時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

頼朝の任官推薦権独占はあったのか? 下

2010-09-17 06:01:36 | 源平時代に関するたわごと
今まで書いてきたように義経の左衛門少尉・検非違使任官と御家人達の任官は頼朝にとってさほど重要な問題ではないということが最近の学説では有力なものとなってきているようです。

では、従来の学説で彼等の「無断任官」が問題視されていたとされるその根拠になる文献は何でしょうか?
その文献はもちろん『吾妻鏡』です。
どの部分に該当といえば先に挙げた元暦元年(1184年)8月16日条と共に寿永3年(1184年)2月25日条がそれに当たると思われています。
この2月25日条の記事では頼朝が朝廷に送った4か条の申入れが書かれています。その中の一つにこうあります。(*)
「一、平家追討の事
右畿内近国、源氏平氏と号して、弓箭に携はるの輩、並びに住人等、義経の下知に任せて引率す可きの由、仰せ下さる可く候、海路たやすからずと雖も、殊に急ぎ追討す可きの由、義経に仰する所なり、勲功の賞に於いては、其後頼朝計らひ、申上ぐ候、」)」(龍粛編訳『吾妻鏡』岩波文庫 より抜粋、一部現代表記に書き換えました)

この中の「其後頼朝計らひ、申し上ぐ候」が「頼朝による御家人や一門への官位申請権の独占」と考えられていたようです。

でもその文面は本当に「頼朝の官位申請権の独占」と解されて良いのでしょうか?

この2月25日条をよく読むと内容は次の通りになります。

1.畿内やその近辺の武士達を義経が従え、平家を追討すること。
2.その追討の後の恩賞は頼朝が申請します。

つまり、「恩賞は頼朝が申請します。」とありますが、その恩賞申請は、一の谷の戦い以前の勲功は含まず、「これから行なわれるであろう平家追討の戦いにおける恩賞の申請」に限られているのです。
(この申入れが行なわれたのが2月25日で「これから先の恩賞」となると2月7日に終わった一の谷の戦いやその前の木曽義仲との戦いは含まれないことになります。)

またこの一文に「頼朝だけが鎌倉御家人達の官位を申請するので、部下達の勝手な申請は受け付けないで下さい。また頼朝を通さずに勝手に朝廷側から任官しないで下さい。」という意味が含まれていると見てよいのでしょうか?

さらに冒頭に挙げた『玉葉』の記事の内容を考えてみると、「部下達の勝手な申請は受け付けないで下さい。また頼朝を通さずに勝手に朝廷側から任官しないで下さい。」いう内容は深読みのしすぎのような気がします。
少なくとも木曽義仲追討~一の谷までに関しては、頼朝が追討軍に加わったものの全ての官位を申請しますという朝廷に対する宣言は無かった見ていいのではないでしょうか。

勿論文献に載らない鎌倉政権内部での「内規」というものがあった可能性が無きにしも非ずです。
しかし、文献を読む限りでは「無断任官禁止という内規」があったかどうかということの確証は全くとれません。前に書かせていただいた通り、「頼朝が義経や御家人達の無断任官に不快感を示した」という『吾妻鏡』の記載の信憑性は疑われる向きがあるのです。
この件に関する『吾妻鏡』の文面の信憑性が持てない以上、一門や御家人達に対して「無断任官禁止」という頼朝の命令があったということはあくまでも推測の域を出ないものとなります。

義経の無断任官が少なくとも平家滅亡まで問題視されなかった、そして御家人達の任官自体が問題視されなかった(むしろ官位にふさわしい任務を果たせと命令されている)ことを考えると、(少なくとも1184年2月25日以前に)任官推薦権を独占しようとしていたという事実は無かったのではないか、と私は考えます。

*五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)の該当部分は次のようになっています。
「一、平家追討のこと
このことは、畿内近国で源氏や平氏と称して弓矢を携帯している者たちや住人らは、(源)義経の命令に従って軍勢に加わるようにと命じていただきたい。海路を行くのは容易ではありませんが、特に急いで追討を行なうようにと、義経に命じたところです。勲功の賞については、その後に私から計らい申し上げることにします。」

もう少し書かせていただきます。

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