるぞ」


(36)へつづく



新田さらだ館は、こちら

農協おくりびと (34)尼僧と、合コンしたい

2015-10-27 11:17:34 | 現代小説
農協おくりびと (34)尼僧と、合コンしたい




 葬儀場へやって来る僧侶のほとんどが、男性僧侶だ。
だが100%男性という訳ではない。ごくまれだが、例外が発生する。
男性僧侶にまじり、かなり少ない確率で尼僧が着いてくることが有る。
今日の葬儀が、まさにそれにあたる。



 葬儀に来る僧侶の数は、遺族側の意向で決まる。
1人であったり、2人だったり、3人であったりと、状況はその都度変る。
3人来るとは聞いていたが、その中に、まさか尼僧が混じっているとは思わなかった。
男性住職はかなりの高齢だ。だが2人の尼僧は見るからに若い。
ひとりは20を過ぎたばかり。もうひとりも、30歳手前くらいだろう。



 導師が入場する時。しずしずと歩く尼僧の2人を見た瞬間、会場内から思わず、
『ほぅ~・・・』と、なんともいえないため息がひろがっていく。
反応の大半が、男たちによるものだ。
僧侶というと男性というイメージが強いが、女性僧侶は古くから存在している。
僧侶になることを希望するなら、たとえ女性であってもすべての宗派が受け入れてくれる。
仏教が誕生したお釈迦様の時代から、女性僧侶は存在していた。



 かつては性差別のため、修行は別々が良いとされてきた。
女性だけの尼寺として、発展してきた寺院も有る。
だが雇用均等法の昨今では、差別なく受け入れるのが一般的になっている。
僧侶を希望する女性は、男性と同じように仏教系の学部で学ぶ。
さらに寺院で修行を積み、一人前になっていく。



 しかし。尼僧の姿を見ると、なぜか本能的に男性たちの下心が微妙に動くようだ。
葬儀と告別式は、何事もなく無事に終わった。
だが式の終了とともに、キュウリ部会の祐三がちひろのもとへ飛んできた。
いつになく祐三の目が、血走っている。
どうやらさきほどの尼僧に、よほど惚れ込んだらしい。
「おい。お前を見込んで、相談が有る」と、祐三がいきなりちひろの肩を抱く。



 「金ならいくらかかっても、かまわん。
 さっきの2人の尼僧たちと、合コンの機会を作ってくれ。
 お前も招待してやるから、早い時期に、うまい段取りを組んでくれ」



 「今来た2人の尼僧さんたちと、合コンするんですか・・・
 でもさすがに、出家した尼僧さんたちと合コンをするのは、宗教的に見て、
 どう考えても、まずいものが有ると思います」



 「馬鹿野郎。尼さんだって、もとをただせば人間だろう。
 だいいち、いまどきの坊さんは結婚もすれば、好き勝手に子供も作る。
 肉も食うし、酒だって飲む。
 蓮台寺の住職なんか週に2回は、隣町のキャバクラで遊んでいるという噂だ。
 頼むよ、なんとか仲を取り持ってくれ。
 一生に、一度のお願いだからよぉ」



 よほど尼僧に関心をもったのだろう。
だが世俗と縁を切っている尼僧と合コンしたいとは、なんとも途方もない企てだ。
祐三の背後に、合コンの仲間がいることも明らかだ。
会場に顔を見せた、キュウリ部会の全員が絡んでいる可能性さえある。


 「お前。A5ランクの肉が、一度でいいから食いたいと言っていただろう。
 正真正銘の松坂牛でどうだ。
 上手く口説いてくれたら、A5ランクを食わせる松坂亭で合コンを開く。
 どうだ。それならお前にも、不満は無いだろう」



 松坂牛のA5ランクと聞いて、ちひろの心がぐらりと動く。
隣町に有る新勝寺に、2人の尼僧がいるという噂は聞いたことが有る。
だが実物を見るのは、ちひろも今日が初めてだ。
男たちには、尼頭巾をかぶった尼僧たちがよほどセンセーショナルに映ったのだろう。
熱ぽく語る祐三の眼が、野生の獣のようにランランと輝いている。

