落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(43) 

2013-07-31 10:06:43 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(43) 
「赤城型民家と呼ばれる古老の屋敷と、金色の糸を吐くオカイコ」





 「なんで俺は、こんなところで全力疾走をしているんだろう?」



 駆け始めた坂道の途中であっというまに苦しさを覚え、青ざめた顔で立ち止まった康平が、
肩で大きく喘ぎながら思わず心の中でつぶやいています。
昨夜から寝ていないことからくる寝不足と、中途半端に残っているアルコールが
胃の中でいっそう攪拌をされ、吐き気に加えてわずかな目眩さえ感じている情けない自分が
まぎれもなくそこへいます。


 子供の頃なら息ひとつ切らさずに駆け抜けることが出来た、
桑の巨木からもうひとつ先の丘陵を登った先にある徳次郎の屋敷までが、今日に限っては
やたらと遠くに感じられてなりません
『それにしても衰えたものだ。ガキの頃のあの元気が、もう微塵も残っていないなんて』
背後からゆっくりとした足取りで、大地を踏みながら一歩ずつ歩んでくる古老の姿を
目の隅に置きながら、早くも支える力をすべて失い、ガクガクと小刻みに笑い始めている
自分の膝の様子に、流れる汗を拭いながら康平が苦笑いを浮かべています。



 徳次郎の屋敷はひときわ高い斜面の上に、四方のすべてを木立に囲まれて、
長い年月を悠然とそびえています。
赤城山の斜面を吹きおろす真冬の激しい季節風、上州の『からっ風』を避けるために、
この辺り一帯の農家は、北と西側に樹木を植え、荒れ狂う強風から家を守ります。
屋根の高さよりもはるかに高い位置まで伸ばされた樹木は、真冬になると漬物用の
大根を乾燥させるための、格好の風の晒し場としても活用されています。


 養蚕の衰退とともに、独特の特徴を持っていた養蚕農家の母屋は、
何度かの改造を改築を重ねてきましたが、ついにその姿が次から次へと消えはじめました。
今では徳次郎の屋敷だけが、茅葺き屋根の2階正面の一部をすっぱりと切りおとす独特の
構造をした『赤城型民家』と呼ばれる形態と姿を、かろうじて維持をしています。



 明治から大正時代にかけて、上州各地で次々と建築をされた養蚕農家の母屋は、
その外観だけを見れば、まるで3階建てに相当をするようなきわめて大きなものばかりです。
総2階建てというのが、当時の普通の養蚕農家の姿です。
広さをほこる2階のスペースは、カイコ専用として使われました。
1階の住人たちの居住スペースですら、大量のカイコたちによって占拠され
住人たちが追い詰められ居場所を無くすことも、養蚕農家においてはしばしば起こる
日常的な出来事のひとつです。
人とカイコが一緒になって暮らしていく形こそが、まさに養蚕最盛期における
農家の母屋の役割と形態でした。


 平坦地に建てられた養蚕農家の多くが、2階の全てに開口部を設けています。
しかし赤城型の農家では、正面入口の上にあるぽっかりと空いた開口部分を除き、
ほぼ全周にわたり大きな傾斜を持つ屋根が、すっぽりと覆い尽くしているのが特徴とされています。
比較的温暖な気候を保つ平坦地にたいし、秋の冷え込みが早く、思わぬ早霜や低温による
影響などを受けないため、山間地の知恵として対応した結果と言われています。



 徳次郎が住む赤城型農家の典型的な屋敷は、茅葺きの門を入ると
邸内には、母屋と同じだけの年月を経過した蔵と井戸が、昔の姿そのままに残っています。
子供の頃に康平が元気に駆け回って遊んだ庭は、当時とほとんど変わらぬ姿で、
懐かしい雰囲気のまま、久しぶりの珍客をただ静かに出迎えてくれます。


 サワサワと休むことなく鳴りつづける、桑の葉の音が庭の片隅から響いてきました。
ポツポツと無限に繰り返される、静かな音も同時に聞こえてきます。
カイコが桑の葉を食べる時に出す、独特の食事の音です。
バラックと呼ばれる別棟の建物の一角に、壁と室内のすべてをビニールで覆われた
蚕の飼育スペースが設けられています。
蚕座(さんざ・飼育のために整えられたカイコのおき場所)の上には、
積み上げられた桑の葉のあいだを埋め尽くして、脱皮から目覚めたばかりのカイコが
旺盛な食欲ぶりを発揮して、ただひたすら食事中という光景が見て取れます。



 「『船起き』したばかりのカイコだ。
 そいつが例の、金色の糸を吐くという、オカイコ様だ」


 ようやく追いついてきた徳次郎が、康平の背後から声をかけます。
『船起き』は、成長のために何度も脱皮を繰り返すカイコが、4齢目になった時点のことを言い
繭を作る直前状態の5齢目になったときの状態を指しています。
蚕は4回におよぶ脱皮をくりかえした後、成虫となりその先で繭をつくります。



 孵化(ふか)とは、幼虫が卵の殻を食いやぶって生まれてくる状態をいいます。
カイコは朝のうちに出てくる習性があり、卵が青くなるとそろそろと幼虫が生まれてきます。
生まれたばかりのカイコは、たくさんの毛におおわれていて、黒っぽい色をしています。
まるでアリのようにも見えるので、蟻蚕(ぎさん)とも呼ばれます。
体長はまだ約3mmあまりで、体重は100頭(とう)で45mgくらいの重さです。
(カイコは、「匹」ではなく、動物と同じように「頭」と数えます)


