ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ウズベキスタン3日目 サマルカンド観光

2010-04-26 01:00:07 | Weblog
この日は一人。
やはりもう一度、アフラシャブの丘へ行くことにした。
レギスタン広場の横を通ると、朝の掃き掃除をしていた。


アフラシャブの丘へは、前日とは違うルートで入ることにした。
シヤブ・バザールを出てすぐ見えるハズラティ・ヒズル・モスクの横から入る。


現地の人が、城壁にお墓を作っているのだけど、
それを横目に見ながら、ひたすら歩く、歩く、歩く。

そして、いかにも城壁っぽいところを見つけた。
アフラシャブの丘の西側で、
たぶんタシケント通りだと思うのだけど、アフラシャブ博物館へ行くほうではなくて、
空港やバスターミナルに行くほうの道をはさんだ西側。


この裏側へまわると、いかにも城壁っぽいものがある。
 

日陰に座って、しばらくボーッとした。

城壁の下に広がるモンゴル軍を見たとき、サマルカンドの人たちはどんな気持ちがしただろう。
モンゴルはサマルカンドの街を見たとき、どう思っただろう。

チンギス・ハンは、モンゴルの法律「ヤサ」を守りさえすれば、誰でもモンゴルの一員だ。
宗教も言語も人種も関係ない、と言った。

チンギス・ハンは、いきなりホラズムに戦争を仕掛けたのではない。
通商をしたくて送った一行を、ホラズム側が殺してしまったので、
チンギス・ハンは激怒し、報復に出たのだ。

友好的に通商が開かれたとしても、いずれは戦争をしたかもしれない。
でも、「ヤサ」を守ればモンゴルの一員と言わしめたのは、
チンギス・ハンが、高度な文明に魅せられていたからだと思う。

当時、モンゴルよりもはるかに進んだ文化、技術、社会組織をもったサマルカンド。
チンギス・ハンは、職人を非常に大切にしたという。
サマルカンドを徹底的に破戒したけれど、職人だけは生かしたのは、
彼らが生きていさえすれば、高度な技術を失うことはない。
ぜひ自分のもとへ集まってほしいと、本気で望んでいたのかもしれない。

本当はサマルカンドも破戒したくはなかったかもしれない。
美しいまま、手に入れたかったのではないか。
降伏してほしいと心からいちばん望んだのは、チンギス・ハンその人だったかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。

その後もてくてく丘の上を歩き回った。
何か焼き物の破片が見えた。


その後、熱が体中にたまってしまったので、
お土産物屋さんをひやかしながら、ホテルに帰ることにした。
今日は一人なので、お昼ご飯で冒険ができない。
素直に『地球の歩き方』の指南どおり、
レギスタン広場の対面にあるラビ・ゴールというレストランで、ラグマンを注文した。
非常においしい麺だった。
だけど、スプーンしかついてこなかった。せめてフォークだろう。
あと、ナンは4分の1でいいよ。と、言えなかったのが残念。


ホテルで約2時間ほどクールダウンしてから、
近くのホテルまで、インターネットを求めて散歩することにした。
『地球の歩き方』には、無線LANがある、ビジネスセンターがある、と
書かれているホテルでも、なんと使えない!

AirMacは来ているのに、レセプションの女性がたぶん無線LANのことを、まったくわからない。
パスワードを発行してくれればいいんだけど、お金を払ったら使えるの?
と、聞いても、無線LANはない、という答えが返って来た。
2つホテルを回って、両方とも同じ答えだったから、本格的にあきらめた。

帰り道、ティムール像の裏側で、「2010」というかたちに花を植えている人たちを見た。
もう2010年になってから4ヶ月よ、と突っ込みたい気分だけど、きっと花が咲くのを待ってたんだよな。


そして、はじめて変なおじさんに遭遇。
日本製のボールペンを、ほとんど価値がないウズベキスタンのコインと
交換させられるハメに陥った。
まとわりついてくるのを、なんとか振り切ってホテルに戻った。
旅は、こういうこともなきゃね。
それにしても、日本のボールペンはどこへ行っても人気者だ。

この日一日でかなり日焼けして、身体がつかれているから、
夕方4時から約2時間、ホテルの中庭で、このブログの下書きをした。
食べ物も脂っこい物はたぶんダメなので、
持って来たカロリーメイトのメープル味を食べる。

なんだかすごく、ケミカルな味に思えた。
日本で食べたのなら、かなりおいしい部類に入る味だと思うのだけど、
サマルカンドという土地のせいかな、
昼になめたのど飴も同じようにケミカルに感じた。

頑張って起きていて、ホテルの中庭から夜空を見上げてみようと思うのだけど、
電気がすべて消されるころには、もう熟睡している。

ウズベキスタン2日目ー午後 サマルカンド観光

2010-04-26 00:27:06 | Weblog
ガイドさんが敬虔なイスラム教徒だったので、午後の1番目は、
金曜日の礼拝があるモスクへ連れていってもらった。
いまのモスクを見たかったし、ガイドさんは金曜日の礼拝に行けるし、一石二鳥。
たくさんの人が来ていた。なぜかお土産物にキューピーちゃんらしきものを発見。
宗教関連でなくてもいいのだなあ。
 

とはいえ、礼拝の時間は、女性は外で待っていなければならないので、ガイドさんとは別行動。
1人で敷地内をぶらぶらしていたら、おばあさんのコーランを読む声に惹かれた。


1時のお祈りが始まり、コーランを読む声がスピーカーから聞こえて来たら、
ついつい気になって、遠巻きに礼拝している男性たちを眺めに行った。
絨毯をかついで、急いで礼拝にかけつける人もいた。
礼拝が終わったらすごく大勢の人が出て来て、こんなにたくさんの人が入っていたのかとビックリした。
 

次に、シャーヒズィンダ廟群へ。
ティムールゆかりの人たちのお墓が並んでいる。
お妃様のお墓もあった。
女性的なやさしく美しい内装で、とても素敵だった。
 

青いタイルと、赤い服を着た女性。本当に美しい。
それにしても、なぜウズベキスタンの女性は、
3人くらい子どもを産むと、ものすごく太ってしまうのだろう。もったいない。


とはいえ、ここには、モンゴルにも破戒されずに残っている廟もある。
ようやく、むかしの人が見たのかもしれない同じ光景を見ることができて、
なんだか嬉しかった。

その後、シルク絨毯の工場へ。
2人掛かりで、半年もかかる手織り物だった。
ここは、小泉元首相も訪れたことがある工場で、写真が飾ってあった。
そういえば、首相在任中、最後のほうに中央アジア歴訪していたことを思い出した。


次は、サマルカンドペーパーを復興している紙すき工場。


ここでは、青年海外協力隊で赴任している日本人女性と会い、サマルカンドペーパーの説明をしてもらった。
ソ連の時代に、一度ほろんでしまったそうで、昔の製法はまだ完全には復元できていないらしい。
昔のサマルカンドペーパーの本の紙を透かしてみると、微妙にいまのものとは違う。
すごく興味をそられた。

この日本女性には、その後、木彫りのお土産を買うのにもつき合ってもらった。
通訳までしてもらい、おかげでいいものを適正な価格で買うことができた。

そして、ずうずうしいついでで、木彫りの先生の教室にもお邪魔。
ふつうの観光旅行では、なかなか入り込めないサマルカンドの生活を覗かせてもらって、本当に感謝。

と、盛りだくさんな一日が終了。

ウズベキスタン2日目ー午前 サマルカンド観光

2010-04-25 23:41:41 | Weblog
前の日に駅まで迎えに来てくれていた日本語のできるガイドさんに、
1日案内をお願いすることにした。
暑くなる前に、アフラシャブの丘に行きたかったので、7時出発。

ホテルで軽く朝食をとり、サマルカンドの普通の朝食に連れて行ってもらった。
牛のひき肉の串焼きシャシリクを食べた。
中に羊の脂がぎゅっと入っていて、朝から食べるには少し脂っこいけど、スタミナはつく。


その後、地元の人が住む町並みをぶらぶら歩く。
ナンを自転車で運んでいた。


朝のシヤブ・バザールをぐるっと見る。相変わらず、おばちゃんたちは元気だ。


水を買い、アフラシャブの丘へ。
むかしモンゴルが破戒するまで、サマルカンドはアフラシャブの丘にあった。
玄奘三蔵が天竺への旅で通ったのも、アフラシャブにあったサマルカンド。
モンゴルが投石機を使って攻め込み、徹底的に破戒したうえ、
住民の4分の3を殺し、残りの住民は奴隷として売り払ってしまったと言われている。

