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第530回 話は秀吉の顏から始まって

2023-06-30 | エッセイ
 豊臣秀吉といえば、教科書などでもお馴染みのこんな画像を思い出します。武将らしからぬユニークなご面相が印象的です。

 なにしろ天下人の肖像画ですから、どこまで真実を写し取って(似せて)描いていいものやら絵師も随分葛藤があったのではないか、と想像します。
 そんな秀吉の顔を論じて、韓国、中国との人物観の相違にまで話が及ぶ司馬遼太郎さんのエッセイがあります(「余話として」(文春文庫)所収)。私なりの要約でお伝えします。

 秀吉といえば、なんといっても「猿」というあだ名が思い浮かびます。事実、似ていたのでしょう。信長は秀吉の妻に宛てた手紙で「あの禿(はげ)ねずみが」と書いています。あごがするどく尖っていて、鼻下にうすひげを生やしていたようですから、信長の名付けセンスもなかなかのもの。
 佐賀武士の教養書「葉隠」にも秀吉を見たという記録があります。文禄元年、秀吉は、肥前名護屋(現在の佐賀県松浦郡)にいて、朝鮮外征の指揮を執っていました。そこへ京にいる彼の母親の容態が思わしくないとの知らせが入り、大急ぎで駆けつけます。その様子を見た佐賀の地下人(じげにん)の話が記録に残っています。
 騎上、はなやかな衣裳で駈け抜ける秀吉の容貌は「顔は朱を塗ったように赤い」とあり、手足までもが赤かった、というのです。若い頃から戦場を往来し、馬上天下をとった秀吉なら、赤銅色のような肌をしていても当然ですし、彼自身もそれを誇り、自信のよりどころにしていたはずです。

 さて、朝鮮外征以前の天正18年、朝鮮からの使節を京の聚楽第で引見した時の朝鮮側の記録が残っています。
 それによると、「秀吉、矮陋」で「面色黎黒」とありますから、背がちっちゃくて、くちゃくちゃしていて、その上、顔色は、真っ黒だというのです。ただし「ほかに変わったところがないが、ただ眼光が閃々として人を射るようである」とも記録しています。

 中国文化の影響を色濃く受けている朝鮮使節の人物観、価値観からすれば、色が黒いのは、外で活動することが多い肉体労働者、下級兵士、一般庶民などの特徴です。さらに、中国で大官の美徳とされるのは「寛仁大度」、つまり心が広く、度量の大きいこととされます。目つきが鋭いなどというのは、野盗の頭目にこそふさわしいものであって、「これでも貴人か」と彼等は秀吉のことを思ったであろう、と司馬は書いています。

 使節団は、秀吉の意外なふるまいも記録に残していました。
 なにかと中国式の「礼」にこだわる使節を引見中に突然中座したというのです。ややあって、便服(ふだん着)に着替えた男が小児を抱いて現れました。使節たちは、最初その人物が誰か分かりませんでしたが、意外にも秀吉その人であることを知ります。
 我が子鶴松に、朝鮮使節の異風な姿を見せてやろうとの親心です。使節に対して、そこまで心を開いているというフランクさを見せようという計算も働いていたのかも知れません。ところがこの鶴松が秀吉の膝の上で粗相をしてしまうのです。
「秀吉笑って侍者を呼ぶ。一女、倭声(日本語)に応じて走り出づ」などと騒動ぶりを記した上で、「傍(かたわ)ら人無きが若(ごと)し」と締めくくっています。秀吉の傍若無人で粗野なふるまいにあきれ果てている使節たちの様子が眼に浮かぶようです。

 秀吉の顔から始って、彼我の人物観の違いなどいろんなことを思うきっかけとなったエッセイでした。私見を交えたまとめですが・・・・
 朝鮮使節団を驚かせた秀吉の言動、態度です。内心は自信と誇りに満ちていて、計算高さも見えますが、私は、飾り気なく、無邪気、自由闊達で、好感を覚えます。戦場での奮迅の活躍で日焼けしていたのにも好感を抱きます。当時の戦さを、現代の企業競争に置き換えれば、労をいとわず、先頭に立ち、現場第一線への目配りも忘れないトップのためならひとつがんばろうかと思うのが、普通の日本人でしょうから。
 晩年における朝鮮外征は天下の愚挙、暴挙としても、今回ご紹介した秀吉のエピソードは、ある一面で日本人の心性を体現しているのかな・・・そんなことを考えました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。