時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

延慶本について その5

2006-11-18 09:08:30 | 日記・軍記物
(6)上総介広常(?)についての記載

通説では、上総介広常を暗殺した後鎌倉軍が木曽攻めに出発したとされています。

けれども、上総介暗殺の時期について示す決定的なものはありません。
おそらく寿永二年(1182年)12月に暗殺されたのではないのかと言われています。

また、鎌倉本軍の都への進軍の時期についても12月頃なのではないかと言われています。(これに関しても時期を示す決定的な史料は無いようです)
また、義仲を討つ本軍が出発する前に、その前の11月頃大軍がいったん鎌倉を発向して「兵糧不足」の為引き返したり(11月頃)、義経が「年貢を送り届けるために」先遣隊として畿内に向かったりとしています。

つまり、上総介広常暗殺の時期と鎌倉軍の上洛との因果関係というものは
未だに闇の中といった部分があるように思われます。

「吾妻鏡」の寿永二年(1183年)丸ごと欠落というものがその謎に益々拍車をかけています。

さて、その「上総介」の謎をさらに深める記事が「延慶本」にありました。

寿永二年(1183年)12月10日
上洛軍の勢ぞろえがありました。

平山武者所季重は頼朝に面会したあと上総介に会います。
上総介は糟毛という馬を引いていました。
その糟毛は平山が前々から欲しいと思っていた馬でした。
平山は、糟毛を自分にくださいと上総介にお願いします。
本当は手放したくない馬ですが上総介は「命をかけて戦場にいくのだから」
ということで平山に与えます。
そのことを平山は深く恩に感じた。

「延慶本」では上総介が生きている間に
義仲征伐の本軍の出兵が公然となされ
しかも、出兵する武者に馬を与えています。

非常に興味深い記事です。

ただし、この「上総介」が広常なのか
はては、軍記物の常としてある「フィクション部分」なのか
または、別の時期のエピソードがここに紛れ込んだのか
本当にあった話なのか

いろいろな可能性があるので実に気になるエピソードです。

上総介広常
現在の千葉県の南部分の多くを支配していた豪族。
頼朝が石橋山で負けて房総に上陸した際に大軍を率いて参向。
彼の動向が頼朝を大きく助けたが、
なにかしらの理由で頼朝の内意をうけた梶原景時に暗殺されたしい。

延慶本について その4

2006-11-17 15:17:54 | 日記・軍記物
個別に興味深いことの続き

(5)源氏に伝わる剣の記載は一切なし。
「屋代本 平家物語」の「剣の巻」では
「髭切」と「膝丸」(膝丸は一時期「吼丸」と改名される)
という源氏重代に伝わる二つの剣の話について
事細かに記されていますが
(しつこく書き連ねた後、三種の神器の剣の話が出てくる)
「延慶本」にはまったく記載がありません。
「剣」という巻はありますが、皇室に代々伝わる「三種の神器の一つ 剣」
の話だけで終わっています。

ちなみに、現在「平家物語」という題名で図書館に並んでいる本の多くには
「剣の巻」に「髭切」の話はありますが
「新日本古典大系」に所収されているものも(延慶本ではありません)
「三種の神器の剣」の話だけで源氏の剣の話は一切触れられていません。

なお、屋代本他の「剣の巻」に出てくる
もう一つの剣「吼丸」(元の名は「膝丸」?)について
「吾妻鏡」につぎのような記載があります。
元々義朝の所有物であった「吼丸」が後白河院に献上され
それが一回頼朝の元に返された後改めて院に献上された
という話はあります。

けれども「吾妻鏡」には「髭切」に関しての記載は一切ありません。

さて、私は以前に
中間解説12 頼朝の血統の地位Ⅱ

において
「平治物語」の後出本で知られている「源太が産着」と「髭切」の太刀が
古態本(現存するもので最も成立年代の古いもの)「保元物語」「平治物語」で
出てこないか登場してもさほど重要視されていないということに触れました。

また、「吾妻鏡」でもその二つに関して
まったく触れられていないということもあって
(「吼丸」の記事はきちんとあるのですが)
「源太が産着」と「髭切」が嫡流の証であったのどうかは疑わしいと書かせていただきました。

諸「平家物語」のうち成立年度が古いと言われ、
語り本に比べてエピソード満載の「延慶本平家物語」に
「髭切」話が一切出てこないというところを考えると
「髭切」というのは本当に嫡流の証だったのかどうかは
ますます疑わしいのではないのかと私は考えます。


