時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百八十六)

2009-05-12 20:33:14 | 蒲殿春秋
寿永二年十一月十九日 ついに都の人々が恐れていた事態が発生した。

午の刻 義仲の軍勢が大路の辻を警護する院方の兵や僧侶を蹴散らしながら後白河法皇の御所である法住寺殿へと押し寄せた。
迎え撃つ院方は、比叡山や園城寺の兵、そして美濃源氏土岐光長の手勢を中心に守りを固める。
その防御の指揮をとっていた人々の中に鼓判官と呼ばれていた平知康がいた。
院の側近で検非違使を勤めていた知康は、それまで数々の捕り物で勇名を馳せていた。
その合戦の日の知康はひときわ人目を引く存在だった。
知康は頭には兜をかぶっていたものの鎧を一切身に着けず、
右手に鉾を持ち左手には金剛鈴(密教の修法に用いる道具)を持つという異様な姿で
時折踊りながら戦の指揮を取っていた。
そして敵に向かって「逆賊の放つ矢になど当たるものか。跳ね返って逆賊に当たるのがいいところだ」
と言ってのけた。
木曽方の兵は、その挑発に怒りをあらわにし怒涛の如く攻めかかる。
一方の院方もその木曽方に反撃する。

院方は寺院の兵と美濃源氏土岐光長を中心としてよく守った。
だが、挙兵以来生死すれすれの戦場を潜り抜けてきた義仲やその直属の兵たちが死に物狂いで攻めてきていたのである。
元々戦意の無かった院方の光長以外の武者たちは早々に戦場を離脱し
残された兵たちも次々と討ち取られていく。

やがて法住殿に火の手が上がり、院方の主な人々は続々と院御所を脱出する。
入れ替わるように義仲方は院御所へ乱入した。

だが、義仲は追撃の手を緩めない。

義仲方は院御所を後にされた後白河法皇に追いついた。
その法皇がおられる輿を義仲の郎党が取り囲む。
やがて義仲本人が現れ、馬をおり兜を脱ぎ法皇の輿の近くに跪いた。
そして奏上する。
「戦があり京中は物騒です。新御所へお移りいただきたいと存じます。
この左馬頭が御身をお守りいたします。」

後白河法皇は摂政基通の五条の屋敷へと移された。

また、行方がわからなかった後鳥羽天皇も見つけ出されて閑院内裏に戻られて
義仲によって護衛がつけられることになった。

一方、院御所に踏みとどまっていたものには災いが押し寄せていた。
勇敢に戦っていた土岐光長父子は木曽方に討ち取られた。
有力な武将を失った院方は勝利の興奮に取り付かれた木曽方に蹂躙された。
院御所に留まっていた宮廷官人たちは、急いで院御所から逃れようとしたが
多くは木曽方に捕えられた、また命を危うく奪われそうになったものある。
院に仕える女房たちは悉く衣類を剥ぎとられ、焼け落ちた院御所の跡地にて寒風☆の中裸身をさらす羽目になった。
(女房たちの着する衣類は当時高級品で、高値で取引される財産だった。)
(☆旧暦十一月中旬は真冬)

一方運良く院御所を逃れた人々にも戦の難が追いかけてくる。

院方の兵の主力を担っていたのは有力寺院の兵だった。
その統率者であった比叡山延暦寺の天台座主明雲、
そして後白河法皇の皇子である八条宮円恵法親王までもが
木曽勢の手によって討ち取られてしまった。

また、院御所を逃れた官人たちもあるもは捕えられ、あるものは屈辱を与えられた。

院方に味方した武士達に対しては敗軍の将としての運命が待ち構える。
戦の直後土岐光長らの屋敷に火がかけられ
翌日には光長などの院方の武士の首が六条河原にさらされた。

後に「法住寺合戦」と呼ばれるようになるこの戦によって
都の政局、そして「治承寿永の乱」を大きく動かすことになる。

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