 
(35)へつづく

新田さらだ館は、こちら

農協おくりびと (33)檀家(だんか)の底力

2015-10-26 10:43:36 | 現代小説
農協おくりびと (33)檀家(だんか)の底力



 
 導師が退場すると、親族たちによるお別れの時間が始まる。
棺のふたが開けられる。
遺族と親しかった人たちが祭壇から摘み取られた花を手に、故人と対面する。
この間。退場した導師は、火葬場へ行くため身支度を整える。


 着替えの時間は普通、5分から10分かかる。
この時間帯を利用して、千の風を流すというのが最長老のアイデアだ。
だが予想に反し、曲の途中で控室のドアが開いた。
ホールでは周囲にはばかる音量で、千の風が流れている真っ最中だ。
住職がホールへ足を踏み入れでもしたら、大変なことになる。



 すかさず最長老が、次の手を打つ。
廊下に配置していたキュウリ部会のメンバーたちに、目で合図を送る。
最初から、非常事態を想定していたのだろう。
指示を受けたメンバーたちが、いち早く、歩き始めたばかりの住職の前を阻む。
動いたのはいずれも、頑固住職の檀家(だんか)の者たちだ
檀家の男たちは、何くわぬ顔で住職の周囲を取り囲む。



 寺の経済は、檀家によって守られている。
檀家は、特定の寺に所属して、寺を支援する家のことを言う。
檀家は葬祭供養一切を寺に任せる代わりに、布施としてさまざまな支援を行う。
寺と檀家は、切っても切れない密接な関係を持っている。



 田舎では集落に一つのペースで、寺が建っている。
100軒に満たない小さな集落も有れば、600軒を超える大集落も有る。
そのほとんどが、寺と檀家の関係をむすんでいる。
つまり。集落における世帯の数が、そのまま寺の経済力になる。
極端に檀家が少ない場合。寺の住職が、生計のために別の仕事をしている。
役場の職員であったり、教師などの仕事している場合が多い。
2足のワラジを履くことで収入を安定させ、檀家の過大な負担を減らすことになる。
だがこうした場合。専従の住職でないため、寺の仕事は2の次になる。
住職としての仕事は、葬儀が発生した場合だけに限られる。



 一般的にお寺は、かなりの高収入を得ているように思われている。
だが実態は、かなり厳しいものがある。
公表された寺院の資料の中に、こんなものがある。
寺院の経済事情を調べた『白書』を、智山派が昭和60年に公開している。
それによれば、全国に点在している智山派の2398寺院のうち、
半数を超える63%が、年間200万以下の収入だという。
500万円を超えているのは、全体のわずか15%に過ぎない。



 曹洞宗が発表した資料にも、同じ傾向が顕著に出ている。
1万4千ヵ所ある寺院のうち、年収300万未満の寺が67,2%に達している。
そのうち。100万円以下の寺院が、4割を占めているというから驚きだ。
経済的に安定するためには、それなりの数の檀家を必要とするという背景が
ここから垣間見える。


 とつぜん現れた檀家たちに、頑固住職の顔がほころぶ。
有力な檀家たちに対し住職は、不機嫌な顔を見せることは出来ない。
彼らの機嫌次第で、寺の経済事情が左右されるからだ。
頑固住職の弱みは、他にも有る。



 弁慶の寺はいま、本堂の新築工事の真っ最中だ。
本堂の普請に2億円。その他の工事も含めると、総工費は2億5千万をこえる。
そのすべてを檀家が、寺への寄付としてかき集める。
取り囲んだ男たちは寄付活動を取り仕切っている、いずれも有力なメンバーたちだ。
さすがの頑固住職もその場から動くことが出来ず、男たちと雑談をはじめる。



 足止めすること、3分あまり。
ちひろの指が、ようやく役目を終えた音響のスイッチを切る。
あとは、まもなく姿を見せる霊柩車へ、無事に棺を引き渡すだけだ。
ほっとした顔を見せるちひろに、入り口に立つ最長老が小さく、
V字のサインを作る。

