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コロナに強く結合、人工抗体を発見!…抗原検査の精度向上に期待…!?

2020-09-19 | 報道・ニュース
コロナに強く結合、人工抗体を発見…抗原検査の精度向上に期待

 名古屋大の村上裕教授(生物化学)のグループは、国立病院機構名古屋医療センターとの共同研究で、新型コロナウイルスに特異的に、かつ強く結合する人工抗体を発見したと発表した。抗体は、新型コロナの抗原検査に欠かせないもので、検査の精度向上も期待できるという。研究成果は19日、米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」電子版に掲載される。

 村上教授らは、10兆種類の人工抗体候補群の中から、新型コロナウイルスのたんぱく質と結合する3種類の人工抗体を発見。うち2種類は新型コロナとだけ特異的に、また非常に強く結合するものだった。

 抗原検査には通常、動物の体に存在する抗体が使われているが、これらの人工抗体は、動物の体に存在する抗体と異なり、大腸菌を使って簡単に大量生産でき、抗原検査への活用が期待される。

 一方、2種類の人工抗体のうち1種類は、ウイルスの機能を奪い、人の細胞に感染できなくする「中和抗体」だったといい、新型コロナの治療薬への応用が考えられるという。

 また、今回、研究グループは、人工抗体を高速で選び出す方法を開発し、ウイルスのたんぱく質と結合する人工抗体を4日で見つけた。通常は数週間かかるといい、村上教授は「今回の方法は別のウイルスにも応用が可能で、他の感染症の流行にも対応できる」と話している。

 

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菅内閣誕生・全国新聞ネット 2020/09/17

2020-09-17 | 報道・ニュース

菅内閣誕生で完成「2012年体制」の悪夢 二階氏が後継指名した最大の狙いは全国新聞ネット

      菅義偉首相=9月16日、首相官邸© 全国新聞ネット 菅義偉首相=9月16日、首相官邸

 安倍晋三首相が突然の辞任表明記者会見をするや否や、瞬く間に菅義偉官房長官を後継とする流れが二階俊博自民党幹事長によって作られ、2週間余りのメディア旋風を経て首相指名がなされた。いったい何が終わり、何が変わるのか、あるいは変わらないのか。分かるようで分からない有権者も少なくないのではないか。(上智大学教授=中野晃一)

 ■安倍政権か、安倍内閣か

 まず「内閣」「政権」「体制」という、政治に関わる基礎的な概念の整理から入ることとしよう。

 言うまでもなく内閣は、最もシンプルには首相と閣僚、つまり政治家からなる政府のトップのことである。広義では、これに各省庁の官僚制を含めた政府全体を指すこともある。

           国会議事堂© 全国新聞ネット 国会議事堂

 これに対して政権は、首相や閣僚たちで構成する内閣に加えて、一方ではその指揮下にある官僚制、そしてもう一方では立法府で政府を支える与党を含む。つまり、内閣と政権は重なる概念である。

 ところが内閣が行政府のみを指し、三権分立の下、国会にある与党とも緊張関係に立ちうる別個の組織であるのに対して、政権は、英国型の議院内閣制に倣って政府と与党の一体化を強調する点が決定的に異なる。

 体制となるとさらに概念は広がる。それは、与党だけでなく野党を含めた政党システムのあり方や、政府と市民社会の関係、憲法はじめ法体系などまでも包摂し、通常、より安定的なものである。

 かつて冷戦期に、政権交代が起きないまま自民党政権が38年続いた政治システムは1955年体制と呼ばれ、その下では内閣の交代や改造が頻繁になされていた。

    1955年11月に開かれた自民党結成大会© 全国新聞ネット 1955年11月に開かれた自民党結成大会

 さて、本稿で論じたいのは、2012年12月26日から7年8カ月の長きにわたり続いた安倍首相の下で形成されたのが「安倍内閣」あるいは「安倍政権」だったのか、はたまた「2012年体制」とも呼ぶべきものなのか、そして菅への交代によって変わる、あるいは継承され定着が図られるのは何なのか、である。

 ■民主党政権に近似する皮肉

 朝日新聞記事データベース「聞蔵IIビジュアル」を活用して、安倍首相の在職期間中に絞って「安倍内閣」もしくは「安倍政権」のいずれかへの言及を含む記事を検索し、そのヒット件数(記事数)を在職日数で割ったものを、同様に何人かの他の自民党の首相と比較したグラフをここに示す(ただし、中曽根康弘についてはデータベースが1984年からの記事に限ることから期間を狭め、また安倍第2次政権についても執筆の都合から歴代最長在職期間記録を更新した2020年8月24日までとした)。