 ふ化したカイコを蚕座(さんざ)に移し、飼育を始める作業のことを「掃き立て」と呼んでいます。。
羽ぼうきで蟻蚕を掃きおろす様子から「掃き立て」と呼ぶようになり、
現在では生まれたばかりのカイコに、はじめてエサをあたえる作業のことを指してます。



 ふ化してから、1回目の脱皮(だっぴ)までの期間を1齢。
次いで2齢、3齢・・・と言い、カイコは、普通、5齢目で繭(まゆ)を作りはじめます。
カイコが桑を食べることをやめ、脱皮のために静止する時期、またはそのようになった状態を、
ねているようにも見えるので、眠(みん)と呼びます。
最初の眠りが1眠で、次いで2眠、3眠、4眠と農家は呼びます。
起蚕(きさん)とは眠りから起きたカイコのことで、脱皮を終えたばかりのカイコを指します。



 「こいつは、群馬県の蚕糸技術センターが育成してきた日本種の
 「ぐんま」と、黄繭の中国種「支125号」を掛け合わした、日中の一代交雑種だ。
 繭糸は細いがほぐれ具合も良好で、この繭からは、光沢のある黄色の生糸が生まれる。
 千尋という女の子のたっての希望で、飼い始めてからもう3年目になる」


 蚕は、上州の農村経済を支える中心でした。
かつては「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」と呼ばれ、
座敷を蚕室として使い、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼い続けてきました。
人々はこの蚕を大切にして「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と
尊称で呼ぶことが、上州における養蚕農家の普通のならわしです。
「おカイコ様」と呼ぶほど民家の構造にも、実に大きな影響を与えてきました。



 赤城山南面の富士見村や赤城町の勝保沢、片品などでは、
掃き立ての時から2階で飼育をし、階下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる
「いぶし飼い」という技法で、長年にわたりカイコを育ててきました。
天井の板と2階の床板にはすき間があり、暖かい空気が上昇するように工夫をし、
2階ではまわりへ障子をめぐらし、床にはむしろなどを敷き詰めました。


 大正から昭和にかけて大流行をしたのは、稚蚕期に蚕室の目張りをして、
養蚕火鉢などで保温をするという『密閉育』です。
稚蚕期のうちは下の座敷でカイコを飼い、大きくなったら2階も含めて家全体を使い、
家ぐるみで飼育を行うような形に変わりました。
養蚕農家の二階は、蚕室として活用ができるように、仕切を設けず広々としています。
さらに2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするために、
さまざまな民家構造が次々と考え出されてきたのも、実は
この頃からのことだと言われています



 例えば、北部の山間部にみられる、茅葺き屋根の妻の部分を切り落とした民家の形。
赤城南麓に広く分布をする、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型の民家。
あるいは、榛名山麓の前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた、榛名型の民家。
屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)を持つもの
なども、すべて上州に作られた、典型的な養蚕農家の母屋たちです。





・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(42)

2013-07-29 10:30:03 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(42)
「古老が語る『沈黙の春』という言葉の持つ意味は・・・・」



 
 「で、どうする。康平。
 相手は強敵だ。それなりに覚悟を決めて取りかかる必要がある。
 巣食っている枝を片っ端から切り落とすにしても、高所作業車か足場が必要だ。
 これだけの量の枝を焼却処分するにしても、これまた大変な手間になる。
 第一この木を、枯れ木のような惨めな姿に変えちまったら、あの子が心底嘆くだろうなぁ。
 せっかくの銘木、一瀬(いちのせ)を苛めすぎて可哀想だって怒るだろう。あの子は」


 「あの子?誰なんです。その嘆く女性というのは」


 「女性?。まだわしは女とは言っておらんぞ。なんで女と思う」



 「あ。いや・・・・ただなんとなく、嘆くといえば女性かと思っただけで。
 他意はありません。ただの直感です」


 「なるほど、ボケてはおらんな。お前の直感はまさに正しい。
 千尋という子でなぁ、まだ30そこそこかな。最近になってチョコチョコわしの所へ来る。
 いま飼っている黄金の糸を吐くオカイコは、その子に熱望をされて飼い始めたものだ。
 知っておるか、お前。今時のオカイコは黄金の糸を吐くのだぞ」



 「それくらいは噂で聞いています。
 ひと世代限定の、群馬黄金の糸のことなら養蚕関係者から聞いています。
 え。ということは、徳爺さん(徳次郎の愛称)は、養蚕を復活したのですか!」


 「うむ。千尋という女の子の、熱意と迫力につい根負けをしてのう。
 その子が言うには、ここの桑の大木を目印に、下の駅から坂道を登ってくるんだが、
 日に日にアメリカに占領されていくこの桑の姿に、来るたびに心が傷んでいたそうだ。
 お前、理由はともあれ、女の子を泣かせるのだけはよくないぞ。
 そんな理由(わけ)だから、一瀬の枝を切ることには、わしも反対だな」



 「じゃあ、消毒をするしかありません。こうなったからには」


 「お。なかなかに見所のある決意だ。うん、女のためにやる気になったか。康平」



 「そう言う意味ではありません。しかしやらざるをえません。
 放置すればこのまま大繁殖を繰り返して周囲へ迷惑をかけますし、被害も増えるでしょう。
 それにしてもどこの誰なんですか、その千尋とか女の人は?」


