それは、「我が国のため」構造的な無責任・”国家教”・・・天の声で決める
大事故を起こした東電が罰せられない不思議 大庭健著「民を殺す国・日本」を読む 8 / 31
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、あれほど多くの住民に大きな危害を加えているにもかかわらず、東電も政府の旧原子力安全・保安院も経済産業省も、そして原子力委員会も、検査に当たった専門家たちもなんら罰せられていないのはなぜなのか。
そこで著者は100年以上も前に起こった足尾鉱毒事件にまで遡って、倫理学者としての立場から、さまざまな資料に基づいて検討していく。
そして著者が見出したのは明治時代以来のわが国の「構造的な無責任」の体制である。
「わが国のため」という論理からすべてを見ていく。それは戦前の殖産興業政策から戦時中の国家総動員体制、そして戦後の復興と経済成長政策にまで一貫している。それを著者は「国家教」ととらえる。
そこでこの国家教はどのように存続してきたのかを詳しく検討するとともに、「責任とは何か」という基本問題について哲学的に検討している。
東電という会社は多くの人に危害を加えたにもかかわらず、なんら罰せられていないのはなぜなのかについても、著者は国家教による無責任体制のためだとする。しかし人に危害を加えれば、日本ではもちろん刑法によって罰せられるはずである。にもかかわらず東電が罰せられていないのは、「法人としての会社には犯罪能力がない」という刑法学説によっているからではないか。
それは倫理学の問題である以前に、法人とは何か、ということにかかわる問題である。
これまで東電の責任については多くの人が論じてきたが、いまだに無責任がまかりとおっているのは、単に「国のため」という国家教に基づくだけではない。もっと別の見地から検討していくことが必要なのである。
著者
大庭 健(おおば・たけし)
専修大学文学部教授。1946年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。倫理学、分析哲学を専攻。著書に『いのちの倫理』『いま働くということ』『私という迷宮』『所有のエチカ』『なぜ悪いことをしてはいけないのか』など。
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