     © 全国新聞ネット

 一見して明らかなのは、2006年から2007年までの第1次にせよ、つい終わりを迎えたばかりの第2次にせよ、「安倍政権」に言及する記事数が突出して多く、かつて一般的だった「内閣」をはるかに凌駕(りょうが)していることである。中曽根や竹下では、「内閣」と呼ぶ記事数が「政権」と言及するものの2倍であったものが、第2次安倍政権では「政権」という呼称が定着し、逆に「内閣」とする記事の3倍を超えている。

 実はこうした報道における用語法や政治認識の変化は、第2次安倍政権に先んじた民主党への政権交代を経て加速した。「政府与党一体化」や「政治主導」を強調した民主党では、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦のいずれの首相でも、「政権」としての言及が「内閣」をゆうに上回っており、「鳩山政権」に至っては1日あたり9.9件も(「鳩山内閣」は4.7件)記事があったことが確認できた。皮肉なことに、「内閣」でなく「政権」であったという意味では、安倍は小泉よりも民主党政権に近似しているのである。

 ■2012年体制の本質と懸念

 もちろん根本的な違いは、民主党が政府与党一体化や政治主導によって二大政党制の一方を担うことを目指して挫折し3年3カ月で下野したのに対して、第2次安倍政権が7年8カ月も続き、かつ第1次政権の時から、「政権」たることに満足せず「戦後レジームからの脱却」をうたったように、「体制」変革までも射程に入れていたことである。

 つまり安倍は、2012年12月に民主党政権とともに二大政党制が崩壊した際に政権復帰を果たし、官邸支配と呼ばれる強権的な仕方で、不都合な公文書の隠蔽(いんぺい)、改ざん、廃棄までも自ら犯すほどに官僚制を掌握、操縦した。

         参院予算委で野党議員にやじを飛ばす安倍首相(当時)=2017年3月© 全国新聞ネット 参院予算委で野党議員にやじを飛ばす安倍首相(当時)=2017年3月

 その後も「1強体制」と言われるまでに与党内そして野党を圧倒したのみならず、マスコミを懐柔、圧迫してきた。さらには違憲の安保法制を強行しただけでなく、憲法53条に基づく臨時国会の開会請求を再三無視し、カジュアルに憲法違反を続けてきた。

 森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、検察幹部定年延長問題、カジノ汚職事件、河井夫妻による買収事件など枚挙にいとまがない数々のスキャンダルについて、法の支配をゆがめ、説明責任(アカウンタビリティー)の放棄を繰り返しても、菅官房長官が「全く問題ない」「適切に対応している」「その指摘は当たらない」と言えば済んでしまう、新しい政治体制(レジーム)――言うなれば2012年体制――を築いてきたのである。

 菅が、安倍や二階によって後継首相に選ばれたのは、安倍内閣が倒れても、安倍政権を存続させ、その取り組んできた体制変革を定着させるのに最適な人物だからにほかならない。

    自民党新総裁に決まり、登壇する菅義偉氏(中央)を見つめる安倍晋三氏。左は二階俊博氏=9月14日、東京都内のホテル© 全国新聞ネット 自民党新総裁に決まり、登壇する菅義偉氏(中央)を見つめる安倍晋三氏。左は二階俊博氏=9月14日、東京都内のホテル

 安倍政権とそのミッションを引き継ぐ以外に当面存在基盤がない以上、まずは菅内閣が安倍内閣にとって代わっただけで(用語法の変化を反映して菅政権との呼称が多用されるにしても)、実態としては安倍政権がそっくりそのまま続くと言って差し支えない。

 しかし、もし継承したはずの政権枠組みが早晩崩れるようなことがあったら、菅内閣は短命に終わるだろう。他方、菅内閣が安定し長期化した暁には、安倍政権に始まった2012年体制が内閣の交代を経てもなお存続することになり、アカウンタビリティーのない政治がニュー・ノーマルとして常態化することになる。

 菅内閣誕生のご祝儀相場に便乗した早期の解散総選挙がうわさされるが、現在のタガが外れた政治体制の起点に民主党の崩壊があることを想起すると、新生・立憲民主党を中心とした野党共闘が有権者に対して選択肢を示すことができるか、日本政治は重大な岐路に立っていると言わざるを得ない。

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「“死”は怖くないですか?」ハフポスト日本版

2020-09-09 | Weblog

死というのは、意識がなくなって醒めないだけなんだから、今夜寝るときと同じ

養老孟司さんに聞きました「“死”は怖くないですか?」ハフポスト日本版 2020/09/09 

© ハフポスト日本版

養老孟司さんは、死を怖いと思ったことがないという。解剖医として多くの死体と接し、『バカの壁』(新潮新書)といった著書などで社会を論じてきた知の巨人は今、「死」をどのように捉えているのか。

訪問診療医の小堀鷗一郎さんとの共著『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』(祥伝社) では、「私の場合は、死から生を見るということで、視点が普通とは逆転してしまう」と綴ったが、そこから見える景色とは。リモートで話を聞いた。

死とは社会の約束事

━━今年、私(聞き手)の義祖母が亡くなり、6歳の娘とともに「死」とはどういうものかを語り合いました。養老さんならそのような小さな子どもに、「死」をどのように伝えますか?

