Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

KC 2010/5/31

2010-04-03 | 参加ユニット『Kaolune Cafe』




2010/5/31

KC@渋谷 WastedTime

(時間などの詳細はまた追って告知させていただきます)

このユニットは今、カバーを中心にやっているVo&GtのDuo
前回3/19のメニューはこんな曲でした



1.Feel like making love(Roberta Flack)
2.Close to you(Carpenters)
3.Calling you(Holly Cole)
4.What's new(Helen Merrill)
5.Alfie(burt bacharach)
6.丘(K.C)


この世には良い曲がいっぱいあって
選ぶのに困ってしまう

今度も新曲いっぱいやります




>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

(ここから先、長いので...要注意)






想えば...



僕の演奏の中のオリジナリティは、
このユニット(当時はバンド形態だった)を始めた10年以上前から
その殆どが、この場のために製造され、そして貯蓄されたものだ

それは、僕の独奏よりも歴史が古く
独奏とは、僕一人りだけで奏でているにもかかわらず
その中に感じられるオリジナリティよりずっと分量も多い

独りで奏でるより、歌の後ろで奏でる方が
僕にとっては何か、人間関係や人生の縮図のように感じられて
それは難しさと喜びの両方どちらも、多くのことを感じられる


ピアノ等と比較すればすぐわかるが、Gtという楽器はとても不自由な楽器だ
その不自由な楽器を使って
歌をどこまで支え、協調を膨らませながら同時に自分がどこまで歌えるか
という僕の旅は
それは僕にとっては人生そのものであり
大袈裟ではなく、
この縮図的地図を持って旅するうち10年はあっという間に過ぎてしまったのだ


(Gtという楽器の)不自由さと付き合いながら、それを道具として
他者と自己の両方を膨らませようという僕の目論みの旅は
時間の経つことを忘れさせ、あっという間に10年以上が過ぎ去った
それはまるで、不思議の国の迷い込んでいたアリスのようだと思う

(と書いた途端、また僕の妄想が始まったようだ
以下、しばらくは妄想)




この不思議の国の中で僕は
「相手を生かし、同時に自分も生きる」というものを作る工場で働いていた

(いくらでも日常に隠れている)その材料を見落とさぬようゆっくり掘り起こし
掘り起こしたものを今度は味噌蔵に入れてじっくり熟成させる

10年以上、毎日をその工場で働き、
今日のその作品が、昨日より少しだけ熟成されたことを確認しては
更なる明日の熟成を楽しみにし
その毎日を喜びとして過ごした

この時間は非常に穏やかでゆっくり流れてゆく

この時間の中を指して、それが「幸せ」であると
僕はそう呼んでもいい


だが時々、本社から乱暴な幹部が来て
あーしろこーしろと言い、その幸せを破壊する

僕はこの喜びの職場を放棄したくなり
幾度もストライキや無断欠勤した

でも、自分に夢が戻ってくると
不思議にその工場にはいつでも戻れた



こうして出来上がった「じっくり熟成味噌」を
披露する日が来る

それが僕にとってのライブだ

その披露会場は、豪華なホテルの宴会場でなくてよい
道端に火を熾し、湯を焚き、
そこで振る舞われる美味しい味噌汁でさえあってくれれば
僕は、それだけ心底満足した

だが時たま、どこかのブローカーが入り込み
一過性の利益のために
インスタント味噌汁のドライ味噌の材料にされそうになる時だけは
断固として闘う


工場自体が、ブローカーと手を組んでしまったときには
一握りの味噌麹を持って逃げ出し
また違う工場に再就職した

そこで死にかけた麹を丁寧に生き返らせ
また求め続けた味に戻してゆく

何度か工場を逃げ出した中のある時は
もう麹が死んでしまって再醗酵しないかと思った時もあったが
かろうじて今も残っている

10年以上前に、何も無いところか作られた
最初の麹を、今もまだ僕は育てている...





ってなところでしょうか

妄想...






本題に関係無いけど
妄想は、僕にとって最高な時間だ


ライブ中もきっと
実際にギターを弾いてるのが楽しいんじゃない

歌や楽器の音色から感じる色彩を、イメージの中で追ってゆくことで
その時その場所にだけ繰り広げられるお伽噺
タイトルも付けられない、言葉で言い表せない寓話の中に
自分が浸っていられるのだ



こういったライブ音楽の中に生まれる瞑想行為は決して一人では成し得ない
奏でる相方とリンクし続けていなければ全く違う意味の音楽になってしまう

別の意味の音楽になったって音楽は音楽
それでも構いはしないが
僕の中でそれはもう本当の意味のアンサンブルではない


時代の新しい音を、そのクオリティの高さを
早く、効率良く提供することを求められる仕事の場に於いて
徹底的に不器用な僕は
この場(KCというユニット)、この相方(Vo:Kaolune)のもとに於いて
(乱暴な幹部が乱暴なことを言わないので)
はじめて安心し切って時間をかけることが出来る