 「うん。とびっきりの京美人じゃ。
 あ、いやいや本人は和歌山の海岸沿いに生まれたと言っておったから、それはちと違う。
 なんでも京都で呉服商に勤めていたが、絹の糸地に興味を持ち、わざわざ単身で
 この群馬までやって来たあげく、ようやくの思いで碓氷製糸場の座ぐり糸見習いとして
 就職を決めたとか言っておった。
 ゆくゆくはこの地に根付いて、座ぐり糸作家になるのが本人の夢だそうだ。
 伝統的な、節のある赤城の糸に魅せられて、この勢多郡(せたぐん・赤城南面に広がる町村の総称)
 へ休日のたびに、教えてもらうのを楽しみに訪ねてくるようになった。
 来るたびに養蚕業のシンボルとして、この桑の大木を見上げるのが楽しみだったそうだ。
 わしと出会ったのもこの木を見上げていた3年前のことだった。
 それからじゃ、付き合いがはじまったのは」


 「へぇぇ。それがきっかけで、また養蚕を始めたわけですか。
 なるほどねぇ・・・・美和子だけじゃなかったんだ。生糸に興味を持つ女の子は」



 「何か言ったか。よく聞こえんが。
 わしのところに、動噴(動力噴霧器)があるが、それでも苦戦をするだろう。
 なにせこの大きさとこの繁殖ぶりだ。ちっとやそっとの消毒では、いっこうに歯が立つまい。
 まさに『沈黙の春』とも言うべき勢いが必要だな」
 
 「なんですか。その『沈黙の春』とは?」


 「知らんのか。農薬についての有名なバイブルだ。
 農業というものは、野菜や植物に取りつき害をなす虫と、農地にはびこる雑草との戦いだ。
 アメリカを中心にはじまった大規模生産の近代農業は、強力な農薬の開発と
 化学肥料を武器に一気に、昔の生産様式を根底から変革をした。
 散布した霧状の農薬が、木の葉から雫となって滴り落ちるまで散布をする。
 せみが狂ったように泣き叫び、木から逃げていくが、途中でポタリと地面に落ちて、
 また飛び立つが、遂に力尽きて地面に落ちる。
 どこかに潜んでいた蝶も、ひらひらと舞いながらやがて地面へ落ちてくる。
 強力な農薬や、消毒散布剤のうるさい散布機の音が去ったあとは、
 虫たちには死の世界が訪れる。と、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」で書いておる。

 1962年に出された「沈黙の春」は、化学物質による環境汚染の重大性について、
 勇気ある女性が書いた、世界で最初の警告書だ。
 1962年に出版されて以来、アメリカでの発行部数は150万部を超え、
 その後に20数カ国で翻訳され、読者は世界中に渡っている。
 この「沈黙の春」で取り上げられている農薬は、主に、DDTやBHCをはじめとする
 有機塩素系の殺虫剤と、パラチオンに始まる有機リン系の殺虫剤だ。
 当時、アメリカではこれらの農薬や化学物質は、止めどなくもなく大量に生産をされた。
 そしてあらゆる農場において、惜しみなく大量に散布をされた。
 あれから50年近く経っても、これらの農薬は相変わらず出回り続けているし、
 有効な農薬のひとつとして、いまだにその地位を保ったままだ」

 「 有機リン系の農薬といえば、オウムの地下鉄サリン事件で問題となった
 毒ガス兵器であるサリンやソマン、タブン、VXガスと同じ仲間にあたる化学薬品のことでしょう。
 サリンよりは毒性が残りにくく、いくらかは安全だと言われていますが毒性は同じです。
 有効性がある裏側には、やはり重大な危険も潜んでいます。
 農薬も使い方を誤れば、強い毒性を発揮することになります。
 その辺の悪循環はなんとか、ならないものなのですか?」


 
 「まず無理だろう。毒性を弱めれば害虫に効かなくなる。
 かといって毒性を高めれば、こんどは人間や自然界へ害をなすことになる。
 いずれにしても、難しい選択がつきまとう問題だ。
 農薬の危険性には「慢性毒性」「急性毒性」「突然変異性」「発ガン性」などがある。
 「残留農薬」といって、分解されずに農産物や環境にそのまま残り続けることも有る。
 過半数の農薬には人体や環境への、なんらかの危険性があると言い切れるだろう。
 だが、ここでいちいち農薬について、お前さんと論じている暇はない。
 問題は、早めに消毒を済ませてアメリカシロヒトリを根こそぎにしてしまうことだ。
 しかし実行にあたっては、時間を選ぶ必要もある。
 子供たちが歩く通学の時間帯は避けて、午前中の早い時間に決着をつけたほうがいいだろう。
 善は急げだ。行くぞ、康平」


 「え?子供たちにも影響があるのですか。農薬の散布には」


 「備えあれば憂いなし。万事において最優先すべきは未来を担う子供達であろう。
 お前さんくらい毒に強くなってくれば、多少の免疫などもあるが
 成長途上の子供にとっては、些細な毒性も後になってから命取りとなる。
 『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンという女性は、おそらくそんな視線も
 持ちながら、今後問題になってくるであろう、農薬による健康被害と自然破壊について、
 やむにやまれぬ気持ちで書き始めたのだと思う。
 読んでみるか、康平。わしも一冊だけ別にもっておる。
 知識はいくつになっても必要だ。ぼやぼやしておると、時代に置いていかれるからな。
 ほれ、行くぞ康平。早くわしの家へ行って、一足先に消毒の準備に取り掛からぬか。
 行動が遅いぞ!それそれ、急げや急げ。わっはっは」
 