 
(34)へつづく


新田さらだ館は、こちら

農協おくりびと (32)千の風が、流れる

2015-10-24 12:31:05 | 現代小説
農協おくりびと (32)千の風が、流れる




 10基に増やされた香炉が、威力を発揮する。
喪主→遺族→親族→指名焼香と続いた焼香が、一般会葬者に移る頃、
幅の広い行列が、香炉の前に作られた。
頼みの綱の最長老は行列のはるか後方に、のんびりと並んでいる。


 焼香が順調に進む中。司会のちひろは忙しい。
焼香の進み具合を横目で確認しながら、届いた弔電の束を読み上げる。
ときどき駐車場から届く、移動要請の車のナンバーも読み上げていく。



 (いろいろあるものですねぇ、葬儀の最中にも・・・
 でも、早くしないと読経が終ってしまいます。
 千の風を流すタイミングは、いったい、いつになったらやって来るんでしょ。
 このままでは住職の読経が終了し、焼香も終わりになってしまいます)



 焼香を終えた会葬者たちが、遺族に向かって静かに頭を下げていく。
係員に誘導されながら、静かに会場から姿を消していく。
粛々と読経がすすむ中。会葬者の姿が会場からほとんど居なくなる。
11:40。読経を終えた住職が、席を起つ。
スタッフに先導された住職が、控室に向ってゆっくりと歩いて行く。
遺族と親族たちが、退席していく住職の背中を合掌で送る。



 (あらら。ついに読経が終わってしまいました。どうなるの、いったい。
 頑固坊主は居なくなるし、会場内に残っているのは遺族と近親者たちだけです。
 あ・・・邪魔者の坊主が居なくなったという事は、もしかしたら、
 千の風を流す、絶好のチャンスが来たという事かしら・・・)



 ちひろが見送る中。頑固住職の姿が会場から消えていく。
導師の読経が終り、焼香を終えた会葬者たちが会場から姿を消していくことで
故人を送るセレモニーの、第一段階が終わりを告げる
だが葬儀が終了したわけでは無い。
焼香を終えた会場で、出棺の準備がはじまる。
喪主と遺族、近親者たちによる『別れ』の儀式が、ここからまたあたらしい幕を開ける。



 「最後のお別れになります。親族の皆さま、ご準備をお願いします」
とひろが読み上げた時、会場の入り口に、最長老が姿が見せた。
住職が消えた控え室の方向に顔を向けたまま、両手を大きく広げる。
頭の上で大きな丸をつくり、千の風を流しても良いというOKサインをつくる。



 祭壇から降ろされた棺が、頭を北向きに安置される。
棺のふたが開けられる。
遺族や故人と親しかった人たちのための、しばしの対面の時間がやってくる。
満を持してちひろの指が、「千の風」のスイッチを押す。
短いピアノの前奏がつづいたあと、秋川雅史の歌声がホールの中を、
ろうろうと響いていく。



 千の風は長い曲だ。フルコーラスなら、かるく4分30秒を超える。
ちひろの心配ごとは、ただひとつ。
曲を流しているあいだに、あの頑固住職が、ホールへ戻って来ることだ。
ちひろの指は万一にそなえ、先ほどから音響スイッチの上にしっかりと置かれている。
住職の姿が見えたら、いち早く曲のスイッチを切る。
それが、ちひろが出来るただひとつの対応だ。



 入り口に立った最長老は、住職が姿を消した控室から目を離さない。
控室周辺の動向を、鋭く伺っている。
住職が姿を見せれば、その場から「中止」の合図を送ってくれるらしい。
曲がはじまって、すでに2分30秒が経過した。



 ちひろにしてみればハラハラドキドキの、この世でもっとも長い2分30秒だ。
終了まであと2分あまり。
このまま最後まで、奥さんと故人のために、無事に千の風を流し続けたい。
ちひろがそんな風に、切に願ったその瞬間。
入り口に立っている最長老の顏に、緊張の色が走った。
住職の控室のドアが、突然、何の前触れもなく開いたようだ。

 
(33)へつづく


新田さらだ館は、こちら