だから、僕のオリジナリティの殆どは、ここで製造されている



かつて
上記したような「行程」が、
音楽に対する誠実であると思っている自分は
「仕事」に於いてもその姿勢を崩さずにいた

そして物凄く肌触りの悪い摩擦感を感じ続け
ついに仕事というものが嫌いになった

その葛藤の時期に
あるプロジェクトの上司的人間から
「おまえのやり方は100%間違っている」と怒鳴られたこともある
そして不思議なことに、その件では何も傷付かなかった自分がいた

むしろ、自分が感じていた「音楽」とあまりにかけ離れた価値観を
怒濤のごとく浴びせかけられることは
まるで異国の言語を聞いているようなポカンとした感触だったのを憶えている


ここ数十年という、僅かな間の経済の形や
ここ数百年の間に出来上がった現代文明の形の中で
「一番効率良く稼げる」という選択肢と
人間としてピュア度の高い芸術性とは
全く呼応していない


殆どテレビを見ないので、もう言われてないのかもしれないが
「勝ち組とか負け組」とか
そういう非常に薄っぺらな一過性の呼び名を
悪ふざけしたメディアが使うこと一つ取ってみても
まだ精神の未熟な若者や、心身に衰えを感じ始めた年配者や
健常者文化から「社会不適合」というレッテルを貼られてしまった人間たちは
多かれ少なかれ不安や諦めを抱く


そういうグレーゾーンに届く音は
今の世にどのくらいあるのかしら...

きっとあるけど
圧倒的に少ない...



もう、そういうことの仕組みはだいたい解っている


だけど、どうにかするための方法論はまだ
幾つもあるように感じられてしまって
結局、自分がささくれ立たないような
のんびりした速度を選んで生きている自分がいる



こんなふうに行ったり来たり...
破裂しそうなまでに凝縮した命を
サイフォンにかけて...
一度は必ず沸騰しきったその魂を
一滴ずつゆっくり抽出したもの



これが10年前から変わらない「KC」の音



今も熟成を続ける麹味噌












コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーチャル(ではない)長生き、、、について

2010-04-03 | ギターの栄養


耳の遠い人が長生きする、という統計は

多分、当たってると思う



僕はたまに...
いや、最近ではよく耳栓をする

普通に薬屋とかで売ってるもの



全く聞こえなくなるのではなく
かなりのデシベルカットされて尚
小さく、まろやかに聞こえるようになる



疲れて自律神経が乱れがちなとき耳栓をして一日過ごすと
精神の乱れはかなり復元される



耳栓での車の運転も,僕は平気

ちゃんと救急車両のサイレンも聞こえるし
車線変更の時の隣り車線の車のエンジン音も
車の間をすり抜けてゆく原付のエンジン音も
ちゃんと聞こえるから

家族との会話も可能





時々僕はこんなことをする

一度すると、その心地良さが病みつきになって、しばらくは続けてしまう



耳栓をしたまま眠り
耳栓をしたまま目覚まし音で起き
耳栓をしたまま顔を洗い朝食をとって家族と少し話し
耳栓をしたまま運転してレコーディング現場に入り
耳栓をしてることを悟られぬように挨拶をし
耳栓をしたまま演奏準備をして
耳栓をとる、と同時にヘッドホンをする


生まれたての耳が感じられる感度は
音の粒子が行き来する細部にまで届く

音の粒子が聞こえるだけではない

耳栓状態は
我々が日々無意識のうちに受け続けている鋭角的な現代のノイズから距離をとり、
そのことで整えられた自分の精神状態が
安定した状態で音を聴くことをさせる

また
耳栓状態の間、その時間自体も
瞑想状態に近い静かな世界だ



視覚からの刺激が先行で生きていると、そう感じがちな我々は
聴覚というものを、普段そうとう乱暴に扱っていることにも気付く



所以の判然としない不安に襲われたなら
また現代社会や、身近な誰かの有り様を、知らずのうちに非難してしまう前に
人里離れた静かな山奥で一晩過ごすか
耳栓をしてみればいい



一日してみればすぐ判る



このまま120歳まで生きられそうな感覚は
きっと僕だけのものじゃないと思う




耳栓という、ちっぽけな一つの道具で
耳のピュアを取り戻すこと

その状態で「聴く」ということは
「初めて」という感覚を起こさせる

現実のノイズに蝕まれ、鈍感になった感覚では決して感じ得ないものが
そこにはある


いくら重箱の隅々まで聴き尽くしてやろうと、耳と心をそばだてても
一人の自分では抱えきれぬほどの情報量が
そこに存在してることを発見するだろう



僕は、その「音から得られる驚き」を
そのまま「命そのものの驚き」に当てはめて感じることが出来る




現実の中で僕等が、いったい何歳まで生きられるかなんて
どうでもいい


毎日毎日、一瞬一瞬を
その都度、生まれたばかりのピュアな感覚で迎えられるための知恵を磨くことと
またそこから得られた命の感動を持続させるための知恵を磨くことが
我々の生きることに於いての仕事、と思う















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする