代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

日本の近代貿易の父・松平忠固と中居屋重兵衛の謎

2014年12月06日 | 松平忠固
 薩長公英陰謀論者さんからまたまた興味深い投稿をいただきました。あまり知られていない人物ですが、実際には「日本の近代貿易の父」といって過言ではない人物が松平忠固と中居屋重兵衛です。この両名の失脚と「死去」、その後の政局に関して年表に整理して下さると共に、興味深い仮説を提示して下さいました。再掲いたします。水色が薩長公英さんの文章で、白地が私のリプライです。この両名の業績が正当に評価される日がくることを願ってやみません。


*****引用開始*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/9c918a4b09d5c7f2c104f210a45c6c88

☆ 関さん、西郷国民議会論仮説を取り上げていただき、丁寧なフォローをありがとうございました。 (薩長公営陰謀論者)2014-11-29 18:02:58

(前略)

 関さんが牽かれた横浜開港資料館の資料の筆者である西川武臣氏が同館副館長であることを、以前に買ってそのままおいてあった『講座 明治維新 第8巻 明治維新の経済過程』(明治維新史学会、有志舎、2013年)で知りました。

 関さんご紹介の資料と同書所収の西川氏論文「横浜開港と国際市場ー生糸貿易と売込商の軌跡ー」を見て強い印象を受けました。とくに、開港後の横浜からの生糸の輸出が一瞬をおいたあとただちに急伸し、その後浮沈を繰り返しながらも明治維新後の日本の「近代化」をささえる中心的な源泉でありつづけたのは、すでに開港当時において十分に成熟した生糸の生産・物流・金融・それに関連する事務管理と経営管理の広範なネットワークが存在したことを示している、ということに。

 無知で封建的なままガラパゴス化した未開の国に「倒幕維新」と「文明開化」によって近代文明がもたらされたというプロパガンダとしての「黒船神話」、そのほかに神話がもうひとつあったことを中居屋のたった二つ残された帳簿記録の話から思い出しました。「大福帳神話」です。

 例によって福沢諭吉が紹介した西欧式「複式簿記」によって原始的な「単式簿記大福帳」からの近代化がおこなわれたというのが「黒船神話」同様の<明治維新プロパガンダ>であるということを本格的に知ったのは、田中孝治先生という篤学の方のお仕事に偶然に触れる機会があったことによります。

 主として企業実務家向けの専門誌『産業経理』に発表されてきた田中孝治氏の論攷は、最近『江戸時代帳合法成立史の研究 ー和式会計のルーツを探求するー 』(森山書店、2014年)にまとめらました。

 江戸期に発達した会計が、財産報告と収支報告をリンクさせた完璧な複式簿記であり、江戸の店と松坂の本店を結ぶ「本支店会計」、さらに「監査制度」を持った、高度な会計システムであったことが、旧家の襖の内張をはがして解読するような努力を含めて、残された帳簿の地道な検討によって明らかにされています。

 このように江戸期の経済社会とともに高度に発達した会計の伝統は、中世における荘園会計をはるかにこえて、天平時代の公会計にさかのぼることができ、さらにその源流は海と砂漠をこえて敦煌、トルファンに至ることが持ち帰られていたわずかな出土文書の検討によって示されています。

 関さん、この田中孝治先生は、大学には該当の講座がないために地元の高校の教職に就き、研究活動が教育には無関係と白眼視される逆境のもとで頑張ってこられたようです(商業高校・普通高校から、今は特別な条件を持つ子供達の教育に従事させられておられるようです)。もし大学の図書館に前著がありましたら是非一度手に取ってご覧ください。専門的な研究は私には手に負えず、内容を理解して紹介することができませんので。

 じつはたった今、この大福帳神話劇が再演されつつあります。一般の注目を得てはおりませんが「地方公会計改革」というもので、従来の公会計を時代遅れの大福帳的単式簿記として蔑視攻撃して、そこに「複式簿記」を導入しようという、総務省と会計検査院を中心とした全国的な動きです。
 基本的な眼目としては「複式簿記による企業会計を地方自治体に導入することによって、自治体に「説明責任」を含めた企業経営的な運営管理を取り入れる」ということかと思います。