 突然すぎる展開ぶりに目を白黒とさせながらも、古老に叱咤をされた康平が、
徳次郎の屋敷の方向を目指して、歩き慣れた坂道を脱兎のごとく駆け出していきます。





・「新田さらだ館」は、
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からっ風と、繭の郷の子守唄(41) 

2013-07-28 05:47:34 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(41) 
「窮すれば則ち変ず・・・・古農が語る桑の大木のいわれ」




 「窮すれば則ち変ず、変ずれば則ち通ず、通ずれば則ち久し。
 物事が行き詰まると、その行き詰まりを打破しようとしてまたそこへ変化が起こる。
 変化が起こればまたそこから道は開ける。
 道が開ければまた先へ進むが、また同じように行き詰まることもある。
 打破しようとしてまた、別の変化が起こることもあるだろう。
 このように、物事というものは無限に繰り返され、道は永遠に続いていく。
 古代中国の『易経(えききょう)』には、森羅万象の変化の法則がそのように記されておる。
 どうした、康平。久しぶりにいき会ったというのに、今朝はいやに真剣な顔だな。
 難しい顔をして空などを見上げておるが、何事か始まる気配があるか。
 夜が明けたばかりだというのに、UFOか、はたまた人工衛星でも見えたか。
 かぐや姫が月へ帰るのは満月の晩であるし、もしやホウキにまたがって空を飛ぶ魔女を観たか。
 それともなんぞの、天変地異の前触れでも有るのか」



 背後から声をかけてきたのは近所に住む老人で、徳次郎という古農です。
朝早くからの農作業を一段落つけた後なのか、首にかけたタオルで汗をぬぐいながら、
遠くから康平へ声をかけてきました。



 生まれついての農業者で、年齢が80歳を過ぎた今でも夜明けとともに野良へ出て
毎日のように、農作業の汗を流しています。
この地で養蚕業が盛んだった時代に、常に指導的な役割を果たしてきた人物です。
水利に苦労する山間地において幾多の灌漑事業と、土地の改良にも先頭に立って取り組み、
常に苦労を厭わないで行動をしてきた、まさに先人と呼ぶにふさわしい先進的な人物です。
とりわけ、太古の哲学書でもある中国の『易経』をこよなく愛読し、自らの行動を
その書から学び、いまだに実践を怠らないという、気骨に満ちた人物でもあります。


 中国で生まれた易学に深い造詣をもつ徳次郎は、自然科学についても深い知識を持ち、
幾多の森羅万象について解説をくわえ、さらに人生についても同じように語ります。
農家の人々は親しみを込め、この徳次郎老人のことを徳爺と呼び、さらには畏敬の念をこめ、
『農家現役の最古老』と彼を賞賛します。



 「ほう。なるほど、見事なアメリカの大群じゃ。
 それにしても、これはまた見事なまでに巣をつくったもんだ。
 普通はサクラかカキ、ウメなどに巣食うものだが、クワにこれほどつくとは珍しい。
 アメリカ嫌いの千佳のことだ。これでは毎日、見るたびに大騒ぎしているに違いない。
 そうか。お前が後始末を頼まれたか。
 それで万事窮して立ち尽くしておったのか。なるほどこれでは手を焼く」


 古老が康平の背中で立ち止まると、嬉しそうに目を細めています。
『たしかに近くで見ると、まさに鬼気迫る光景だ。コイツは』と、両手を胸の前へ
組みながら、古老がアメリカシロヒトリに占領されている桑の巨木を、真下から
むんずとばかりに見上げています。



 「アメリカが桑の木へつくのは、珍しいことですか?」



 「うむ。 カキ、サクラ、ウメ、プラタナス、アメリカフウ、ヤナギ、ハナミズキ、
 アンズ、クルミなどが、被害が多いとされる木だ。
 だからといって、アメリカが桑を嫌うというわけではない。
 この木は特別な桑の木だ。養蚕業界における長い歴史を、根本から変えたというくらい
 貢献をしたもので、まさに、養蚕業の繁栄を生んだ記念碑的な存在と言える。
 このあたりの桑畑では、この木が真っ先に導入をされ、親木とされた。
 この一帯に作られた桑畑は、すべてこの木の子孫か親族たちだ。
 そんないわれもあり、他の桑はすべて抜かれてしまったが、こいつだけはここへ残された。
 もう樹齢は、80年を超えたかのう。いや、わしが生まれる前のことだというから、
 1世紀を超えたかのう・・・・」


 「え、樹齢が80年をはるかに超えている?。
 養蚕用の桑という木は、人の背丈ほどの高さに切りそろえて管理をされていますので、
 背丈が低いのが当たり前と、すっかり思い込んでいました。
 自然界へ放置すると、桑もそれほどまでに長寿で、大木に育つのですか」


