代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

コロナ禍で証明された女性指導者の危機管理能力

2020年04月19日 | 政治経済(国際)
 先ほど、たけし出演のニュース番組であるTBSの「新情報7DAYS Nキャスター」を視聴していた(2020年4月18日放送)。番組の中で、コロナ対策で高い評価を得ている各国指導者の紹介をしていた。ドイツのメルケル首相、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、アイスランドのヤコブスドッティル首相、ノルウェーのソールバルグ首相・・・・。
 迅速な対応、積極的な検査、自由の制限に対するちゃんとした補償・・・・これら成功している国々の指導者の共通点を挙げると、なんと、いずれも女性の指導者。じつに興味深かった。台湾やアイスランドやニュージーランドは完璧に抑え込んでいる。

 こういう非常時の危機管理能力は女性指導者の方が高いようだ。女性の国会議員の比率が193カ国中165位という日本がいかに時代遅れかわかる。とりわけ好戦的な性格の右派の男性指導者ほど、こういう非常時に全く役に立たないことが証明されたように思える。

 私のゼミでも、気候変動対策をしっかりやっている国々はいずれも女性の政治指導者が多いということに注目し、卒論を書いている学生がいる。今回のコロナ禍でも同じことが言えるようだ。
 やはり女性指導者は増えれば、今よりは戦争も減っていくし、環境も守る方向に進むし、人命も軽んじられない方向にシフトするだろう。
 排外主義を煽ってヘイト発言を繰り返すばかりの右翼指導者は、地球の政治から退散してもらうのが良いのだ。(もちろん、女であっても、男の価値観に迎合するだけの日本会議の女性政治家など、指導者になったとしても右に同じなのは言うまでもない)
 
 手前ミソで恐縮であるが、今度出す予定の日本開国期を扱った歴史の本『日本を開国した男・松平忠固(仮)』(作品社)では、図らずも調べていくと江戸時代の日本で、いかに大奥の女性の政治力が強かったを実証する結果になった。「徳川の平和」に対する、明治以降の好戦的軍国主義、日本の何が変わったのかといえば、江戸時代に比べ明治以降は、女性の政治力が全く消えてしまった点なのだ。

 通説では、主人公の松平忠固は、誰からも評価されない嫌われ者だったとされているのであるが、じつは調べていくと大奥の女性たちは皆忠固を評価していた。好戦的な男たちからきわめて評判の悪かった松平忠固の権力を支えていたのは、江戸城の女性権力、すなわち大奥だったのだ。本の宣伝もかねて少し内容を紹介させていただく。

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 日本の安政年間の政局において、勝算もないのに勇ましく攘夷熱を煽る徳川斉昭に迎合する「男性性」グループに対し、大奥は松平忠固を支えて抵抗し、斉昭一派の暴走を抑えていた。大奥や将軍・家定や忠固は「女性性」グループに属し、男性性グループの好戦主義に対抗していたのだ。
 松平忠固と徳川斉昭の闘いの記録から汲み取るべき重要な教訓は、女性の政治力の重要性であろう。忠固の背後にあって、その権力をバックアップしていたのは、江戸城の女権、すなわち大奥であった。ときに合理的な思考を失って暴走しがちな男たちに対して、ブレーキをかけることができるのが女性たちである。
 江戸時代の女権は強大であったが、明治になると、女性たちは政治的意志決定の場から徹底的に排除された。明治維新は男権主義革命という側面も持つ。明治維新以降、一九四五年の敗戦にいたるまで、日本の女性たちは男たちに従属するように強制され、政治的領域への参加の道を完全に閉ざされてしまったのである。明治は江戸に比べ、この点において後退しているのだ。
 明治時代、女性権力が消えたがゆえに、非戦論はたえず敗北する運命にあった。「近代」日本の政・官・軍・財の中枢には「ミニ斉昭」が跋扈するようになったが、ストッパーとなるべき女性権力は消え去っていた。かくて、明治から昭和にかけて好戦主義の暴走が止まらなくなった。


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4 コメント

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大奥フェミニズム (renqing)
2020-04-19 16:56:18
関さん
 胸のすくご指摘、感銘致しました。
 「大奥の政治力」。この事実そのものについては、これまでのアカデミックな日本近世史学でも触れられる機会は何度となくありました。ただし、改革の反動勢力、あるいは政変に纏わるセックス・スキャンダルとして。高校日本史で耳タコなのは、田沼意次が大奥と結託したとか、「大奥」は、寛政/天保の「改革」の倹約令に反対して、志半ばで改革を頓挫させた、とかです。これは明らかに、男性歴史学者にも潜在する「女・子どもは黙ってろ!」というドス黒い情念のなせる業しょう。
 もし学問が、Max Weber尊師の宣う如く、「ought to be」ではなく「to be」を解明すべき(これも ought to be?)ものであるあるならば、「大奥権力の機序 mechanism」分析に取り組むはずです。仮にそれが出来ていれば、Weber尊師の著名な権力の三類型(伝統的/カリスマ的/合法的)の他に、独創的なカテゴリーを追加できたでしょうに。
 しかし、伝統史学ではそうはなりませんでした。「色恋沙汰」絡みの「大奥」を聖人君子は迂回することになっていますし、それで正しいのです。実に下らない。
 関さんの試みは、伝統史学の untouchable を白日の下にさらす真の意味でのアカデミックな史学だと思います。
 ただし、歴史上の「女性の権力」分析と「女性の権利」分析とは別です。この列島史の前近代における女性のあり方は、西欧/中華帝国とはかなり違うことは注意すべきです。日本ではおそらく身分の上下を問わず、既婚女性に固有の「財産権property」があり、夫に「貸す」ことが普通ににあったからです。この辺りの事情は、上記URLの弊ブログのカテゴリー「フェミニズム・ジェンダー」記事をご笑覧頂ければ幸甚です。
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環境・女性・こども (ワタン)
2020-04-19 17:00:57
 関先生の御説になるほどとおもひました。
 小生も、21世紀は<環境・女性・こども>をテーマとして活かせなければ、地球は持たないやうな気がします。