 当面の焦点は、これまでの自治体会計では固定資産の減価償却をおこなわないことを単式大福帳簿記によるおくれた非常識であると非難して、固定資産の管理の為の「固定資産台帳」を整備させるという動きになっています。

 これは、現在その全容がわからない各自治体の資産を全国的に一括管理できるようにして、資産の効率化と整理をすすめる、つまり、自治体資産の民間資本(外資を含む)への売却を促進しようという上からの動きであると睨みます。これが例のTPPに対応するものであろうと見るのは飛躍ではないように思います。いかがでしょうか。


****引用終わり*******

 中居屋の大番頭は、上田領内の丸子の医者の松田玄仲(中居屋重右衛門)という人物でした。重兵衛と玄仲の二人で中居屋をつくったのです。中居屋の『日下恵』という帳簿を付けていたのは松田玄仲だったそうです。その『日下恵』が、複式簿記だったのですね? 

 田中孝治先生の研究、浅学にして知りませんでした。「簿記・会計史」というのは、確かに大学で職を得るのは難しそうな分野ですね。世間の時流の迎合せず、純粋な知的探求心で真理を究明しているから、大発見ができたのだと思います。心から敬意を抱きます。流行を追いかけている学者に大きなブレークスルーは期待できません。
 時間ができたら、ぜひ拝読させていただきます。   

>自治体資産の民間資本(外資を含む)への売却を促進しようという上からの動きであると睨みます。これが例のTPPに対応するものであろうと見るのは飛躍ではないように思います。いかがでしょうか。

 非常に気になる動きを教えて下さってありがとういございました。TPPの日米並行協議でアメリカから圧力をかけられたのかも知れませんね。

***引用開始*********


 さて、西郷国民議会論と横浜開港/生糸輸出からは離れてしまいましたことをお詫びします。
 非常に恣意的なピックアップですが、最初に掲げました「幕末」年表に先立つ時期は:

 安政4年(1857年)09月13日 松平忠固老中再任。
 安政5年(1858年)06月19日 日米修好通商条約締結。 
 安政5年(1858年)06月23日 松平忠固老中更迭、隠居、蟄居。
 安政6年(1859年)07月01日 横浜開港。
 安政6年(1859年)09月14日 松平忠固死去。
 安政6年(1859年)12月上旬迄 中居屋に営業停止命令。
 万延元年(1860年)03月    桜田門外の変、安藤信正公武合体を追求。
 万延元年(1860年)夏      中居屋上田藩の生糸取扱権喪失。
 文久2年(1862年)06月    長州が長井雅楽罷免、攘夷派公家三条実美と結ぶ。
 文久3年(1863年)10月13日 朝廷が公儀に横浜鎖港を命じる。
 文久3年(1863年)11月08日 公儀による生糸輸出制限の触書。
                   攘夷派の浪士による問屋商人脅迫。
 文久3年(1863年)12月19日 老中板倉勝静が貿易制限を神奈川奉行に具体的に指示。
 元治元年(1864年)10月05日 諸外国の強い要求により公儀が貿易制限中止を公布。
 慶応2年(1866年)07月    徳川家茂死去。

 となります。本ウェブログ記事 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/f292bb0b43b1af4c453a1b83805d557a 「横浜開港と中居屋重兵衛と東宮遺跡と八ッ場ダム」2013年03月29日で関さんは次のように示唆されておられます:

 「中居屋は、安政6(1859)年11月に、幕府から営業停止命令を受け弾圧された。その前の同年9月に、日米修好通商条約締結にリーダーシップを発揮した老中かつ上田藩主の松平忠固が急死している。忠固の死には暗殺説もある。幕閣の有力者だった忠固の死と、その直後の中居屋弾圧は関係があるのかも知れない。日本の『国際貿易の父』といっても過言でない松平忠固と中居屋重兵衛であるが、二人とも相次いで失脚、そして不審死を迎えている。これらの真相は明らかにされねばならないと思う」

 ・・・と。

 ご教示いただいた西川武臣氏による資料と前掲論文を参照しながら思いますに:

