(7)腰越状
実は、私が「延慶本」について非常に興味がわいたきっかけはこれに関する記載が
「よく知られている話」と違うということだったからです。
有名な「腰越状」の話
平家を滅ぼし、平家の総大将平宗盛を連れて鎌倉に向かった義経は
鎌倉の一歩手前で鎌倉入りを拒否される。
鎌倉の手前「腰越」にて兄頼朝との面会を待つ義経。
けれども、中々兄との対面は許されない。
思い余って義経は幼少期の苦難や兄弟の情を切々としたためた「腰越状」を
頼朝の側近大江広元に届ける。
けれども、頼朝は面会はしない。
鎌倉に入れず、兄とは会えぬまま都に帰れと言われ、義経は寂しく都へ向かう。
延慶本の話
平宗盛を連れて鎌倉に戻った義経は
頼朝に面会し
「ご苦労様、ゆっくり休みなさい」
と頼朝から言われ、金沢洗にいるように命じられる。
けれども、その後頼朝との対面は無く
「伊予守にしてあげるから、都に帰りなさい」
といわれて義経は都に帰る。
というようになっています。
結局鎌倉からは厄介払い扱いされるのはどちらも同じなのですが
一度も会わずに、鎌倉にも入れずに追い返すのと
一回は会って、官位まで斡旋してやるから帰れ
というのでは
「冷酷」でもその温度が非常に違います。
「吾妻鏡」に「腰越状」が記載されていますし
鎌倉市腰越の万福寺に「腰越状の下書き」なるものが現存しているので
「腰越状」が「史実」とうけとられる向きがありますが
「吾妻鏡」自体が「判官びいき」の傾向にあると言われ
「腰越状」もひそかなる「頼朝批判」の意味を込めて
事実ではないと知りつつ挿入されたとの可能性も示唆させていますし
万福寺の「腰越状の下書き」も真贋の判定は難しいとも言われています。
つまり、「腰越状」の「史実性」も疑わしい向きもあるということです。
というわけで、この「延慶本」の腰越状とは違う義経の「鎌倉への帰還」
も非常に興味が持てる部分であります。
実は、私が「延慶本」について非常に興味がわいたきっかけはこれに関する記載が
「よく知られている話」と違うということだったからです。
有名な「腰越状」の話
平家を滅ぼし、平家の総大将平宗盛を連れて鎌倉に向かった義経は
鎌倉の一歩手前で鎌倉入りを拒否される。
鎌倉の手前「腰越」にて兄頼朝との面会を待つ義経。
けれども、中々兄との対面は許されない。
思い余って義経は幼少期の苦難や兄弟の情を切々としたためた「腰越状」を
頼朝の側近大江広元に届ける。
けれども、頼朝は面会はしない。
鎌倉に入れず、兄とは会えぬまま都に帰れと言われ、義経は寂しく都へ向かう。
延慶本の話
平宗盛を連れて鎌倉に戻った義経は
頼朝に面会し
「ご苦労様、ゆっくり休みなさい」
と頼朝から言われ、金沢洗にいるように命じられる。
けれども、その後頼朝との対面は無く
「伊予守にしてあげるから、都に帰りなさい」
といわれて義経は都に帰る。
というようになっています。
結局鎌倉からは厄介払い扱いされるのはどちらも同じなのですが
一度も会わずに、鎌倉にも入れずに追い返すのと
一回は会って、官位まで斡旋してやるから帰れ
というのでは
「冷酷」でもその温度が非常に違います。
「吾妻鏡」に「腰越状」が記載されていますし
鎌倉市腰越の万福寺に「腰越状の下書き」なるものが現存しているので
「腰越状」が「史実」とうけとられる向きがありますが
「吾妻鏡」自体が「判官びいき」の傾向にあると言われ
「腰越状」もひそかなる「頼朝批判」の意味を込めて
事実ではないと知りつつ挿入されたとの可能性も示唆させていますし
万福寺の「腰越状の下書き」も真贋の判定は難しいとも言われています。
つまり、「腰越状」の「史実性」も疑わしい向きもあるということです。
というわけで、この「延慶本」の腰越状とは違う義経の「鎌倉への帰還」
も非常に興味が持てる部分であります。
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