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第589回 幕末、米人英語教師がいた

2024-08-16 | エッセイ
 幕末、日本人に本格的に英会話を教えたいとの一念で、単身密入国したアメリカ人がいた、というのは驚きです。その人物の名は、ラナルド・マクドナルド。父はスコットランド生まれ、母はアメリカ先住民の娘という出自です。アメリカの捕鯨船で北海道近海まで来て、あとは、大胆にもボートに乗り換え、1848年に利尻島に上陸しました。ペリー来航の5年前のことです。
 そんな歴史に埋もれた人物を、作家の吉村昭氏(以下、「氏」)は「海の祭礼」(文春文庫)で小説化し、光を当てました。エッセイ「史実を歩く」(文春新書)には、小説化のきっかけ、マクドナルドを巡るエピソードなどがコンパクトに書かれています。同書に拠り、ご紹介することにしました。1853年、29歳当時のマクドナルドです(同書から)

 そんな人物がいたことは、氏がよく訪れる長崎の県立図書館館長・永島正一氏から聞かされていました。直接のきっかけは、文藝春秋社の役員(当時)で、作家でもあった半藤一利氏から、資料を渡され、作品化を勧められたことです。それは、訳せば「日本における最初の英語教師であるラナルド・マクドナルドの日本冒険物語」なる英文回想録でした。以下、氏のガイドで、この興味深い「史実を歩く」ことにしましょう。

 上陸したマクドナルドは、島に軟禁されます。意思疎通は、身ぶり手振りしかなく、名前ひとつ聞き出すのにも、相当困難があったようです。それでも「マキドン」という名を聞き出したことが松前藩の記録に残っています。
 当時の国法に従って国外追放にすべく長崎に護送されました。語学熱心なマクドナルドは、その道中でも日本語の習得に努めました。根っからの語学好きだったんですね。
Thank you ー>  Arigodo(ありがとう)/ Hand ー> Tae(手)/ Pen ー> Fude(筆)などの記録を残しています。
 長崎では大悲庵の座敷牢に入れられました。その時、幕府と長崎奉行は、大胆な決断をします。当時、英語圏の船がさかんに日本近海で活動していました。それらの国となんらかの接触の機会があれば、英語が必要になるだろうと考え、オランダ通詞(通訳)に、座敷牢で英語を学ばせることにしたのです。

 実は彼らオランダ通詞には、英語の下地がありました。当時のオランダ商館長の次席ヤン・コック・ブロムホフは、軍人としてイギリス滞在経験があり、英語が話せました。彼の協力もあり、約6千語を収録した日本初の英和辞書まで出来ていたのです。
 ただし、誤訳も多く、特に発音に難がありました。
Hair(毛) ー> ヘール / Head(頭)ー> ヘート / Thunder(雷)ー> テュンデル といった具合で、どうも「オランダ語訛り」が抜けきれなかったようです。

 さて、マクドナルドとの「学習」で、通詞たちが特に力を入れたのは、耳から生きた英語を習得することでした。その勉強ぶりを先ほどの回想記(富田虎男氏訳)には「彼らは大変のみこみが早く、感受性が鋭敏であった。彼らに教えるのは楽しみだった。」(同書から)とあります。
 一方、マクドナルドも語学オタクぶりを発揮し、単語帳を充実させています。
Good(良い)ー> Youka(良か)/Bad(悪い)ー> Warka(悪か)/ Cheap(安い)ー> Yasuka(安か) のように。長崎弁丸出しなのがご愛嬌で、ちょっと笑えます。
 
 マクドナルドは1年足らずで、アメリカ軍艦で日本を去ります。でも、彼が蒔いた種は確実に育ちました。なかでも、森山栄之助は優秀で、先ほどの英和辞書の発音を修正したり、後継者の育成に精力的に取り組むなど尽力しました。
 そしてペリーの来航です。1853(嘉永6)年と、その翌年、森山は、交渉の場に首席通詞として臨みました。単なる通訳としてだけでなく、日米両国の立場、意思を伝えるという困難な任務をやりとげました。その語学力は、アメリカの代表団からは高く評価され、のちにイギリス公使として着任したオールコックからも認められています。とりもなおさず、幕府が、文明国並みの権威と地位を有していることを知らしめることになりました。ひとつ間違えば戦火を交える可能性もあっただけに、森山の功績は際立ちます。

 帰国後のマクドナルドですが、国内では無名で、ずっとその功績が知られることはありませんでした。そんな彼に光を当てたのが、エプソン社のアメリカ駐在員冨田正勝氏です。「海の祭礼」を読んだのをきっかけに、マクドナルドの功績を広く知ってもらうよう活動しました。その結果、生地オレゴン州アストリアで関心が高まり、遂には、英語と日本語で記された顕彰碑が建てられたのです。
 日本でも、長崎の大悲庵の近くと、平成8年には、利尻島の上陸海岸に碑が建てられ、氏は両方の式典に参列しました。さぞ感無量だったことでしょう。ネットで見つけた碑の画像です。

 いかがでしたか?まるで図ったようなタイミングで、日本に舞い降りて、英語の教育に尽力したマクドナルド。そして、その教えを日米交渉の場で活かした森山栄之助。歴史上、その功績がもっともっと有名になってほしい二人です。それでは次回をお楽しみに。