今回の旅行の目的は、このアフラシャブの丘を歩くこと。
まず、アフラシャブ博物館で有名なソグド人の壁画を見る。


発掘された土器などを見ても、シルクロード全盛のころの
サマルカンドの繁栄ぶりがわかる。土器はどれも薄くて精巧だ。


サマルカンドの歴史は長い。ゾロアスター教の遺構も見つかっている。
真ん中の穴で炎を燃やしたらしい。


その後、アフラシャブの丘を歩く。
いまは春なので、草が美しい。
夏になると暑くて乾燥し、草花は枯れてしまうらしい。
不思議な起伏があり、きっと誰かの家の屋根の上を歩いているのだろうと思った。
いま、城壁には、地元の人のお墓が並んでいたり、丘の上では牛や羊を放牧していたりする。


牛に連れられ、ふもとにおりる。左側はずっと城壁。
旧サマルカンドでは、この川の水が、とても上手に城内に取り入れられていたらしい。
 

次に、ダニエル廟へ。
とてもとても長い柩のようなものがあった。
ダニエルさんの骨は、まだまだ伸びているらしい。
近くのわき水は、聖水らしいのだけど、飲んだら美味しかった。

新しい幹線道路をひたすら歩いて、車に戻り、昼食を食べに移動。
ピラフを食べた。
牛肉と、ゆでたような黄色いタマネギが、お米の上に乗っていた。
お米は、パサパサしている。油が少しきついけど、味付けはあっさりしていた。
 

サラダとヨーグルトのような飲み物を飲む。
サマルカンドの人は、朝、生野菜のサラダは食べないらしい。
生野菜のサラダはもっぱら昼と夜に食べるとのこと。
きっとここの気候では、そのほうが身体にあうのだろう。

熱いお茶が一番おいしく感じたのは、やはりアフラシャブの丘の散策で、
体内の水分が蒸発していたからだろうか。

ウズベキスタン1日目 サマルカンド観光

2010-04-25 23:16:53 | Weblog
4月22日お昼の12時、サマルカンド駅に到着。
駅に着くとすぐに、「サマルカンドのナンだよ~」とナン売りが乗り込んできた。
ホームに降りてもナン売りがいる。
あたり一面、香ばしい匂いが漂っていた。


駅舎には、日本語のできるガイドさんが来てくれていた。
DAEWOOの車でホテルへ。
DAEWOOは、韓国の大宇との合弁で始まり、いまはウズベキスタン法人になっている。

チェックインして、インターネットを使えるか聞いたら、
ホストのコンピューターがダウン中で、修理に出てるから無理だと言われた。
こういうときは、諦めるしかない。

荷物をおいて、さっそく街をぶらぶら歩くことにした。
まずティムール一族が眠るグリ・アミール廟へ。
モンゴルが徹底的に破戒したサマルカンドを再興したのはティムール。
多くの人が訪れていた。


チケット売り場でお金を払い、入り口でチケットを見せたら、
これは写真を撮るためのチケットだから、入場チケットを買うように、と言われた。
引き返して、チケット売り場の人に入場チケットが欲しいと言うと、
「あれ? グループじゃなかったんだ」と言われた。
私の前には、地元の人たちしかいなかったのに、
どうしてグループと勘違いされたのだろう。

廟の中に入ると、お墓の前で、お祈りをしているおばさんたちに取り囲まれた。
どうやらロシア語なら通じると思っているらしく、しきりに話しかけて来る。
いちおうロシア語で「日本人です」と答えたら、
ますます言葉が通じると勘違いされてしまって、ものすごい勢いで話しかけられた。
最終的には、彼女たちはブハラから来ている一行だ、ということだけわかった。

次に、ルハバッド廟へ。
扉の木彫り細工がとても美しかった。
ここには霊が住んでいるらしいんだけど、残念ながら交信できず。


そのまま街を歩いて、レギスタン広場へ。
街の中心で、サマルカンドというと写真が載っているところ。
地元の人も観光客もたくさんの人が来ていた。


主だった建物は、修復されてきれいになっているし、
裏の方も修復が進められている。

前を歩くおばさんたちが、両手にナンを持っている。
歩いてシヤブ・バザールまで行き、ナンを買うことにした。


バザールでは、美味しそうな野菜や香辛料、お菓子、乳製品、
もちろんナン、ソーセージなどが売られていた。
売り場の人に、いろいろと声をかけられるけど、
あまり無理強いされることはない。
「サフラン、サフラン」と、妙にサフランをすすめられたけど、
断りやすい雰囲気で、気楽にぶらぶらできた。