 「驚くにはあたるまい。
 沼田市(群馬県)には、日本一の桑の巨木がのこっておる。
 『薄根の大桑』と言って、樹齢は1500年、幹の周りは5.3m、直径が1.7m。
 樹高が13.7mもあるという自然界の山桑だ。
 お前が見たのは、養蚕用に畑に植えられていた桑の木のことだろう。
 桑の木の一番の特徴は、枝が伸びるに従って地面に接している部分から旺盛に根を張ることだ。
 四方へ伸びる多くの根によって支えられることで、枝と葉を伸ばす勢いも強くなる。
 低木で根をよく張るものが養蚕には適しているが、残念ながらもうほとんどは残っておらん。
 桑の木を見ること自体、珍しくなったほどだ」


 「この木が養蚕業にとって特別な役割を果たした、と言われましたが
 それはいったい、どう言う意味なのですか」



 「こいつは、一瀬(いちのせ)と命名された、養蚕用クワ苗木の原木で、
 農林水産省によって品種名を一瀬と名付けられた桑の木だ。
 日本全国へおおいに普及をして、大正から昭和初期にかけての日本の養蚕業の発展に、
 大きく寄与をした桑苗の親株(原苗)にあたる。
 原木は、山梨県西八代郡市川三郷町に今でもあり、山梨県指定の天然記念物とされている。
 1898年(明治31年)に、三郷町に住んでいた一瀬益吉(いちのせ ますきち)という人物が、
 中巨摩郡忍村の桑苗業者から購入した、品種名「鼠返し」と呼ばれる桑苗の中から、
 通常の鼠返しとは異なる良質な苗木を、3株ほど偶然にも発見をした。


 3つの苗木は枝の色合いなどから、シロキ(計2株)、アカギ(1株)と呼ばれ、
 益吉はこれを原苗とし代出苗を繁殖母体として、自らの桑園で増やし、
 近隣の村へこれを配布をした。
 この木は葉の質、収穫量ともに従来のものとは明らかに異なり、
 葉には光沢があり大きく、病害虫にも強い優れた品種のものとなった。
 1916年(大正5年)に行われた、西八代郡農会主催の「桑園品評会」に出品をされ、
 さらに同年の大日本蚕糸会山梨支会主催の「第三回蚕糸品評会」において、
 優等賞が下賜され、一躍、日本全国に知られることとなった。



 養蚕業が日本の外貨獲得のための輸出産業として、盛んに行われていた時代のことだ。
 一瀬益吉によって見出されたこの桑は、農林水産省により、一瀬の姓を冠した上で
 栽培品種名として正式に登録をされ、またたく間に日本全国へ普及をした。
 品種登録後、シロキは一瀬の青木、アカギは一瀬の赤木と正式に呼び変えられ、
 今日に至るまでの、養蚕用桑のすべての原型となった。
 一瀬益吉は生涯を桑園の改良や、製糸工場設立など養蚕業の振興に尽力し、
 1921年(大正10年)、5月28日に、55歳で死去をした。
 この大木は、代々にわたるそれらの血筋を受け継いできた、正当な血を引く一瀬だ。
 ここへ植えられて以降、多くの子孫たちをここの大地一帯へ広げていった。
 一瀬という桑は、それほどまでに優れたものではあったが、
 さすがに時代の波と製糸業の衰退という現実には勝てず、今はここに
 こいつを残すのみとなってしまった」


 巨木を見つめている古老の瞳には、感慨深い想いが深く潜んでいます。
康平が初めて聞く、桑の大木にまつわるかつての養蚕業の栄光と挫折の物語であり、
かつまた、長い年月にわたって養蚕業の衰退の道を見つめてきた、
生き証人の姿、そのもののようにも見えました。





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からっ風と、繭の郷の子守唄(40)

2013-07-27 11:39:35 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(40)
「坂道の上で康平を待っていたのは、大木を完全制圧しているアメリカ君」


 
 苦手だと自ら宣言をしている害虫に対し、君付けで呼んでいるのは世間ひろしといえども
うちのお袋くらいのものだろう、と、坂道を歩きながら康平がつぶやいています。
父親は康平が小学校6年生の時に2年余りの闘病の末、力尽きて概に亡くなっています。
それからの母は、一人息子の康平を女手ひとつで育てながら黙々と畑仕事をこなし、
さらに週のうちの3~4日を、地元にできた道の駅へ出勤をしています。


 たまたま昔の同級生たちが顔を揃えたということもあり、道の駅での
パート仕事が、千佳子にとってもうひとつのまったく予想外ともいえる変化をもたらします。
まったく化粧をせず、真っ黒に日焼けしたまま働いてきた母が、再び化粧水を手にとり、
白く生まれ変わっていく姿を見ることは、康平にとっても予想外と言える出来事です。
枯れたとばかり思いこんでいた母が、日に日に女としての姿を取り戻していく姿を
見せつけられると、軽い衝撃とともに母がまだ50歳を超えたばかりという真実にも気がつきます。
康平はいまさらのように、母親に女の変わり身の不思議さを見せつけられ、
実は、かるい戸惑いさえ覚えています。



 母の車を取り巻いた3人はまだ、大きな声で意味不明の言葉を連発しながら、
大きな荷物を必死になって、車のトランクへ詰めこもうといまだに躍起になっています。
母の様子を見れば、悠然として運転席へ座りこんだまま
『頼んだよねぇ~康平。アメリカ君の駆除!よろしくねぇ~」と
車の後方での騒ぎをよそに、涼しい顔で、康平へいつまでも手を振り続けています。


