源義経
この方は超有名人で、いたるところに伝説が氾濫してます。
けれども「伝説先行型」でどこまでが事実、史実であったのかの線引きが難しいところです。
私のわかる範囲で「事実だったかもしれない」というところを書き出してみたいと思います。()内は記載されている記録
平治元年(1159年)生 (「吾妻鏡」「平治物語」他)
父 源義朝 母 九条院雑仕常盤 (「吾妻鏡」「尊卑分脈」他)
父からみた兄弟順 九男※1
同父同母兄弟 全成、義円(円成) (「尊卑分脈」他)
異父同母兄弟 一条能成(「尊卑分脈」)、女子(「吾妻鏡」)
経歴
父の死後母と一時期共に過ごす。
鞍馬寺に入門していた可能性大
その後奥州に下向※2
※1
義経の兄弟順について
九男と見る説
各種系図に義朝の四男として「義門」という人物が記載されていますが
この人に関しては「早世」と書かれ詳しいことが書かれていない「謎の人物」です。
つまり、存在したのかどうか判別不能に近い人物です。
この人がいたとしたら義経は九男です。
八男と見る説
軍記物などで
「自分は八男だが、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して九男にする」
本人が言ったという記載で八男説もありますが
この軍記ものの記載よりも「義門」が存在したのかどうかが問題だと思います。
六男と見る説
「吾妻鏡」ではなんと義経のことを「六男」と記載していました。
(義経死亡記事 文治五年(1189年)四月三十日記事)
ですが、吾妻鏡では
義平を頼朝の舎兄と記載され(長男) (義平未亡人への艶書事件)
朝長が存在したことも記され(次男) (波多野氏関連の記述)
頼朝は序文で三男と記され(三男)
頼朝と同母の弟希義が土佐で死んだことが記され(四男?) (希義死亡記事)
範頼も義朝の息子で頼朝の御舎弟として記載(五男?) (曽我事件の弁明)
全成も頼朝の弟と明記されています。(六男?) (頼朝との対面記事)
ただし、義円に関しては頼朝との続柄が明記されていません。
義円を抜いたとしても吾妻鏡の記載だけでも上から数えると
義経は7男となります。
(それとも、希義・範頼・全成の誰かが義経の「弟」とカウントされたんでしょうか?)
誤謬というしかないのですが、なんで義経を六男と書いたんでしょうか・・・
兄弟順というのは下に行くほど不明瞭になります。
系図にも、どの記録にも残ってなくて密かにもっと兄弟がいた場合は
ますます、順番が狂います。
とりあえず、「九郎」という通称を元に「九男」と考えるのがやはり無難なところでしょうか?
※2
義経の奥州下向について
角田文衛氏は母常盤の再婚相手一条長成の縁戚関係が奥州にまで伸びていたので
その縁を辿って奥州に下ったとの説を唱えられました。
この説は現在でも有力で、この縁ゆえ奥州でも義経は奥州の支配者藤原秀衡に厚遇されたと見る向きが強いようです。
しかしながら、一条長成がらみでも秀衡との親戚関係はかなり遠いものなので
この縁が有効だったかどうかわからず
奥州でもさほど厚遇されていたわけではないのではないかとの見方もあるようです。
中には少年期奥州には行かなかったのではないのかという説まであるようです。
(※2以降ここまで「源義経ー流浪の勇者」などを参考)
けれども、南奥州出身の佐藤継信、忠信兄弟は最期まで義経にかなり忠実に従っています。
(彼らとは都で知り合った可能性が全く無いわけではないのですが)
このことを考えると藤原秀衡との関係はどのようなものであったのかはわからないのですが、義経はその前半生のうちには一度奥州に下ったものと考えてよいのではないのかと考えられます。
また、この小説のなかでは既に義経を妻子持ちにしていますが、
この時期にすでに娘がいたらしいという説はかなり有力なようです。
妻はだれだかはまだわかりませんが・・・
この方は超有名人で、いたるところに伝説が氾濫してます。