仮説01 松平忠固は、国内で発達し成熟していた「市場経済」のダイナミズムを、開港貿易による国際的交流によってさらに発展させて、日本全体としての政治経済的な進化発展を促進するという考えを持った人々のなかでの公儀側の中核的指導者であった。それゆえに、ピグマリオン症候群に陥って自己の四囲を鏡でかこった「尊王攘夷」の親藩水戸派ならびに京都朝廷との根底的な対立を余儀なくされた。

仮説02 中居屋重兵衛は、ペリー来航直後から火薬の研究をしており、火薬製法の本を二冊刊行している。そのうちの一冊には、彼の出身地の領主であった旗本、榊原采女と西洋砲術の権威であった高島秋帆とが序文を寄せている。また中居屋重兵衛はオランダ語の教本の出版に対して、当時海防掛大目付、外国貿易取調掛大目付という公儀要職にあった旗本跡部甲斐守とともに援助をおこなっている。
 すなわち中居屋は当時の公儀中の開明層とのネットワークの中で、横浜開港直後に店を開いて国内の生糸産業の国際的展開をおこなっており、松平忠固の政策推進の中心的実行者であったと考えられる。

仮説03 中居屋は開港後の横浜で豪商三井と並ぶ存在であった。中居屋が1959年に営業停止を受ける1ヶ月前に三井横浜店の手代が手紙で中居屋に対する処分があろうことを述べている。松平忠固ー横浜中居屋という開明派ラインに対抗する線に、大名貸しを行っていた政商三井がいたと推定される。

仮説04 松平忠固の失脚と「死去」後、攘夷派の水戸と反徳川の薩摩(の浪士)による公儀大老襲撃殺害を曲がり角にして、公儀は主体的な軸を失い、何らの政策思想も政治理念も持たない朝廷の古代的権威に妥協して公武合体に向かう。それとともに、ピグマリオン朝廷に従って国内経済の国際的発展の抑圧に転じる。これは公儀内で発生した政治経済的反革命であると言える。

仮説05 長州において松平忠固と呼応する経済外交政策を提案していた長井雅楽が京都公家の謀略によって失脚し長州がその反徳川攘夷派の公家と結んだときに、政治的には「専制官僚制王政」、経済社会的には「西欧追従、国内破壊」という、上からの社会反革命の路線が露出した。
 これに対して、政治思想としての「国民議会論、公議政体論」と、下からの経済開放民主化運動すなわち一揆が対抗してゆくことになる。この文字どおり天命を革める革命的対抗路線を統一して指導する存在を欠くままに、徳川慶喜と長薩土佐を含めて、民衆を置き去りにしたところでの政治謀略とテロリズムと戦争という反革命的暴力に日本をゆだねてしまったことが歴史の不幸であり、それがそのまま現在に至っている。

 というところで息があがりました。これからの日本のために、松平忠固に関する上田資料がいつか(早く)めざめることを。


****引用終わり********

 仮説01は、仮説というより明白な史実といえるかも知れません。忠固がいかに水戸斉昭と公家を「無能」として嫌っていたかは、さまざまな史料から伺えます。

 仮説02も史料で裏付けられると思います。中居屋の日記『昇平日録』は、上田領内の松田玄仲の生家の土蔵から発見され、安政1年から横浜開港の安政6年4月までの記録が残っています。手元にある、萩原進『炎の生糸商 中居屋重兵衛』(有隣新書、1978年)という本に、その日記の内容が紹介されています。中居屋重兵衛が会っていた公儀側の役人は、外国奉行の岩瀬忠震、水野忠徳、永井尚志など。とくに岩瀬と仲がよかったようです。

 中居屋重兵衛が出入りしていた藩邸は、主なものは会津藩、紀州藩、上田藩です。
 日記からは、重兵衛が松平忠固と直接に会っていたことも伺えます。たとえば安政6年2月17日、中居屋重兵衛は江戸の上田藩上屋敷を訪れて失脚中の松平忠固に会い、その足で外国奉行の村垣範正と、やはり安政の大獄で失脚していた岩瀬忠震と会っています。松平忠固と岩瀬忠震と中居屋重兵衛は、貿易の推進と反・井伊直弼で利害関係が一致しており、一緒に何か計画を立てていたのかも知れません。忠固は、老中から失脚して国政に関与できなくなっても、中居屋と密接に連絡して生糸輸出を推進していたことが伺えます。またこうした政治活動の記録からは、忠固が、岩瀬などと共に国政に復帰する機会を伺っていたのではないかとも推測されます。それだけに、その直後の突然死がいよいよ不審なのです。