延慶本について その3

2006-11-16 22:59:07 | 日記・軍記物
さて、今度は個別的な内容で気になった記事を少し上げてみようと思います。

(1)平家滅亡後「義経暗殺未遂事件」を起こす「土佐坊」の出自が記載されています。
「延慶本」では土佐坊=金王丸説(☆)ではありません。

(2)頼朝が挙兵する前「吾妻鏡」では
「三善康信」が「奥州逃亡」を勧めていますが
「延慶本」では「佐々木定綱」が同様の内容を勧めていて
挙兵直後に佐々木一族がかなり色んな場所で活躍しているようすが伺われます。

「吾妻鏡」の編纂に三善氏が深く関わっていて三善康信の功績がかなりクローズアップされているのではないかという吾妻鏡を研究した方からの指摘があります。
おそらく頼朝の挙兵前後には色々な筋から様々な情報やアドバイスがあったと思われますが、「吾妻鏡」では三善康信、「延慶本」では佐々木一族がクローズアップされていることは非常に興味深いことです。

(3)他の「平家物語」では完全スルーの
頼朝の同母弟希義が
治承4年(1180年)12月1日に流刑地土佐で討ち取られたという記事が載っています。
「吾妻鏡」では1182年にその記事が掲載されていて希義1182年死没説がありますが
これとの対比が目を引きます
(なお、これに関しては河内祥輔氏が
1182年に頼朝の元には死亡通知が来ただけで
実際には希義は頼朝挙兵直後に既に討たれていたのではないかという説を提示しておられます)

(4)行家が伊勢神宮に出した願文の存在
「延慶本」のなかで治承5年(1181年)5月15日 三河にいる源行家が
伊勢神宮に「願文」を提出したという記事があります。

河内祥輔氏は「1180年代の内乱史」の中で
頼朝が挙兵後の早い時期に伊勢神宮に接触しようとして神宮に願文を提出したがその受け取りを神宮側から拒否されたというエピソードを出され、そこからいくつかの論考を呈示されていました。
それに対して
山本幸司氏は「頼朝の精神史」の中で
これは頼朝が出した願文ではなく行家が独自にだした願文で
都にいた人々は行家が出したものを「東国」の二文字から頼朝が出したものと勘違いをしたのではないかとの指摘をされていました。

二つの異なる意見を読ませていただいたので
「延慶本」の「伊勢神宮」への「願文」の記事が非常に気になります。

☆金王丸=「平治物語」で頼朝の父義朝の最期まで供をしたと
     記されている童形の郎党。
     武蔵または相模の豪族「渋谷一族」ではないかと推定されいる。
     この人物が後年土佐坊になったのではないのかとの説がある。


延慶本について その2

2006-11-14 23:02:32 | 日記・軍記物
さて、全体的に感じた「延慶本」の感想は次の通りです。

(1) この動乱の時代に起きた出来事が比較的史実に忠実に記されている。
実は、「延慶本」に記載されている出来事を年表に並べて「玉葉」と照らし合わせて見ました。
すると、1,2日の時間的ずれがある場合もありますが
「延慶本」に記されているのと同じ内容や類似した事件が同時期にあったらしいということが「玉葉」*によって確認されました。
(実に大変な作業でしたこれが・・・実はまだ全部はこの作業終わっていません)
もっとも、全部が全部史実通りというわけではないようですが。

(2) 坂東の出来事がかなり詳しく記されている。
「語り本」ではほとんどスルーの石橋山や頼朝の房総進軍などがしっかりと記載されています。
「源平盛衰記」とダブル所も多いので「盛衰記」は「延慶本」がベースになっているのかとも思えます。

(3) やたらと「神仏にお願い」記事が多い。
特に全国規模で内乱が起きた時期(1180年頼朝らの挙兵以降)朝廷関連の記事では
「お祈り」の記事が多いのが目立ちます。
この辺りが非常に中世的だなあと思います。

(4) 1180年以降各地で動乱が起こりそれに動揺する京の宮廷や都の様子が
かなり詳しく書かれていて「大変だったんだなあ」と当時の都や近畿の人々に
同情します。

(5) 色々な「宣旨」「院宣」「願文」が「原文」に近いと思われる状態で記載されています。
今度あらためてじっくり読んでみたいと思います。

(6) 「読み本」では「追加記載」と思われている「建礼門院」の記事がさりげに
「本文」最後の方に普通の流れで入っています。
で、ラストは「両親に先立たれて流罪となった少年がこんなに出世すると誰が思ったでしょうか
真に果報なことである」
で終わっています。(ネタバレしましたごめんなさいm(--)m) 