けれども「伝説先行型」でどこまでが事実、史実であったのかの線引きが難しいところです。
私のわかる範囲で「事実だったかもしれない」というところを書き出してみたいと思います。()内は記載されている記録
平治元年(1159年)生 (「吾妻鏡」「平治物語」他)
父 源義朝 母 九条院雑仕常盤 (「吾妻鏡」「尊卑分脈」他)
父からみた兄弟順 九男※1
同父同母兄弟 全成、義円(円成) (「尊卑分脈」他)
異父同母兄弟 一条能成(「尊卑分脈」)、女子(「吾妻鏡」)
経歴
父の死後母と一時期共に過ごす。
鞍馬寺に入門していた可能性大
その後奥州に下向※2
※1
義経の兄弟順について
九男と見る説
各種系図に義朝の四男として「義門」という人物が記載されていますが
この人に関しては「早世」と書かれ詳しいことが書かれていない「謎の人物」です。
つまり、存在したのかどうか判別不能に近い人物です。
この人がいたとしたら義経は九男です。
八男と見る説
軍記物などで
「自分は八男だが、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して九男にする」
本人が言ったという記載で八男説もありますが
この軍記ものの記載よりも「義門」が存在したのかどうかが問題だと思います。
六男と見る説
「吾妻鏡」ではなんと義経のことを「六男」と記載していました。
(義経死亡記事 文治五年(1189年)四月三十日記事)
ですが、吾妻鏡では
義平を頼朝の舎兄と記載され(長男) (義平未亡人への艶書事件)
朝長が存在したことも記され(次男) (波多野氏関連の記述)
頼朝は序文で三男と記され(三男)
頼朝と同母の弟希義が土佐で死んだことが記され(四男?) (希義死亡記事)
範頼も義朝の息子で頼朝の御舎弟として記載(五男?) (曽我事件の弁明)
全成も頼朝の弟と明記されています。(六男?) (頼朝との対面記事)
ただし、義円に関しては頼朝との続柄が明記されていません。
義円を抜いたとしても吾妻鏡の記載だけでも上から数えると
義経は7男となります。
(それとも、希義・範頼・全成の誰かが義経の「弟」とカウントされたんでしょうか?)
誤謬というしかないのですが、なんで義経を六男と書いたんでしょうか・・・
兄弟順というのは下に行くほど不明瞭になります。
系図にも、どの記録にも残ってなくて密かにもっと兄弟がいた場合は
ますます、順番が狂います。
とりあえず、「九郎」という通称を元に「九男」と考えるのがやはり無難なところでしょうか?
※2
義経の奥州下向について
角田文衛氏は母常盤の再婚相手一条長成の縁戚関係が奥州にまで伸びていたので
その縁を辿って奥州に下ったとの説を唱えられました。
この説は現在でも有力で、この縁ゆえ奥州でも義経は奥州の支配者藤原秀衡に厚遇されたと見る向きが強いようです。
しかしながら、一条長成がらみでも秀衡との親戚関係はかなり遠いものなので
この縁が有効だったかどうかわからず
奥州でもさほど厚遇されていたわけではないのではないかとの見方もあるようです。
中には少年期奥州には行かなかったのではないのかという説まであるようです。
(※2以降ここまで「源義経ー流浪の勇者」などを参考)
けれども、南奥州出身の佐藤継信、忠信兄弟は最期まで義経にかなり忠実に従っています。
(彼らとは都で知り合った可能性が全く無いわけではないのですが)
このことを考えると藤原秀衡との関係はどのようなものであったのかはわからないのですが、義経はその前半生のうちには一度奥州に下ったものと考えてよいのではないのかと考えられます。
また、この小説のなかでは既に義経を妻子持ちにしていますが、
この時期にすでに娘がいたらしいという説はかなり有力なようです。
妻はだれだかはまだわかりませんが・・・
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