 徳川婚家を第一と考へた島津斉彬養女の天璋院は、野蛮な薩摩の、インテリジェンス出身の西郷を信じきれなかつたのではないかとおもはれます。薩摩は<男尊女卑>のメッカでした。いまの鹿児島県の気風が、どこまでこの悪習を脱却できてゐるか、発展か衰退か、開明進歩か専制封建のままか、この点にも掛つてゐるのではないかと。

 平塚らいてうといふ明治期の有名な女性がゐます。彼女に関心があつた訳ではありませんが、大竹晋氏の『「悟り体験」を読む』に目をとほしてゐて、彼女は大学卒業直後、満二十歳で、佛教でいふ<解脱>を経験したことを知りました。物凄い集中力があつた人なのですね。
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一橋派史観からの脱却 ()
2020-04-19 19:10:18
renqingさま、ワタンさま

 じつに鋭いコメントありがとうございました。

>伝統史学ではそうはなりませんでした。「色恋沙汰」絡みの「大奥」を聖人君子は迂回することになっていますし、それで正しいのです。実に下らない。

 この原因ですが、そもそも学者の世界が男ばかりであることによって生じてきたジェンダー・バイアスによるのかもしれませんね。

>島津斉彬養女の天璋院は、野蛮な薩摩の、インテリジェンス出身の西郷を信じきれなかつたのではないかとおもはれます

 今度の本はで、篤姫が松平忠固を信頼していた様子がうかがえる史料も示してあります。一橋派から送りこまれたはずの篤姫ですが、大奥に入ると早々に「脱=薩摩」して、朱に染まってしまったように思われます。
 今度の本では、脱=一橋派史観を訴えています。一橋派を正義の改革派であるかのように評価してきた従来の歴史学が、根本的に間違っているのだと。徳川慶喜vs西郷隆盛の戦いなども、一橋派の内ゲバのように思えます。どっちもダメでしょう・・・と。
 一橋派と闘い続けた大奥こそが合理的な判断をしていたのだと。
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大奥フェミニズム2 (renqing)
2020-04-19 22:03:48
関さん、どうも
ワタンさん、はじめまして

 徳川家の大奥が政治的力を持っていた理由ですが、篤姫の輿入れの経過を見ると一つ判明することがあります。
 篤姫は薩摩島津家の分家の娘です。薩摩では高貴な身分ですが、徳川家からすれば陪臣です。従いまして、篤姫が徳川将軍の正室となるために、島津当主家の養女となりました。ではその身分で将軍に輿入れしたのかというとそうではなく、ここからさらに右大臣近衛忠熈(ただひろ)の養女となります。この面倒な迂回は将軍継嗣問題と関連づけれていますが、話はもっと単純です。
 徳川将軍は全部で15代います。その正室を見直しますと、
①皇室・五摂家からの正室 12名/15代
②そのうち天皇の娘(皇女)を正室としたケース 2名/12名
 つまり、この綿々と続く婚姻関係のため、徳川家は武家最高位の家格を有し、実質的に五摂家と同格以上とみなされるに至っていました。すると、たとえ有力外様の島津家でも、徳川家の家来に過ぎないわけで、一方で将軍家が自分の家来から正室を輿入れさせる訳にはいきません。従いまして、島津家とも縁戚関係があり、五摂家のひとつでもあり、斉彬と政治的盟友でもある右大臣近衛忠熈の養女とすることで、将軍家と正室の家格がバランスと取れて、これで初めて対等な(合法的な)婚姻となったわけです。
 上記の経緯からこう言えます。家光以後、歴代の将軍は、公家や親王家の娘を夫人とし(「御台所」「御台様」)たので、それに従って江戸に下ってきたお付きの女中たちが大奥に入り、京都風の生活様式が持ち込まれ、独自の公儀大奥風が形成されます。そこで、乳幼児である、後の将軍(「大奥」)や後の大名(「奥」)が生まれ、育てられますから、「大奥」や「奥」は、後の将軍や大名への京都と禁裏への憧憬培養器ともなります。まあ、簡単に言うと、imprinting です。こうなると、将軍や大名は「奥」に簡単には逆らえないことになります。
 徳川末期の錯綜する政治事情の中で、禁裏(例えば孝明天皇)が将軍家と歩調を合わせたり、五摂家が公儀と政治的同調したりするのは、禁裏が公儀に剛腕で虐げられていたというより、将軍家と禁中が「大奥」を媒介として実は一体化していたという事実にも支えられていたと考えるべきでしょう。
 この領域は、桂や大久保・西郷といった中下級武士たちや岩倉のような中下位公家には入り込めない世界だったでしょうから、彼らが権力を握るや否や、野蛮な「旧弊」「遺制」として、江戸「大奥」を解体し、京都「朝廷」から「禁裏」を根こそぎして、「天皇」として「東京」へ簒奪したわけです。
 中華王朝の後宮、イスラムのハレム、徳川日本の大奥。こういったものは好事家のアイテムになりはすれ、歴史家の学術的な研究対象になりにくく、ましてや比較歴史社会学の研究にとりあげられることもまず稀です。西欧の学者が取り扱ってこなかったから、でしょうね。フェミニズム歴史学も男性を告発することに忙しく、むしろもっとpuritan的な側面もあるので、こういう「淫猥」な歴史事物を避けているようにも感じます。とらわれない、より自由な(価値自由)視点から、これまでの手垢のついた歴史事物を見直すこと、が21世紀の人類に求められていると思います。
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