*玉葉 摂政九条兼実が遺した当時の日記
   色々な出来事が詳細に記されているため
   史料的価値が非常に高いとされている。
    (風説の含まれていることもありますが、事実の記載です)

つづく

延慶本について その1

2006-11-12 22:50:47 | 日記・軍記物
以前に「延慶本平家物語」を読んだらレビュー書きますとかいていたのに
中々書くことができませんでした。
最近やっと借りることができたので徐々にレビューをかいていきたいと思います。

読んだのは
北原保雄・小川栄一編「延慶本 平家物語」(勉誠社 1990年)
です。

まず、「延慶本 平家物語」とは何かということについて書きます。
「平家物語」と一口に言っても大筋はおなじですが細かいところの描写は色々と
分かれています。
そして、それぞれの成立年代や背景もバラバラです。

(これについての細かい説明は専門書が出ているようなので
またまた機会があったら読んでみようかと思っております)

まず、成立の背景による分類では
「語り系」と「読み本系」があります。
「語り系」とは琵琶法師がやっている一般的に知られている内容のことです。
読み本系」とは「読むために作られたもの」です。

そして、「語り系」の方がテンポがよい代わりに内容が簡略化されています。
「読み本」の方はまさに「読み応え」があります。
どちらもそれぞれの良さがあります。

こんどは成立年代についてですが
本によって成立年代が違います。
本来の元本は現在は入手不能です。
しかし、その元ネタをベースに色々な「平家物語」があります。

「延慶本」は現存するものの中で最も成立年代の古いものではないかと言われています。

つまり
「延慶本」は
最も成立年代が古くかつ「読み本系」で内容が充実している「平家物語」
といえると思います。

そして、読んでみたらところ成る程一般的に知られているものより「中世色」が濃いように感じれます。
(つづく)

蒲殿春秋(六十二)

2006-11-12 21:52:43 | 蒲殿春秋
養父範季か下野行きを頼まれたから二日の後には範頼はすでに彼の地を目指す馬上にあった。
秋も深まり夕暮れも近づくと風の冷たさが身にしみる。

「なあ当麻太郎よ」
範頼は轡を並べる側近に声を掛ける。
「はい」
「何故今になって基成様は養父上を警戒なさるのか?」
「と申されますと」
「我々が奥州に入ってすぐの頃は、さほど養父上と基成様との間には諍いめいたものは見られなかった。
それどころか、基成様は私をわざわざ館に及びになり九郎とお引き合わせくださったのだが・・・
それが何故今頃になって九郎が親しく養父上の屋敷に出入りしたり我々兄弟が親しくするのを警戒なさるのか。
それに、養父上が院の覚えのめでたいことも右大臣さまの元に出入りしていることもご存知だったはずなのに」

範頼は疑問を投げかける。
「私には基成様がなにを考えているのかはわかりませんが」
当麻太郎は答える。
「基成様も殿を九郎様に会わせた頃の思惑と現在の思惑が変わったのやもしれませぬ。人はいろいろな思惑を秘めているもの。けれども思惑通りに動かぬのがこの世の中。人の想いも世の流れも常に変わるものでございます。
ただ、私が思いますに、陸奥守と平泉の御館(秀衡)の最近の仲のむつまじさは気になるところでございました。
基成様としては、自分がないがしろにされたのではないのかとお考えになったのやもしれませぬ。それに・・・」
当麻太郎は近づいた。
「九郎様です。あのお方は他の誰もがお持ちではない輝きをお持ちです。
あの方を陸奥守様にとれらてしまうと基成様は警戒されたのやもしれませぬ」

秋の夕日を受けた紅葉が主従を穏やかに照らしていた。

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蒲殿春秋(六十一)

2006-11-10 22:58:21 | 蒲殿春秋
義経はこう続けた。
都でかつてそれなりの地位を占めていたことがあり
現在でも宮廷社会に人脈を持つということが
ここでの基成の権威の元の一つである。
しかし、かつて基成の努めた陸奥守であり鎮守府将軍である
範季の現地赴任は基成の権威をゆるがすことであった。
なにしろ、範季は院のお気に入り、摂政基房の弟右大臣兼実の家人でもある。
院の近臣というのが気に入らない。
かつて、基成の父忠隆は鳥羽院の近臣中の近臣、弟信頼は後白河院と肉体関係まで持っていた。
けれども、信頼は平治の乱にて謀反人として処刑され、信頼一族は院の周辺から一掃された。

