Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

『古傷に付ける大人薬 2』

2008-08-13 | ギターの栄養
トラウマから生まれる様々なエピソードは
「恐れ」というものから生まれてくる

それらの仕組みを理屈で把握出来たとしても
そう簡単には克服出来ない理由は、こうである


「恐れ」とは、
生物が命の存続のために、地球上に生まれた時点から現在まで
そして、この先の未来永劫ずっと持ち続ける
「自己防衛本能」と同義語だからだ

そして、それはそのまま
「子孫保存本能」でもある


こうした「命の存続に関わる本能」から生まれる一瞬一瞬は、
長い時間かけて構築した論理を、いとも簡単に超える

それは、本能の持つ強い意志(真理)に耳を傾けず
ただの「野蛮な情動」として扱った場合には特に、
である

論理で本能を封じ込めようとするなら
それは本質的には全く無駄である
(あえて付け加えておくなら
「人は獣ではないのだから理性こそが人間」的な話しとは、
今は全く違う論点をとっている)

故に
トラウマ(古傷でもあり、防衛本能の象徴でもあるもの)を
論理的にコントロールすること(古傷に付ける薬のうちの一つでも発見すること)
は非常に難しい



過去に植えつけられた「恐れという人格」であるトラウマは
処構わず、ずっと疼きを発し続ける

その「恐れという人格」は、
現在関わる相手に直接関係ないことであっても
相手の中に、ちょっとの隙間を見つけては
もしくは
ちょっとの隙間が見つからなくても、強引にでも
「自分の痛みを理解して欲しい」という信号を送ってくる


ある時は「善人」の顔をして優しげに
またある時は、自信無さ気な「下から風」に
また別の時には、追い詰められた目をして強力な圧迫をもって

そして、そこには絶対、ニュートラルというものは存在しないことから
信号を受ける方には、目に見えぬ圧力がかけられてゆく

(論点がズレルが)
これを僕は「虐められっこから受ける暴力」
と呼んでいる


受ける側が、表面上は笑顔で対応していたとしても
雰囲気に滲み出てしまう「嫌悪の信号」は
当然「送る側」に伝わる

そして、送る側の信号も空回りする


その関係性に何の生産も無い
(「生産が無い」という悲哀を、映画等のアートとして表現するとしたら、
そこの意味に於いての生産ならあるが、今は、その論点ではない)

また両者が、共生依存の契約を結びあうことも
お互いの一時的な前進への手がかりになることもあるだろうが
互いの間に永続的な成長は生まれず
関係性が生まれた当初の純度のままをキープすることは不可能で、必ず息切れする、
という意味に於いて
無生産群の中に入れて話を進めてみる


古傷を抱えた「全ての人間」という生き物の中から
『恐れという人格』を抽出して
それが発する「無生産的信号」
そこに対し理解を示せる方法はないか、を模索する



その模索から導き出される(僕なりの)真理は、こうである


物象の起こりには、必ず『理由』があり
トラウマの生まれた理由を(例えば催眠療法などをして)
具体的に把握出来なくても
「あぁ、この人なりの何かの理由があったのだろうな」という
(抽象的であっても良いから)この目線に立つだけで、
受け手側の中に、相手への労いの感情が生まれ、
それは送り手側からの「圧迫的信号」を一時的に鎮める力を持つ


言ってみれば
完全武装の刃を剥く相手の前に裸で立ち
戦うことなく、こちら側が最小限の傷だけで済み
全体が最短時間で鎮まるための、思いつく限りの最良の方法と思う

この行程をきっかけにして
お互いの中に「気付き」が生まれた場合

両者の「気付き」の種類は、明らかに違うけれど
それは、どちらにも効き目がある『大人薬、その2』である

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『古傷に付ける大人薬 1』

2008-08-13 | ギターの栄養
苦手な誰かとの関係性を中途半端に絶ち
少し距離間を置いたところで、シレッとした顔をしていることも
(それって、修復可能くらいな小さな開き直りともいえる)

苦手でも絶つことの出来ない関係性に、自分を切り崩し過ぎて
惨めさの中、悲しくなることも

どちらも自分の中にある
治りきれていない「古傷」から、きっと繋がってる



「古傷」は、人間関係の中で、
時には「断続的に緩い疼き」をもって
またある時には「瞬発的な激痛」をもって
痛みの信号を送ってくる

その信号は、僕の日常の中で「必ずしも、常に送られてくるわけではない」
ところが余計に厄介なのだ



一種類の抗生物質では太刀打ち出来ない
どんどん形を変えて増殖するウイルスのようなもので

また、「常に送られてくるわけではない信号」だから
その存在を、つい忘れて油断する


それは、
常温だと思い、何気なく触れた薬缶が
予想外に、熱湯を貯えていた時のように
「わっ!」と驚き、しかも火傷を負うような事故を生む

火傷の傷は、また新たな疼きを生み
疼きは警戒心を膨らませる



自分の中で、「事故」への恐れが膨らみ
「薬缶の存在そのもの」を極度に警戒するようになってしまったら
せっかく、人の間に生まれてくる「潤い」という名の
「美味しいお茶の時間」も、もう持ちたくないと思ってしまう

更には
自らを「お茶会」から遠ざけたことによって感じる疎外感は、
孤独という枯渇を生み
枯渇から抜け出られない、という悪循環にハマッてしまうと
自己嫌悪という苦痛まで加わってくる


これが、
トラウマが生み出す連鎖的な苦痛の図式(氷山の一角)だと感じている


でも、このような類の苦痛は
多かれ少なかれ「万人」の中に必ずある



多かれ少なかれ万人の中にあるということから
なにも、トラウマという存在を
「特定な苦境で育った人だけが背負ってしまった特別な苦しみ」
とは思わない自分が居る

乱暴な考え方ではあるが、僕の中のその尺度が
「平等」という概念を育ててゆく



どんな生い立ちを送ってきた人も
どんな環境を背負った人も

(あくまで健常者目線でいうところの社会活動への)
身体的精神的に不都合的な個性
(これをハンデとか障害とか呼んでしまえば説明しやすいが、
そういう言葉は用いたくない)の人も
僕の中で「平等」を保つ


そして「平等」は、この世に沢山ある喜びの中の優れた一つであり
悪循環を止める一手となる


『大人薬、その1』
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