選挙期間中なのに、選挙のこと何も書いていない。日々の仕事で追われて記事を書く暇もないのと、遺憾ながら自民党の大勝が目に見えて、抵抗する気力も失っているというのが本音。せめて自・公が改憲に必要な3分の2以上の議席を確保するのだけは回避できれば・・・というそれが唯一の願いだが、それも難しいのではと悲観的になっている。
民主党政権下でダム問題に取り組む中で、かなり国政の中枢を垣間見ることができた。その結果よくわかったことがある。この国は議会制民主主義の外皮をまとった官僚独裁の国である、と。政権交代が起こっても、官僚は気に入らない大臣を排斥し、更迭し、政策を骨抜きにし、自分たちの計画を貫徹する能力を持っているのだ、と。それゆえ、選挙で何か変わるという期待はほとんど吹き飛んだ。
その官僚たちのゆるぎない信念たるや、見上げた根性だと褒めてあげたいところもあるくらいだが、その信念が国民のためという動機に依拠しているならまだしも、近年は、国民の血税をふんだくってムラ社会の利権構造を温存させたいという動機がますます露骨になってきた。
実際、御用学者化した私の周囲の学者たちを見ても痛感する。「あの人、昔はあんなじゃなかったのに・・・・・」と。官僚と産業界と研究者のあいだの利権癒着構造がますます強固になる一方で、研究者は利権に吸い寄せられて正義感も良識も失ってきているのだ。
私が、政局への関心を全く失って「脱・長州史観」の取り組みを始めたのも、官僚独裁を生み出した大本にある、国造りの根源的な誤謬を明らかにしなければならないと、政権交代の失敗を見て痛感したからだ。
**********
ブラックバイトに苦しむ教え子の学生たち。今夏には、TBSが私の担当の1年生のゼミに取材に来て、5人の学生たちは過酷なバイトの実態をテレビカメラに向かって話し、それが全国放送で流れたりもした。「すき屋」のゼンショー・グループに対し「深夜のワンオペの禁止」など業務改善勧告が出たときには、学生たちは、自分たちが声を上げることに意味はあるのだと思ったようで、歓声をあげて喜んでいたものだった。
先日、その学生たちに、「みんなまだ選挙権なくて残念だね。投票したいでしょう」と聞いたら、「いやー、あまり行きたいとは思いません。投票したところで何か変わるとは思えないし・・・・・」と。「物価は上がってもバイト代はろくに上がらない」と愚痴りながらも、「自民党以外の選択肢なんてあるんですか? 民主党政権で何かよかったという思いって何もないんですよね」「アベノミクス、失敗かも知れないけど、何か変えようとした安倍さんの心意気はよかったのでは」といった反応。彼らの反応見ていると、自民党の大勝は揺らがないだろうとしか思えない。
民主主義は、分厚い中間層が存在する中で、はじめて機能する。勝ち組の上層部は与党支持だし、下層はといえば考える余裕もなく、選挙に期待もできなくなり、投票所に行く気力もなくなっていく。政府が外国の脅威とナショナリズムを煽れば、「希望は戦争」とばかりに、下層の多くは(皆が皆ではないが)、簡単に与党に投票する。
与党への批判票は、中間層の中から生まれるが、その中間層が溶けてなくなったら、批判勢力はなくなって、全体主義に向かうしかないのだろう。残念ながら、破局を回避する手段はなさそうだ。
民主党政権下でダム問題に取り組む中で、かなり国政の中枢を垣間見ることができた。その結果よくわかったことがある。この国は議会制民主主義の外皮をまとった官僚独裁の国である、と。政権交代が起こっても、官僚は気に入らない大臣を排斥し、更迭し、政策を骨抜きにし、自分たちの計画を貫徹する能力を持っているのだ、と。それゆえ、選挙で何か変わるという期待はほとんど吹き飛んだ。
その官僚たちのゆるぎない信念たるや、見上げた根性だと褒めてあげたいところもあるくらいだが、その信念が国民のためという動機に依拠しているならまだしも、近年は、国民の血税をふんだくってムラ社会の利権構造を温存させたいという動機がますます露骨になってきた。
実際、御用学者化した私の周囲の学者たちを見ても痛感する。「あの人、昔はあんなじゃなかったのに・・・・・」と。官僚と産業界と研究者のあいだの利権癒着構造がますます強固になる一方で、研究者は利権に吸い寄せられて正義感も良識も失ってきているのだ。
私が、政局への関心を全く失って「脱・長州史観」の取り組みを始めたのも、官僚独裁を生み出した大本にある、国造りの根源的な誤謬を明らかにしなければならないと、政権交代の失敗を見て痛感したからだ。