 簡易郵便局のあるT字路から緩やかに登り始める坂道は、畑のあいだを歩いたのち、
ものの7~8分ほどで最初の丘陵地へ登り着きます。
僅か30mほどの標高差とはいえ最初の高台に当たるここからは、
赤城山の傾斜に沿った田園地帯の広がりを、遠い範囲まで遥かに鮮明に望むことができます。
かつては『ふじ見の坂』と呼ばれたことからも、晴れた冬の日には、
遥か彼方の南西部の山脈の上に、ぽっかりと富士山の山容を見ることができました。
このあたりから県道を西に向かって進むたびに、『富士』を冠した地名が増えてきます。
山腹に位置をしている隣接の『富士見村』などは、まさにそうした典型のひとつです。



 問題のアメリカ君が巣食う木は、丘陵地のほぼ真ん中に一本だけ突出をしています。
周囲の木々よりもはるかにひときわ高く、四方へ広がりぬいたその枝は、真夏になると
涼しい木陰をあたり一面の人々へ提供をします。
本来ならば鮮やかな新緑から濃い緑色へ変わり、活き活きとした大きな葉で覆われている
はずの大木が今は、一面を白い蜘蛛の巣のようなものがまとわりついています。
いたるところでボロ雑巾が、風に揺れながらぶら下がっているような、
そんな悲惨な光景そのものが、康平の目の前にひろがっています。


 「なるほど、聞きしに勝る凄まじい光景だ。
 まさにアメリカ軍に全面占領をされた、敗戦国の日本そのものだ・・・・ううん」



 大木に巣食っているのは害虫のひとつ、アメリカシロヒトリです。
本州、四国、九州地方に広く分布をする、北アメリカが原産とされる帰化種の害虫です。
第二次世界大戦の終了後、アメリカ軍の軍需物資などに付着して、
はじめて日本へ渡来したと言われています。
1945年(昭和25年)に東京で発見されたのをきっかけに、猛烈なスピ-ドで山手線の沿線から、
中央線の沿線へと広がりを見せ、その後、関東地方を中心に驚異的な速さで
広範囲への分布をなし遂げたという、繁殖力に長けた害虫です。


 「早い段階なら、枝ごと巣を切り取って焼却すれば済んだが、
 ここまでアメヒトの繁殖が進むと、事はそんな対応ではとてもおさまりそうもない。
 対策が遅れたとは言え、たしかにこれではお袋もお手上げだ。
 さて、どうしたもんだか・・・・」


 アメリカシロヒトリが大繁殖を見せている大木を見上げながら、康平が絶句します。
康平は、タバコを吸いません。


 (こんな時に喫煙家なら、タバコを一服しながらこのアメリカに占領された
 木を見上げて、しばしのあいだ、なんだかんだと対策などを考えるのだろうが、
 あいにくと俺は、19のときにやめちまったからなぁ・・・・)

 高校時代からタバコを吸いはじめていた康平が、そのタバコをやめたきっかけは
やはり俊彦の蕎麦屋『六連星』で修行をはじめた2年目のときです。


 その日、あたらしいメニューが出来たので何気なく、
壁の短冊を交換しょうとした時でした。
外されたあとには、薄黄色の壁の地の中にそこだけ真っ白の空間が突然出現をしました。
驚いた康平が、師匠の俊彦を振り返ります。
『もともとの壁は真っ白だ。
タバコのタールが付着を繰り返して、いつのまにか変色を遂げる。
一週間から10日程度、たまたま拭き忘れた場所などがあると、軽く拭いただけで、
雑巾が茶色くなる。だが一番の問題は、感覚が麻痺をして嗅覚が鈍くなることだ。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことを五感と呼んでいるが、
調理には全て必要とされる感覚だ。
とくに、味覚と嗅覚は絶対的に必要とされる要素だ。
学問的には、少なくとも9種類の感覚があって細かく分類をすれば
20余りになると言われている。
お前もタバコをやめてみろ。朝の空気がうまくなる。
俺も修行時代はタバコを我慢できたが、仕事を覚えてからは悪い大人になり、
いつのまにかまた、悪い習慣が身についてしまったようだ。
あれから20年・・・・止めようと思うのだが、いまだに実行できないままだ。
あっはっは』


 今ならそれほどの苦もなく、簡単に止められるからやめておけというヒントを
俊彦からもらった康平が、素直にその場でタバコをやめてしまいます。
昆布と鰹節から出汁(だし)を取りだす仕込みの仕事は、目で確認できる色合いと
微妙に変化していく香りこそが肝心で、まさに身に付いた鋭い嗅覚こそが命になります。
雑味のない出汁の清廉な香りを嗅ぎ分けることは、それから先の康平の仕事上の
快感のひとつにさえなってきました


 (昨夜のトシさんがいたら、この光景をやっぱり一服しながら見上げるのだろうか。
 まぁ、それはさておいて・・・・困ったぞ、こいつは。
 どうする、切るか、それとも消毒をするか。どちらにしても一筋縄ではいかないようだ。)




 アメリカシロヒトリはさなぎで冬を越し、5月ころに羽化した成虫(雌)は
300個~800個の卵を桜やくるみなどの樹木の葉裏へ産みつけます。
卵は10日ほどで幼虫となり、その幼虫は集団で生息し、薄い白い網状の巣網を作ります。
それから1~2週間後に、分散をして葉を食べあさり始めます。
体長が約3センチ位になると繭(まゆ)を作り、その中でさなぎとなり
2~3週間ほどで羽化をして成虫に変わります。
5~10日間の短い寿命の間に卵を産み、幼虫になると、再び樹木の葉を食べあさります。
初秋になると繭(まゆ)を作り、さなぎとなって冬を越します。
幼虫(毛虫)の発生時期は6月から7月にかけて、8月から9月にかけての年に2回です。


