時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百八十)

2010-05-21 06:03:15 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)二月十三日、平家一門の首が都大路を渡された。
渡されたのは、平通盛、平忠度、平経正、平教経、平敦盛、平師盛、平知章、平経俊、平業盛、平盛俊
の首。
もっとも教経については、まだ本人は生きていて引き回された首が偽者であると後に言われるようになるのだが。
これらの人々はかつて都の市井の人々が彼等の生前決して目にすることができないほどの雲の上の存在だった。
このような人々の首が赤札を下げられさらに槍の先に刺されて都大路を引き回され、やがてその首が獄門の木にぶら下げられたのである。

その様子を見た都の人々は平家の敗北を実感させられた。
そして世の移り変わりの激しさを知り、様々な想いを抱く。

この首渡しを最も満足気に見ていたのが土肥実平である。

今回の首渡しはやはり義経や中原親能の危惧したとおり公卿達の多くが反対した。
院ご自身すら気がお進みにならなかったようである。

しかし、範頼と義経はこの首渡しの件については一歩も譲らなかった。
どのように拒否されても断固として首渡しを強硬に主張し続けた。

数日にわたって議定が開かれ、勅使が何度もあちらこちらを歩き回った。

そして遂にこの首渡しが決行されたのである。

━━━ 雲の上の方々は現在の我々の言い分を無下にできまい。
土肥実平は心中でつぶやく。
福原の戦いで平家が敗れたというものの、彼等の勢力が完全に無くなったわけではない。
平家は未だ四国讃岐国屋島にある。
また、平家の郎党達の中には畿内の本領に籠もっているものも多い。
もしここで鎌倉勢が、軍勢を全て引き連れて東国に戻ってしまったならば、平家が再び勢力を盛り返して都を奪還しかねない。
そうなった場合、都合が悪い方々が公卿の中に多数いる。
その方々は鎌倉方の機嫌を損ねるわけにはいかないのである。

それを知り尽くしているからこそ今回強硬に自らの存念を通さすことができた。


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