摂関家の兼実に仕えているのも気に入らない。
基成の妹は摂政基実の妻でその嫡子の母であった。
しかし平治の後基実は清盛の娘と結婚し、嫡子基通の「母」の座も清盛の娘のものとなってしまいった。
基成の妹はすっかり影の薄い存在となってしまった。

院とのつながりも摂関家とのつながりも基成にとっていまや過去の栄光。

現在ときめいている範季はかつての自分。

そして範季は現在の自分を脅かしている。

それだけならまだしも
基成以来陸奥に実際に赴いた国司はいなかったのに範季はわざわざ陸奥までやってきた。
範季は基成からしてみれば目触り過ぎるのである。

しかも、自分の可愛がっていた義経がその兄に会うという名目で
範季の屋敷によく出入りするのが余計に気に入らない。

「実はそのようなわけで暫く兄上に会うことはできないのです。
私自身はそのような基成様の思いとは関係なしに兄上にお会いしたいのですが
佐藤の義兄上たちに止められまして・・・」
と義経は残念そうに範頼に話す。

そんな義経に向かって
「実は、私も近々ここを離れることになった」
と範頼は告げた。
「えっ」とうなづき返す義経は怪訝な顔をして見上げてきた。
「下野に行くことになったのだ。
私もそなたと会えなくなるのは寂しいのだが」
そういって弟の顔をじっと見つめる。

あの元服の日以来父を同じくする兄弟とは何度か会っては
すぐに別離の時を迎えた。
伊豆の頼朝、都にいる姉、全成。
そしてここにいる義経ともおそらく今日を最後に会うことは無いだろう。

いっそ会わなければ別離の寂しさもないのだがと思いつつも
どこかでまた兄弟に会いたいと願いを心の底に抱えている自分がいることも知っていた。


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蒲殿春秋(六十)

2006-11-02 22:49:20 | 蒲殿春秋
あの狩の後範頼の元を義経はしばしば尋ねるようになった。
協力して行った狩が二人を強く結び付けていた。

だが、その兄弟の蜜月は範頼の養父範季によってある日突然絶たれた。
「下野に行って欲しい」
唐突に範季は切り出した。
「えっ」
突然のことに範頼は戸惑った。
「下野守を助けて欲しい」
そう言ったのである。

奥州は藤原秀衡の指導の下いたって平穏である。
秀衡が国衙に協力するかぎり陸奥守の仕事は何一つ困ることは無い。
さいわい秀衡と範季の間は円滑である。
けれども、下野はそうもいかない。
下野の両虎と呼ばれる小山、足利のいがみあいが激しく
それに宇都宮氏や常陸上野武蔵の諸豪族が複雑に利権に絡んできて
争いごとが絶えない。
流血の絶えぬ日々に下野守範光(範季の甥で婿)がすっかりおびえてしまったのだという。
この前の狩の様子をみて範頼ならば小競り合いの絶えない下野に行って
範光を助けることができると思う。

このような表向きの理由を範季はとうとうと述べた。

確かに、これといって何もすることもない奥州にいるよりは
下野に行ったほうが自分は確かに役にたつであろう。
それにしても、この唐突な下野行きは本当に範季が言ったことだけが理由なのだろうか・・・

その問いは弟義経がその夜答えることになった。

例によって突然訪れたこの弟は
夕餉の席でこう語った。
「兄上、基成様にはご用心ください」
「えっ」
「基成様は、陸奥守様を警戒しておられます」

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蒲殿春秋(五十九)

2006-11-01 00:15:25 | 蒲殿春秋
「なあ、九郎。そなたはそなた。私は私。それで良いではないか。」
「はあ?」
「確かに、私はそなたには無いものを持っている。
それは、背の丈だけかもしれぬがの。
だが、そなたには、そなたしか持たぬものを多くもっておる。
自らが持たぬものを追い求めるより、あるものに気づくほうがはるかに良い。」
範頼はつづけた。
「私は、三郎兄上にあこがれていた。いや、今でもあこがれている。
だが、私は三郎兄上には決してなれぬ。代わりもできぬ。
だが、三郎兄上も決して私にはなれぬ。
私は、六郎範頼として、生きるしかないのじゃ。」
「そうですね。」
義経は静かに答えた。
「さあ、九郎夜も更けた。休んでいたのを起こして済まぬ。
明日もある。休もうではないか」
そういうと、範頼は再び横になった。

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