 仮に、刺されても人体にほとんど影響はなく、アレルギー反応を示す人に
影響が出る程度ですが、極めて旺盛な食害のために、サクラなどが衰退をしてしまいます。
また何よりも、糞で樹木の周囲が汚くなることから発生とともに駆虫が必要になります。



 康平が見上げている桑の木の高さは、ざっと10m余り。
ほぼ3階建ての建物の高さに相当をします。
四方へ張り出し大きく広がっている枝にもやはり、同じくらいの横幅があります。
根元から6本に分かれた幹は大きく広がり、ハート型のようにも見える大きな葉が
広げられた枝一杯に茂り、迫力はまさに他を圧倒しています。


 クワ(桑)はクワ科クワ属の総称で、
カイコの餌として古来から重要な作物とされてきました。
また甘酸っぱい味を持つ小さなその実は『ドドメ・桑の実』と呼ばれ、
果樹としての利用もされています。
落葉性の高木で大きいものでは15m以上に達しますが、普段見かけるものは
数m程度のものが多いようです。養蚕が盛んだった時代には収穫を容易にするために、
幹の高さが地上から1~2mほどに刈り込まれ、長い年月にわたって
大切に管理をされてきた樹木のひとつです。



・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
 http://saradakann.xsrv.jp/

からっ風と、繭の郷の子守唄(39)

2013-07-26 10:29:03 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(39)
「朝帰りの康平を待っていたのは、笑顔の母と桑の木に巣食うアメリカ君」




 「あ。そこで結構です。あとは酔い醒ましで少し歩きます」


 上毛電鉄に沿って西へ伸びていく県道が、有人駅の『新里駅』を過ぎた辺りで
後部座席の康平が、運転中の辻ママの肩を軽く叩き合図を送ります。


 「遠慮しなくてもいいのに。行くわよ、千佳ちゃんちの家の前までくらいなら」


 と、辻ママが後ろを振り返りもせずに、康平の母の名をポンと口にします。
昔からそんなふうに周囲から呼ばれてきた、懐かしい母の愛称が突然出てきたために、
降りる支度をしていた康平が、思わずその場で目を丸くして固まってしまいます。


 「千佳子は私より、いつつ下だ。
 可愛い子でねぇ。色白で無口だったけれど、いつもニコニコ笑っている愛嬌のある子だ。
 小学校低学年の頃からよく面倒を見てあげたもんだ。
 背中より大きい赤いランドセルを背負って、真っ赤な顔をして、大粒の汗をかきながら、
 一生懸命に学校への行き帰りの坂道を歩いていた、あんときの女の子が
 いつのまにか、こんな大きな男の子のお母さんだもの・・・・
 やっぱり、あたしも一度くらいは結婚をして、子供の一人くらいは産んでおけばよかった。
 この歳になってからそんなことを考えても、もうすっかり後の祭りか。あっはっは」



 『じゃあ、ほんとうにそこで降ろすわよ』そう言いながら、辻ママが車を止めたのは、
古くから有る簡易郵便局の小さな駐車スペースの前でした。
簡易郵便局とは郵政民営化以前に、郵便局の窓口事務を地方公共団体や組合、個人などに
委託していた郵便局のことで、地方における郵便局の代理店です。 
局長と事務員一人をおいた程度の少数による人員体制で、集配業務は一切行わず、
主にはがきや切手を売り、郵便貯金業務などの窓口業務をこなします。
郵便局と呼ばれるものが全国で24,000局に達するといわれていますが、そのうちの
4,000局が地方や山間地において、民間によって維持管理されている簡易郵便局です。


 朝の5時を過ぎたとは言え、それほど人の気配も車の通行量も無い道路事情の中でも、
常に慎重派の辻ママは、路肩に充分な余裕を見つけてからでないと車を停めません。


 「康平くん。大切な人へのお別れのキスはしないのかい?
 ここで別れてしまうと、おふたりは再会までには、また長い時間が空くでしょう。
 あなたはともかく、美和子ちゃんの方がお別れを寂しがっています。
 いいのかい、ほんとうにキスは無しでも?
 後悔しないのかい、あんた達は。お別れのキスはしなくても?」


 「恥ずかしいわよ、ママったら。人目もあるし、第一あたしはすでに人妻です!」



 「あら。人目がなければ、キスくらいならしちゃうのかしら、あなたたち。
 たった今、そんな風に聞こえました。美和子ちゃんの本音が・・・・
 あはは。冗談ですよ、美和子ちゃんに康平くん。
 じゃあね、千佳によろしく。美和子ちゃんは私が責任をもって実家へ落としていきます。
 また遊びに来て頂戴。短い首を長くして待っていますから。うっふふ」


 運転席から華奢な指が振られた後、美和子を乗せた辻ママの車は、
実家のある次の集落へ向かって、朝の日差しの中を遠ざかっていきます。
山間を走り抜けていくこの県道は、ここに建っている見た目も粗末な簡易郵便局を境界にして、
その先からはあっけないほど簡単に、人家の姿が消えていきます。
田んぼなども点在をしていますが、斜面に沿って畑ばかりが続いていくここの大地は
植えられたばかりの野菜が、所々でうっそうと茂る桑の葉に遮られながらも、
はるかな彼方にまで、見え隠れをする田舎の景色を作っています。