なぜか白人さんたちは香辛料に興味津々で、
しきりに写真を撮っていた。

一番内気そうなおばさんのお店でナンを買い、ホテルに戻った。
サマルカンドのレストランは、表に値段が出ていないので入りづらい。
文字もキリル文字がほとんどで、ほとんど読めないし、読めても意味がわからない。
ロシア語で簡単な会話でもできれば違うのだろうけど、
土地勘も相場もわからないなかで、いきなり飛び込む自信はやはりなかった。

帰り道で、ぎゅうぎゅうのバスに無理に乗り込もうとしている場面に遭遇。
まるで日本の通勤電車のよう。それにナン売りの少年も、色をそえる。
なんだかとても面白くて写真を撮っていたら、誰かが私に気がついて、
みんなが一斉にこちらを振り向いた。
きっと、「あら~、写真撮られているわ。はずかしいわよ」とかなんとか、言ったのだろう。
最後に粘っていた人たちが、笑いながら身を引いた。


基本的に、みんなフレンドリーだし、とても安全な街だと思う。

ウズベキスタン1日目 タシケントからサマルカンドへ

2010-04-25 23:01:28 | Weblog
いまウズベキスタンのブハラというところにいる。
やっとホテルでネットが使える。
サマルカンドのホテルではネットが繋がらなかった。
こういうときは諦めが肝心なので、改めてブログアップ。
とはいえ、ここも通信がポツポツ切れる。

4月21日夜成田→関空→22日朝タシケント空港着。

成田→関空のあいだ、ウズベキスタン航空の客室乗務員は
すごくゆるい感じの勤務だったんだけど、
関空でいったん降ろされて機内に戻ってみると、
雰囲気が一変して仕事モードになっていた。
過剰サービスもなくて快適。よく眠れた。

ウズベク時間の3時過ぎにタシケント空港着。日本との時差は4時間。
現地のガイドさんと出会って、時間をつぶしつつタシケント駅へ。
ガイドさんに中国を旅したことがあると行ったら、「ウルムチ?」と聞かれた。
やはり「ウルムチ」は距離が近いのだろうか。いろいろな意味で。

タシケント駅の朝焼け。


タシケント駅の待合室に座っていて気がついたのは、
たくさん人がいるのに、新聞などの紙ものを読んでいる人がいない。
電話をしているか、誰かと話しているか、ボーッとしている。
これが中国なら、新聞や雑誌、食べ物のかす、向日葵のタネの殻などが
めいっぱい散乱しているのだけど、それもない。
すごくすごく清潔。
ただ、その後、向日葵のタネが散乱しているところを
サマルカンドで見たので、単に朝早かったからだという気がしてきた。

私のことをめずらしそうにじーっと見る人や、
ロシア語で「日本人?」と聞いて来る人もいるけど、
全般として礼儀正しくて奥ゆかしい感じ。

8時過ぎの列車でサマルカンドへ移動。


タシケント→サマルカンドの列車は、グリーン席だった。
まわりはみんなウズベキスタン人。
隣に座ったおばさんは、孫と遊ぶ→クロスワードパズル→食べる→寝る(いびき)
をずっと繰り返していた。

私はガイドさんに勧められるままに窓際の席に座ったのだけど、
どうやら、そのおばさんが窓際、私が通路側だったようだ。
旅行者だとわかったからか、そのまま譲ってくれた。

ウズベキスタンの第一印象は、すごく歩きやすいところだということ。

やはり中国語から始まる

2010-04-21 17:27:57 | Weblog
久しぶりに新宿から成田エクスプレスに乗った。
すっかりリラックスしていたら、東京駅で女性が乗って来た。

私の座席と同じチケットを持っていた。
困った顔をしている。
私が自分のチケットを見せると「あれ?」という顔。

「日本人ですか?」と英語でたずねたら、「中国人です」と英語で返ってきた。
ならば、中国語で話すべし。
「それなら、私が車掌さんに聞きに行くから、あなたはここで座って待ってて。
荷物を見ててね」とお願いして、車掌さんを探しに行った。