 仮説03は、私はにわかに判断できませんが、三井の史料があるのであれば、その可能性は高いと思われます。ちなみに中居屋は、開港直後の横浜からの全輸出量の半分を担っており(西川武臣氏『幕末明治の国際市場と日本』雄山閣)、三井を上回る存在でした。

 仮説04にはおおむね賛成です。私は井伊直弼も水戸斉昭も双方とも評価できません。この両名の愚行の数々が薩長による明治反革命を生み出してしまったと思います。

 仮説05 長井雅樂と松平忠固に交流があったかどうか、知りません。何か史料が出てくれば面白いですね。

 そういえば、長州で思い出しましたが、来年の大河ドラマの「花燃ゆ」にも松平忠固は登場します。「花燃ゆ」のノベライズ版を書店でパラパラと見たら、井伊直弼とともに松平忠固がチョイ役で出てきていました。吉田松陰を処刑した井伊の「仲間」という感じの「悪役」のような描かれ方でした。

 これはとんでもない!! 断固としてNHKに抗議します。吉田松陰が密航に失敗した後、「松陰を死罪に」という声が江戸城中で高かったにも関わらず、必死に彼を助けようとしたのは老中の松平忠固(当時の名前は忠優)です。吉田松陰の恩人を、こともあろうにチョイ役・悪役として描くとは!

 歴史学者は吉田松陰と松平忠固の関係についていっさい無視していますが、吉田松陰本人が、象山と自分に忠固が同情しているという事実を上田藩士から直接聞いて、「上田候(=忠固)を思い慕う」と書いているのですから、その事実は絶対に消せません。この事実、歴史家に聞いても分からないと思いますが、「松陰本人に聞いてみな」という話です。詳しくは以下の記事参照。

 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/f7fa3d1f52cdb3a7973d11a2dfbd1a80
 

 このブログ読者で松平忠固ファンの皆様、NHKに抗議しましょう! 
 

PS 私は「大河『八重の桜』に赤松小三郎を出して欲しい」と知り合いのNHKの大河スタッフ(その方は「軍師官兵衛」のスタッフ)に頼んだことがありました。私自身が、小三郎と山本覚馬が友達だったと気づくのが遅く、「八重の桜」が放映される前年の10月くらいに頼んだのでした。「もう脚本固まっている時期なので、一応言ってみますが、いまからじゃ難しいでしょうね~」と言われました。

 しかし「八重の桜」で一ヶ所だけ、間接的に小三郎が出てきているのです。誰か気づいた人はいるでしょうか?
 何話だったか忘れましたが、山本覚馬と広沢安任がイギリスの兵学書を読みながら「これがエゲレスの最新式の銃かー」と彼我の戦力差に嘆息するシーンがありました。あのイギリスの兵学書が赤松小三郎訳の『英国歩兵練法』で、山本覚馬が見ていた挿絵は、赤松小三郎が描いたものでした。小三郎本人は登場しませんでしたが、小三郎の訳書と彼の描いた挿絵が、ドラマに登場していたのです。NHKも、赤松小三郎は本来登場すべきだったと後で気づいて、「せめて本だけでも」と敬意を払ってくれたのかも知れません。

 山本覚馬がどのようにして『管見』の思想にたどりついたのか視聴者には何も分からないまま、ドラマでは突然に降ってわいたように薩摩藩邸の牢の中で『管見』が出てきました。また山本覚馬と西郷の因縁が描かれていませんでした。覚馬は、赤松小三郎に頼んで西郷隆盛に薩会和解を働きかけており、それ故、覚馬と西郷は旧知だったのです。覚馬と赤松小三郎の交流が描かれれば、ドラマにおけるさまざまなミッシングリングは解消したはずなのです。

 「花燃ゆ」における松平忠固の扱いも、少しでも改善させましょう!

 

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