 それ以外には、これといった特徴のない朝の田舎の風景が広がる中、
朝日に輝き始めた桑の木の向こう側へ、辻ママの車が消えてしまうまで、康平は
その場へ立ちすくんだまま、ただぼんやりとして見送っています。


 「なんだい。珍しく久々に朝帰りをやらかしたと思ったら、
 なんだか、ずいぶんとややっこしい女との別れ方を、朝っぱらから
 演じているんだねぇ、おまえは。
 運転していたのは、桐生でスナックをしている辻のみゆきママさんだろう?
 わかんないもんだねぇ、、あんたも・・・・あんな年配の大年増が好みなのかい?
 母さんよりも、いつつも年上だよ。知っているとは思うけど。
 でも驚いたねぇ、すごい趣味だ。わが子ながら」



 背後からの声に、康平が慌てて振り返るといつのまに忍び寄ったのか、
いま流行りのハイブリッド・カーの運転席に、綺麗にお化粧を施した千佳子の顔があります。
電気モーターを主動力源として備えたハイブリッド車は、アイドリング時や低速走行において、
外部へエンジン音も振動音さえも伝えない静寂性のために、無音の車と呼ばれています。
忍者のように音もなく忍び寄る、まさに現代科学の粋を集めた言えるサイレント・カーです。


 「だから音のしない車は、俺は嫌いだ。
 低速で動く時にまったく音がしないから、それで人を油断をさせちまう。
 そんなことだから、朝から息子のプライバシーまで覗き見ることになるんだ。
 母親のくせに、息子の秘密を朝から垣間見ることがそんなに楽しいか。
 まったく、年甲斐のない悪趣味だ・・・・」


 「助手席にいたのは、となり村の美和子ちゃんだろう?
 どこかで見た覚えはあったけど、それがこの歳になるとなかなか思い出せなくてねぇ、
 思い出すまでずいぶんと、苦労をした。
 あの子も確か、しばらく前にお嫁に行ったと聞いたよねぇ。
 今時の娘さんのことだから、性格の不一致か何かでもう男ととっとと別れて、
 さっさと実家へ戻ってきたのかい。もしかしたら?」



 「母さん。どうでもいいだろう、そんなこと。
 それよりも、なんでこんなに朝の早い時間からこんな場所へ車でいるの。
 それのほうが俺には、はるかに驚きだ」


 「人と待ち合わせをしている最中だ。言ったじゃないか。
 今日からは毎年恒例の、一泊二日の気のあった仲間同士の息抜き旅行だって。
 もう忘れちまったのかい、この子ったら。
 どうせ人の話なんか、どうでもいいと思って最初から聞いていないんだろう。
 だからこんな処で、思わぬ墓穴まで掘ることになる。
 でも、美和子ちゃん・・・・しばらく見ないあいだに、すっかり美人にかわったねぇ。
 お嫁に行くと男を知って、やっぱり女にも磨きがかかるのかしら。
 あたしも負けずにもう一度、お嫁に行こうかしら、ねぇぇ、康平。いい考えだろう。
 そのためにも、あんたも早く、お嫁さんを見つけてきておくれよ。
 そうすれば、あたしも早めに肩の荷を下ろして、晴れて自由の身になれるのに」


 アイドリング中のハイブリッドからは、まったく振動音がありません。
母が大好きだという女性演歌歌手のCDが、鮮明な音のまま室内から明瞭に響いてきます。
50を超えたばかりの母が化粧を施すと、素顔で農作業ばかりをしてきた顔とは
全く別人のようになり、驚くほどの妖艶さまで戻ってくるから不思議です。


 「おふくろ。その念入りなお化粧ぶりから推測すると、気のあった仲間の
 息抜き旅行は口実で、実は男でもいるんだろう。久しぶりに若い母さんを見た気がする」



 「ふふん。綺麗な母さんも、まんざらではないだろう。
 念入りにお化粧をするのは、一緒に行く仲間に負けたくないからだけさ。
 この歳になると女を見せるにしても、最後の華が近いもの。
 みんな意気込んで張り切って化けるんだ。
 負けたくはないからねぇ、女はいくつになっても見栄っ張りだ。
 あ、そんなことよりも、あんたにひとつ頼みがあったんだ。
 裏の桑の木に、アメリカ君が巣を作って、いつのまにか大量に繁殖をしはじめた。
 蜘蛛の巣のようで見た目も悪いし、周りに展開し始めると大迷惑をかけることになる。
 切り倒してもいいし、消毒でもいいからアメリカ君を退治しておいて頂戴。
 頼んだよ。あたしはアメリカ君だけが、大の苦手なんだ。
 あ、来た来た。仲間が来た。じゃあね、それだけは頼んだよ」


 笑顔で手を降り始めた母の向こう側に、見事に化粧を施した上に、これまた
丁寧に着飾った3人の気のあった仲間たちが、大きな荷物を次々と路上へ放り出しながら、
忙しそうに、送られてきた車から降りはじめました。
なるほど。たしかに見た目にも、(母が自ら言うように)いずれも甲乙つけがたい、
匂い香りたつような、アヤメとカキツバタもどきの3人です。




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