結論を言うと、こういう話に一般解はありません。生死の問題はマニュアルではいけない。死というのは、常に具体的なものです。その場その場で考えるしかない。

━━棺に入れられた義祖母の身体と、葬儀まで数日にわたって家で一緒に過ごす体験をしました。「医学的な死」と「認識上の死」は別のものだと、改めて実感しました。

その2つの死の間にはタイムラグ、ズレがありますね。つまり死というのは、社会的な約束事として決められているんです。医者が死亡診断書を書くための要件があって、それを満たせば「死んでいる」ということになる。だから、死亡診断書には死亡時刻を書くことになっています。

しかし、おばあさんのような親しい間柄の場合、客観的な基準はない。いつまでも生きていると思っている。いや、思っていたいんですね。僕は「二人称の死」と呼んでいますが、これはさっき言ったように、一般解がないということです。家族が死んだら、自分が変わっちゃいますからね。極端に言えば人生が変わって、別な人になる場合もある。

世間の常識として、死ぬというのは客観的な出来事だと思われてますが、それは「三人称の死」、つまり、神様目線と僕は呼んでいます。本当は厳格な定義はできません。死亡時刻なんてとても書けません。

若者の死因1位は自殺。「対人」ではなく「対物」へ

          © ハフポスト日本版

━━20代、30代の死因の1位が自殺となって、長く経ってしまっています。

 

日本の社会では昔からあるんですね。一番多い自殺の理由は、病苦です。鬱もそれに入れていいと思います。仕方がないですね。止めようがないです。

大学で教えていた頃、学生さんでそういう方がいました。あとから思うとサインがあったんですが、それは後から考えるからで、そのときは気が付かない。気が付いていれば何か打つ手があったかなと思うけど、気が付かなかった。まさか死ぬとは思ってません。それは未だに後悔しています。

━━養老さんがおっしゃる「仕方がない」というのは、著書(『手入れという思想』)にもある、自然界には「仕方がない」としか表せない領域が存在するということですね。ネットが普及し、SNSなどの影響力が大きくなった現代では、「世間」が今まで以上に可視化され、息苦しさを感じている人も少なくないと思います。

僕が思うのは、「対人」と「対物」を分けたときに、若い人は「対人」に集中しすぎているのではないかと。子どもの自殺はいじめが原因とかよく言われるけど、対人ですよね。そんな時、僕は「山に行きなさい」とよく言っています。人の顔ばっかり見ているんじゃなくて。

山は「炎上」したりしませんから。「いいね」「わるいね」なんて言いませんよ。

物との関係をもっと大きくしたらどうですか。ただ、都会はそれがなかなかできない。僕なんかが子どもの頃だったら、山へ虫捕りに行っちゃう。都会は子育てに向かないんですね。

━━私も都会で子どもを育ててしまっています…。

そういうところで子どもを育てちゃいけないんです。子どもは自然ですから。都会では、自然は排除されます。

親が経済的なこととか仕事のこととかいろいろ理由を言うんだけど、しなきゃいけないことというのは、理由とは関係がない。子どもはこうしないとだめですよ、というだけのことで。僕は田舎暮らしを勧めてるんですけど。

━━学校教育についてはどのように考えていますか?

根本的に変えるべきだと言っています。

僕らが子どもの頃は、野山で遊んでいる子どもをつかまえて学校の教室に座らせておくことに意味があったんです。今はまったく逆でしょ。ほっといても家にこもっているだけ。学校に来たら、子どもたちを野山に放した方がいいんじゃないか。つまり、学校の役割が昔と逆になっているんじゃないか。

不登校の子どもたちとよく付き合ってますけど、夏休みが明けると子どもの自殺が増える。それっておかしいと、学校が思わないといけない。つまり、虐待しているわけでしょう。

     © ハフポスト日本版

人生もっとズレちゃってていい

━━養老さんは今までも、自然や子どもへの「手入れ」について論じてこられました。都市での生活で、私たちは身体の「手入れ」についてどう考えていくことができますか?