途中で車内販売の方に会ったので、事情を説明し、
車掌さんを呼んでもらうことにして、先に座席まで戻った。

座席まで戻ると、
彼女が、「ごめんなさい。チケットの日付が違いました。
空港まで人を迎えに行くんだけど」と言う。

私が「今日じゃないなら、戻るの? というか、その人は今日来るの?」と聞くと、
彼女は、「今日到着なので大丈夫」と言う。

ということで、車掌さんに、チケットを今日の分に変更してもらい一件落着した。

成田空港で先に降りる時、彼女が「ありがとう。じゃあね」と手を振って行ってくれた。
こういうとき、中国の人はちゃんと挨拶をしてくれる。

今回の旅行は中国じゃないんだけど、最初に使った外国語はやはり中国語だった。
どこまでいっても中国なのかな。

ウズベキスタンは、韓国の人が多いと聞くから、
韓国語で話しかけられるんじゃないかと思っているんだけど、
このぶんだと、やはり中国語で話しかけられそうだ。

それにしても、たくさんある座席の中で、どうして私の席だったのか。
縁、なんだろうなあ。

四月の雪

2010-04-21 02:17:59 | Weblog
先日、東京で四月に雪が降ってからずっと、
王菲(フェイ・ウォン)の「四月雪」という歌の歌詞を考えている。

四月に突然雪が降り、信仰とは、と考え始める、という歌詞で始まるこの歌は、
ある時期、私の心情をリードしてくれた。

特に、王菲の歌声が美しく響く、
この世が絶望に包まれ始めると、神様は高らかに歌い始める。
私たちには、悲しみを語るどんな資格があるだろう。
というくだりは、
私という存在がもつ自己肥大の欲求を、ふと冷ましてくれる。

王菲という人は「我信佛」イコール「仏教を信奉しています」と公言するだけあって、
歌詞に思想が詰め込まれている。

日常の延長ではないことが起こったとき、私は信仰を求める。
信仰とは何かを考える。

そして、いままでは気づかなかっただけで、
私の生活は信仰に支配されていたのだと気づく。
それは、両親からのプレッシャーであったり、友だちの生き方であったりする。

気づかぬうちに捕われている信仰に近い自己抑圧。
これを見極めることが、ときに必要になる。

久しぶりの高揚感

2010-04-20 18:11:13 | Weblog
久しぶりにドキドキしてきた。
明日からウズベキスタンへ行く。

旅行会社から日程表が来たけれども、
やはりサマルカンドとブハラのホテル名がわからず。
きっと明日空港で教えてもらうのだ、と思っている。

まあ、たとえホテルがどこかわからなくても、
空港でも、国内を移動する列車の駅でも、
現地の旅行会社の人が、送り迎えだけはしてくれるというのだから、
きっと何とかなるだろう。
迎えの人と会えなかったら会えなかったで、何とかなる。
言語は、ウズベク語とロシア語で、私は両方ともサッパリわからないけど、
それでもきっと、旅行くらいならできる。

この3年ほど、海外を含め、いろいろなところに行ったけれど、
すべて仕事がらみで、自由な時間がなかった。
特に、仕事では、旅行の手配やスケジュール調整をしていたので、
自分のことよりも他人の都合を基準に考えることばかりだった。
正直言って、比較的日程がゆるい旅行でも苦痛で仕方がなかった。

私は、とてもずぼらな旅をする。
小さなトラブルがあってもしょうがない。
命さえ残ればいいと思っている。

でも、仕事では、私よりもっと神経質な人、というか、
日本人として普通の感覚をもった人たちと一緒に旅行し、
その人たちのニーズになるべく応えるような手配をしなければならない。
そして、このニーズというやつは、
私から見ると「王侯貴族みたいな旅をしたいというのか! 無理だろう外国では!」
と言いたくなるような要求だった。
このギャップを埋めるのはむずかしい。とても。

ということで、最悪、駅で泊まってもしょうがないな、というような旅は、
かれこれ10年ぶりに近い。
総日数は短いけど、楽しみたいと思う。

プレゼン

2010-04-19 20:49:13 | Weblog
今日は、映像と音響の勉強会に行った。
参加するのは何回目だろうか。
参加している人のなかにも顔見知りが増え、
気軽に立ち話ができるようになって、
ずいぶん馴染んでいる自分を再確認して少し可笑しかった。

