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原発は国主導・東芝元社長の言葉

2017-12-13 | Weblog

記事  文春オンライン  2017年12月12日 

私が見た東芝・西田元会長 原発について語った忘れられない一言~禁煙の会議室でも悠然とタバコを燻らせていた姿を思い出す。~ - 大西 康之

 今年3月、私が横浜市の自宅で取材した時に、西田は「WH買収の経営判断そのものは間違っていなかった。問題は買収後のマネジメントにある」と語り、自分が後任の社長に選んだ佐々木則夫の経営を批判した。

                          
左から西田会長、田中副社長、佐々木社長(肩書きはいずれも当時) ©getty

 しかし2009年に佐々木に社長を譲った後も、西田は2014年まで会長の座にとどまり経営の一翼を担っている。2006年に東芝が買収した後も、ずっと暴走を続けていたWHをなぜ止められなかったのか。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスなどが原発事業からフェードアウトし始めた、2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故以降も、ずるずると原発事業にのめり込んでいったのはなぜか。真相を語らぬまま、泉下の人となった。

「東電の正妻」と呼ばれていた東芝では非主流の扱い

 早稲田大学の政治経済学部を卒業した後、西洋政治思想史を研究するため東京大学大学院に進み、学究の道を進むつもりだった。しかし国費留学で来日していたイラン人の女性と恋に落ち、彼女を追いかける形でイランに渡り、現地資本と東京芝浦電気の合弁会社で職を得た。手腕が認められ東芝の本社採用となったのは1975年、31歳の時である。

 発電タービンや原発などの重電事業を主軸とし「東電の正妻」と呼ばれた東芝では長く、「東大工学部卒、重電出身」が社長の条件になっていた。パソコンや情報システムといった新興事業出身の西田は、イラン現法からの「編入組」という経歴も加わって、長らく非主流の扱いを受けてきた。


 頭角を現したのは1992年、東芝情報システム社の社長に就任し、不振が続いていた米国のパソコン事業を立て直してからである。米国で手柄を立て、本社の役員に凱旋した西田にインタビューしたことがある。

 通常、東芝の役員クラスにインタビューするときは39階の応接フロアに通されるが、このとき案内されたのは広報室の裏にある小さな会議室だった。広報部員に案内されて部屋に入ると、西田は悠然とタバコを燻らせていた。

 東芝本社ビルは原則禁煙で、喫煙できるのはスモーキング・ルームだけだった。広報部の会議室も本来は禁煙だが、西田はお構いなしで吸っていた。よく言えば豪放磊落、悪く言えば横暴な印象を受けた。頭の回転はめっぽう早く、弁舌は爽やか。少ししゃがれた声で自信満々に話すその姿は、往年の田中角栄を思わせた。

 専務時代、2003年度第3四半期に142億円の赤字だったパソコン事業を翌年同期に84億円の黒字に転換させ「西田マジック」と呼ばれた。この豪腕ぶりに目をつけたのが、今年亡くなった当時会長の西室泰三である。このときの黒字転換は、のちに問題となる粉飾の一種、「バイセル取引」を使った疑いが持たれているが、経団連会長の座を狙っていた西室は、清濁併せ吞む西田を「使える」と判断した。

 本来、次期社長の任命権は社長(当時)の岡村正にあったが、西室は岡村の頭越しに、西田を社長に引き上げた。岡村は「人事権を奪われた」と涙を流して悔しがったとされる。

「決めるのは政府です」とまくし立てた

 2011年3月の東日本大震災の直後、会長時代の西田にインタビューした。このときは応接フロアで、西田もタバコを控えていた。まだ東芝が建設した福島第一原発の原子炉が冷温停止しておらず、世界中の目がフクシマに集まっていた。「今、東芝にできることは何か」と問うと、西田は待ってましたとばかりにまくし立てた。

「スマートシティでもコンパクトシティでも、意思決定者である政府が決めてくれれば、東芝の技術を総動員して、お望みの街を作ってみせますよ。ただし、我々はあくまでも実行部隊。決めるのは政府です」

「自社が設計、建設した原発が白煙を上げ、世界を不安のどん底に突き落とした責任をどう考えているのか」と聞いたつもりだったので、あまりにあっけらかんとした返答に二の句が継げなかった。確かに法律上、日本において原発メーカーは製造物責任を問われない建て付けになっている。

                 
爆発した福島第一原発3号機 写真提供:東京電力

 事故から6年が経過した今も、福島第一原発には東芝の技術者が常駐し、厳しい環境のもとで廃炉作業を進めている。しかしこの間、西田や佐々木が現場に入って陣頭指揮を執ったという話は聞いたことがない。

「決めるのは国。実行するのが企業」という西田の言葉は、「国策企業」という東芝の立ち位置をはっきり言い表している。

 原発についても考えは同じだろう。原発推進を国が決めた以上、WH買収は実行部隊である東芝の使命だった。たとえそれが、東芝を存亡の危機に導く危険な選択だったとしてもである。

 教養にあふれ、リーダーシップに富んだ経営者だった。しかし最後のインタビューの一言が頭から離れない。

「僕は社長時代、2回も福島第一に行っているんだ。原子力の本も読んだ」

 このレベルの知識で54億ドル(当時のレートで約6400億円)の社運をかけた買収を決めていいはずがない。洗濯機から半導体、原発まで作る「総合電機」という化け物を意のままに御せる経営者などこの世に存在しない。誰よりも西田本人がその矛盾に悩んでいたはずだ。

 ご冥福をお祈りします。(大西 康之)


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