身体というのは自然であって、本来この身体の当てはまっていた状況があるはずですね。それを頭で考えて都市を作ってしまっているから、ズレが大きくなってしまっている。これでどこまでやる気だろうと思ってるんですけどね。

それでもAIって言ってるでしょ。もっと極端になると、人間がいらなくなると言っている。

そういう考え方には意味がないと、はじめからわかるでしょ。変だよね。なぜ人間がいらなくなるような機械を作っていかなければならないんだろう。

━━本書には「人生は遊び半分でいいんです」と書かれています。とは言え、私たちは明日には学校や会社に行かなければならない。さらには、「夢」や「自己実現」などのプレッシャーも強いように感じます。

もっとズレちゃってていいんじゃないですか。

「夢」とか「自己実現」と言った瞬間に、生真面目な感じになる。夢ってなんでもありですからね。日本ではなにか決まったかたちのようになってしまう。そんなもん夢じゃねえだろ、って。夢ってもっとめちゃくちゃなもんでしょ。そういうめちゃくちゃなものを入れる余裕がなくなっちゃった。

「本人」がノイズになるのが現代

━━本書の中で、小説家サマセット・モームの『要約すると』を参照した記述が印象的でした。解剖実習の描写で、「神経の走り方が教科書と違います」という実習生に対して、助手は「人とはそういうものだ、解剖では例外が普通だ」と言います。生きている人間にも多様性があり、「例外が普通」で「いろんな人がいて当たり前」とも言えます。

本来、そのほうがストレスがないと僕は思ってるんです。できるだけ「普通」の範囲を広げたほうがいい。

世の中を意識できちんと作ってきたから、受け入れづらい。行き着くところがAIです。AIに扱えない状況の情報をノイズと言うんです。今では、人間がノイズになっています。

先日、「本人確認」について、こんな面白いことがありました。銀行に行ったときに、運転免許証を見せてくれと言われましたが、僕は持ってません。「保険証でもいいんですけど」と言われても、銀行には持って行かないでしょ。それで「持ってないよ」って言ったら「困りましたね」という話になって。銀行の人は僕を見て「養老孟司だ」とわかっているわけです。

それで僕が不思議に思ったのは、その「本人」ってなんだろう、と。目の前にいて、銀行の人も本人だってわかってるんだけど、でも本人確認の書類が必要だと言っている。

別の日に、会社の課長クラスの人が「部下がメールで仕事の報告してくる。あれはなんだ」と言っていて、気付いたんです。課長本人のところにいって報告をすると、機嫌が良いとか悪いとか、二日酔いで酒臭いとか、いろんな情報が入ってくるでしょ。その情報は仕事にはいらないよね。それをノイズって言ってるんですよ。本人がノイズなんです。

僕が銀行に行って「本人だ」と言って、銀行の人がわかっていても、その本人はいらないんです。それはコンピュータに入ってないから。

だから「本人」がノイズになる時代が、現代です。システムにはまるものしかいらない。それを始めたのは医者です。患者さんを診ないで検査の結果を見ている。検査の結果が患者であって、患者本人はノイズです。邪魔くさい。いなくていい。だから「人がいらなくなる」と言いだすんです。

それが鬱陶しくなって、息苦しくなってくるのは当たり前でしょう。そういう社会をわざわざ作ろうとしているけど、なんでそんなことすんの、とこっちは聞きたくなる。

━━私たちがそのような社会のあり方を見直していくには、何ができるでしょうか?

いや、だからそれは、そういうものに一般的な解答があるという前提でお聞きになられている。僕が問題にしているのは、一般的な解答がないものが大事なんじゃないかということです。今の人は、一般解がないとイライラするんです。

特に人生や生死というのは全部、具体的な問題です。それは政府や組織で片付く話じゃない。人がどう生きるかという話を組織でやったら、戦争中みたいになりますよ。「万事お国のため」ですから。

死が怖いなんて考えても仕方がない

━━子どもの頃、死んだら自分にとっての宇宙や世界はすべて終わりだと思うと、恐ろしく感じることがありました。生死への、そうした畏怖の念をいつの間にか忘れてしまったような気がします。

死ぬことなんて考えてもわからないでしょ。僕はコロナが嫌なのは、入院するのが嫌だから。死というのは、意識がなくなって醒めないだけなんだから、今夜寝るときと同じ。一度寝てしまったら、意識で起きてるわけじゃないんで。

僕は死を怖いと思ったことはないのでよくわからないですね。そんなことは考えても仕方がないです。

     © ハフポスト日本版

(文:遠藤光太/編集:毛谷村真木)

 

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