この時代(平安末期ー鎌倉初期)に詳しい人の間では有名な「亀の前事件」
小説もどきでも取り上げましたがどのような事件かといいますと
「亀の前」という女性を巡って発生した
源頼朝・北条政子夫妻の周囲を巻き込んで起こった「夫婦喧嘩」のことです。
事件のあらましは次の通りです。
寿永元年(1182年)
政子の妊娠中に頼朝が「亀の前」という女性と関係を結び
それを知って怒った政子が出産後「亀の前」の住む家を(外戚の)牧宗親に破壊させます。
すると今度はそれに腹を立てた頼朝が牧宗親の髻を切ります。
結果宗親は逃亡します。
今度は政子の父で宗親の婿である北条時政が鎌倉を去って本拠地の伊豆に引き上げます。
頼朝は父と行動を別にして鎌倉に残っている義時を誉めます。
というのがよく知られている「亀の前事件」のあらましです。
ところが「吾妻鏡」をよく読んでみると意外な事実が浮き出てきます。
襲撃~時政が引き上げといった一連の騒動の後の記事です。
12月12日条に
「頼朝の亀の前に対する寵愛はさらに深まり、亀の前を(逃亡先の鐙摺から?)
小坪(逗子市内)に住まわせた。」
という内容が書かれています。
つまり、あのような事件があっても頼朝と亀の前の関係はその後も続いていたようなのです。
二人の関係がいつまで続いていたのかというと
翌年の「寿永二年(1183年)」は「吾妻鏡の空白の一年」にとなり
空白空けの寿永三年(1184年)以降には「亀の前」が全く登場しないので
どうなったかというのは全く不明となります。
けれども、実際のところはいつまで続いていたのか気になります。
そして、もう一つ気になることがあります。
伊豆に引きこもった北条時政がいつ鎌倉に戻ったかということです。
寿永元年(1182年)10月14日に鎌倉を去ったという記事以降
同年の「吾妻鏡」には時政は一切登場しません。
そしてその後「空白の寿永二年」に突入。
「寿永三年前半」も三月に「土佐の住人に手紙を出しました」という記事がみられるだけで
「木曽攻め」「一の谷」前後に「お手紙出しました」以外時政の名前が全く出てこないのです。
北条時政は「亀の前事件」以降どうしていたのでしょうか・・・

小説もどきでも取り上げましたがどのような事件かといいますと
「亀の前」という女性を巡って発生した
源頼朝・北条政子夫妻の周囲を巻き込んで起こった「夫婦喧嘩」のことです。
事件のあらましは次の通りです。
寿永元年(1182年)
政子の妊娠中に頼朝が「亀の前」という女性と関係を結び
それを知って怒った政子が出産後「亀の前」の住む家を(外戚の)牧宗親に破壊させます。
すると今度はそれに腹を立てた頼朝が牧宗親の髻を切ります。
結果宗親は逃亡します。
今度は政子の父で宗親の婿である北条時政が鎌倉を去って本拠地の伊豆に引き上げます。
頼朝は父と行動を別にして鎌倉に残っている義時を誉めます。
というのがよく知られている「亀の前事件」のあらましです。
ところが「吾妻鏡」をよく読んでみると意外な事実が浮き出てきます。
襲撃~時政が引き上げといった一連の騒動の後の記事です。
12月12日条に
「頼朝の亀の前に対する寵愛はさらに深まり、亀の前を(逃亡先の鐙摺から?)
小坪(逗子市内)に住まわせた。」
という内容が書かれています。
つまり、あのような事件があっても頼朝と亀の前の関係はその後も続いていたようなのです。
二人の関係がいつまで続いていたのかというと
翌年の「寿永二年(1183年)」は「吾妻鏡の空白の一年」にとなり
空白空けの寿永三年(1184年)以降には「亀の前」が全く登場しないので
どうなったかというのは全く不明となります。
けれども、実際のところはいつまで続いていたのか気になります。
そして、もう一つ気になることがあります。
伊豆に引きこもった北条時政がいつ鎌倉に戻ったかということです。
寿永元年(1182年)10月14日に鎌倉を去ったという記事以降
同年の「吾妻鏡」には時政は一切登場しません。
そしてその後「空白の寿永二年」に突入。
「寿永三年前半」も三月に「土佐の住人に手紙を出しました」という記事がみられるだけで
「木曽攻め」「一の谷」前後に「お手紙出しました」以外時政の名前が全く出てこないのです。
北条時政は「亀の前事件」以降どうしていたのでしょうか・・・

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