毎回、発表をする常連さんもいれば、
新規参入を考えている会社のプレゼンもある。
当然ながら、話が上手な人も、そうでない人もいる。

丸一日、いろんな人のプレゼンを聞いて、
眠くなって意識が飛んだのは2回だった。
聞いていなきゃ、と思ったけど、
あまりにも語り口調に抑揚がなくて、飽きてしまったのが1回。
まったく興味がない話のうえに、だからどうなのか、
というオチになかなかたどりつかなくて、
結局オチたのかどうかもわからないくらい眠ってしまったのが1回。

今回に限って言えば、私が集中力をキープするためには、
口調のテンポがいいこと、
話はコンパクトにまとめて、それを積み重ねるような展開にしてくれること、
この2つが鍵だったようだ。

つまりは、「シナリオ」なのだと思う。
カリスマ性のある人なんて、本当に少ない。
だから、普通の人がプレゼンするなら、やはり「シナリオ」は大切だと思う。
この「シナリオ」は、プレゼンのときだけのものではなくて、
その人の生き様に通じる。
だから、プレゼンに向く人もいれば、向かない人もいる。

そして、プレゼンに向く人が、ふだん営業成績がいいとは限らないし、
逆に、プレゼンに向かない人でも、営業成績がいい人はいる。
日本の近視の人と、アフリカの遠視の人を、
たったひとつのものさしで測ることができないのと同じだ。

この先、もし私がプレゼンをする機会があったら、
「これを言いに来たんだな」と、
なにかひとつ印象に残るような話し方をしたいと思う。

楽しい会話

2010-04-18 20:01:45 | Weblog
昨日、最近のウズベキスタンについての本を読んだすぐあとに、
中国語学習の仲間と、恩師である中国人の先生に会った。

さすがに彼らは「サマルカンド」と言うと、
「おっ! シルクロードだね!」と、ピンと来る話につながったし、
ロシアというか、旧ソ連領を放浪した経験のある人も来ていたので、
いろいろと情報収集をさせてもらった。

私がもっとも尊敬している中国人の恩師に、
本から仕入れたいまのウズベキスタンの知識をもとに、
中国の少数民族の地域の話をした。

こういう話を、本音でぶつけられるから、この先生はすごいんだ。
もちろん、本音で回答してくれる。

先生は、ウイグルはわからないけど、チベットに関しては、
いま独立しても経済的に厳しくなるだけだ、と、独立に反対の意見だった。
その直後の日本人の微妙な反応とのギャップがまた面白かったのだけど、
私は単刀直入に、こう言った。

ウズベクの本を読んで一番強く思ったのは、
ウズベキスタンがソ連の一員だったとき、
もちろん公用語はロシア語だったし、宗教も否定されることが多かった。
それに、ロシア語学校の方がウズベク語の学校よりもレベルが高く、
ロシアの大学に行ってこそ、出世できた。
経済的にも精神的にもロシアに依存していただろうし、
だからいま、独立すべきではなかったと言う意見もある。

でも、ソ連は、ロシア人を大量に移住させて、
大都市の人口比を現地人とロシア人で逆転させるような、
そういった植民政策は進めなかったのではないだろうかと思う。
だからこそ、ウズベク人の特に知識階級にとっては、
自分たちの土地をより住みやすいところにする方法が、
ソ連の一員という立場だと思えたのではないだろうか。
ロシア人の、あまり教育程度の高くない人がたくさん自分の土地に押し寄せて来て、
それで我が物顔に振る舞われたら、もっと感情的に違ったのではないかな。
もちろん宗教政策などで、農村部と都市部の受け取り方の違いはあるだろうけど。
と、言った。

その後、会話の方向は、
池袋の中華街に、現地の日本人が反対している、という話に発展して行った。

先生は、深く考えてくれているようだった。
あの先生は、決してイデオロギーや愛国心で、私の意見を否定はしない。
でもきっと、次に会う時までに、一歩も二歩も進めた意見を返してくれるだろう。

中国の人のうち、
文革前に大学に入ったような、文革時に勉強ができなかった人のなかには、
本当の知識人として、尊敬できる人がたくさんいる。
正直に言って、いま中国へ行ってもなかなかお目にかかれないような人だ。

そう思って振り返ると、私が尊敬している先生は、中国人ばかりだ。
日本の公立学校の先生は、変なイデオロギーばかりが強くて、
正直言って尊敬できたことはなかった。
不思議なものだ。