時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百二十七)

2008-12-19 05:53:11 | 蒲殿春秋
八条院はこの時代最も多くの荘園を本所として所有されている皇女である。
最も富貴な方であられ、またその所有する荘園の多さから政界に隠然たる実力をお持ちの方である。

八条院の中にある書状は木曽義仲からもたらされたものだった。
「我らは平家を追い落とします。
その暁には、我らが奉じる高倉宮(以仁王)さまの皇子
北陸宮さまに皇位にたっていただく所存にございます。
八条院様にそのお力添えを賜りたい。」
書状にはそのように記されていた。

━━あの頃とは事情が違う。

あの頃とは、以仁王が自ら皇位につかんと令旨を発した治承四年(1180年)のことである。

当時平清盛によって後白河院政が停止され、高倉天皇は安徳天皇に譲位された。
高倉院による院政が行なわれたものの、この安徳天皇の即位は本来の治天の君後白河法皇の意志によらぬ即位であった。
その即位には当然反発もあったし、八条院自身認めがたいものがあった。
平家に対する宮廷や寺社の反発もあった。

しかし現在は違う。
即位の事情に問題はあるものの安徳天皇が践祚してからすでに三年が経過した。
高倉上皇の崩御により後白河院政も復活した。
平家による政治への介入は続くものの表面的には後白河法皇は安徳天皇を支える治天の君の座にある。
この体制を批判するものは今となっては誰もいない。

今更以仁王の遺した皇子を持ち出されても困るのである。

八条院は義仲のこの申し出には一切返答されなかった。
以仁王の令旨発行は八条院の周囲で起こり、その後反平家の挙兵を行なったり、それに与同した者達の中には八条院の領地を管理する者が少なくない。
挙兵した者達は八条院に連なる人脈を駆使したり、時として八条院の権威を借りたものもあった。

義仲も八条院の名を持ち出すことも少なくなかった。
そのことに関して八条院は一切咎めたてることもなかったが、実際には積極的に義仲やその他反乱勢力に手を貸すことはなかった。

けれどもここにきて北陸宮の即位を持ち出すとは。
自らの意志とはかけ離れたことに対してまで義仲は自分の名を使っているのではないのか、
そのような疑念を八条院はこのときお持ちになられたかもしれない。

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