時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百二十五)

2008-12-15 00:37:35 | 蒲殿春秋
義仲が頼朝の意志とは無関係に独自の勢力を率いて上洛する。
それに安田義定や尾張・美濃・近江の勢力が合流すれば確実に都は陥落する。
彼らが都に入れば当然院や貴族は入京した者たちを頼りにし、都の軍事の中枢に義仲らを据えるであろう。

そうなれば背後を奥州藤原氏や佐竹氏に脅かされて坂東からは動けない頼朝は、都からは忘れ去られかねない。
院ー後白河法皇が義仲らを支持するかもしれない。
状況によっては、頼朝を敵視する義仲が都の人々の支持をとりつけて頼朝を脅かしかねない。
院とのつながりを東国支配の権威の源泉の一つとしている頼朝にとって院と義仲の接近は脅威となる。義仲に接近している東国武士は少なくはない。
義仲の入京以前に院やその近臣たちに頼朝は自らの存在を主張しておかなくてはならない。
自分は義仲の上位者であるという虚構を打ち立ててでも。

安田義定についても同様である。安田義定も独自の勢力基盤を元手に院に接近する可能性がある。
都に於いて甲斐源氏は頼朝とは別個の勢力との認識はされているようである。
しかし甲斐源氏の中では武田信義とその子有義の名は知られていても他のものは殆ど無名である。安田義定も然り。
ゆえに今ならば義定とそれと共に上洛する武将達も自らの配下と位置づけることもできうる。

いずれこの書状の虚構が明らかになる日が来よう。
けれどもこの書状を送ることによって
鎌倉の前右兵衛佐源頼朝の存在を都の人々にしっかりと認識はされるはずである。

従五位下右兵衛佐━━剥奪されたものの、かつて得ていた都の官職。
後白河法皇の同母の姉宮である上西門院に仕えていたこと、二条天皇に蔵人として仕えていたこと、そしてその間に築き上げた都の人々との人脈。
かつて頼朝が後白河法皇に何度も拝謁していたこと。

治承の各勢力の挙兵の際自らの蜂起が最初に都に伝わったという事実。
父義朝が平治の乱において謀反人として処罰されたこと━━それがある意味頼朝の名を謀反人として有名にしたという事実。

このようなことなどで謀反諸勢力の中で頼朝は都においては最も知られている人物となっている。

義仲や安田義定に比べて有名すぎる自分の名をここでさらに広め
虚構であっても彼らより自分が上位者であると都の貴族に認識させておく。
政局がどのように動こうとも、自分の名を都から忘れさせない。
今打てる手段は全て講じておく。

東国から動けぬ頼朝の静かな戦いがここに開始された。

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