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ブラックバイトに苦しむ教え子の学生たち。今夏には、TBSが私の担当の1年生のゼミに取材に来て、5人の学生たちは過酷なバイトの実態をテレビカメラに向かって話し、それが全国放送で流れたりもした。「すき屋」のゼンショー・グループに対し「深夜のワンオペの禁止」など業務改善勧告が出たときには、学生たちは、自分たちが声を上げることに意味はあるのだと思ったようで、歓声をあげて喜んでいたものだった。
先日、その学生たちに、「みんなまだ選挙権なくて残念だね。投票したいでしょう」と聞いたら、「いやー、あまり行きたいとは思いません。投票したところで何か変わるとは思えないし・・・・・」と。「物価は上がってもバイト代はろくに上がらない」と愚痴りながらも、「自民党以外の選択肢なんてあるんですか? 民主党政権で何かよかったという思いって何もないんですよね」「アベノミクス、失敗かも知れないけど、何か変えようとした安倍さんの心意気はよかったのでは」といった反応。彼らの反応見ていると、自民党の大勝は揺らがないだろうとしか思えない。
民主主義は、分厚い中間層が存在する中で、はじめて機能する。勝ち組の上層部は与党支持だし、下層はといえば考える余裕もなく、選挙に期待もできなくなり、投票所に行く気力もなくなっていく。政府が外国の脅威とナショナリズムを煽れば、「希望は戦争」とばかりに、下層の多くは(皆が皆ではないが)、簡単に与党に投票する。
与党への批判票は、中間層の中から生まれるが、その中間層が溶けてなくなったら、批判勢力はなくなって、全体主義に向かうしかないのだろう。残念ながら、破局を回避する手段はなさそうだ。
①遣唐使廃止(894年)から平治の乱(1159年)まで265年間
②元寇以降(1281年)日明貿易再開(1404年)123年間
③徳川家光の鎖国令(1636年)からペリー来航(1853年)までの217年間
④日露戦争終結(1905年)から第二次世界大戦終結までの40年間
ここに⑤安倍政権(2007年)から××年、を付け加えることができるかもしれません。ネトウヨ、というか極右な連中は、国連が安倍政権にいろいろ注文をつけるのは中国や韓国の陰謀(?)だと主張しています。ゆえに日本は絶対正しいから折れてはいけない。
安倍政権は大日本帝国(あるいは北朝鮮)の政治体制にシンガポール型の経済を持つ国を目指している、といわれますが国際社会がそれを放置してくれるのか疑問です。
いちおう対米従属を絶対的な前提にしているものの、アメリカ嫌いの人もいますので、まともな人が「アメリカは日中戦争を望んでいない」というと「アメリカを困らせるためにだけ戦争に踏み切るという選択肢ができてしまう。彼らが語る「韓国人」は自分たち自身の鏡である一面があるような気がしますが、いかがでしょう。
最近は日本史を語る人が好戦的になっていてうんざりしているのですが、そのうんざりする日本史を語る人がいなくなるのではと心配しています。赤松小三郎のような人がいる余地がこの国にあったなんて信じてもらえなくなるにちがいありません。
官僚独裁を変えるなら、脱長州史観も良いですが、公務員制度改革が必要だと思います。
米国などでは幹部公務員は政治任用で選ばれますが、日本もそうすれば良いのだと思います。
安部内閣で公務員制度改革法案が成立し、内閣人事局ができました。人事院などの従来の機能を残した不充分なものでしたが、今後追加の改革をすれば良いのだと思います。
もちろん行き過ぎた政治任用を防ぐための仕組みとして、議会がチェックする仕組みや常に政権交代が可能な野党の存在などが必要になってくるとは思いますが、官僚が内輪で人事を決めるよりずっと良いと思います。
中間層が弱くなり、与党への批判勢力が育たなくなることについてですが、次の選挙で100議席を超える野党ができるかどうかが分かれ目だと思います。
余計なコメント失礼しました。
次の衆院選はいつになるか解りませんが、2016年の夏に参議院選挙があるので、それまでにはなんとか野党がひとつにまとまると良いな、と思います。次の参院選で自民党が57議席とると、自民党は参議院でも単独過半数達成のようです。
公務員制度改革および各省幹部の政治任用の必要性、まったくその通りだと思います。大変に重要なご意見ありがとうございました。
たしかに民主党政権の最大の誤りは、各省の幹部級を政治任用をしなかったことだと思います。政治任用の必要性、私も折を見て記事にしてみます。
もっとも政治任用がやりにくい伝統ををつくってしまったのが明治の長州藩閥政治ではあるのですが・・・・。
明治に日本最初の政党内閣であった隈板内閣で政治任用を制度化しようとしていますが、脱薩長を目指した政権交代が藩閥官僚の抵抗で潰されてしまって(まるで最近の政権交代劇を見るようです・・・)、日本は強固な官僚内輪人事の伝統が形成されてしまったように思えます。
これは全く同感です。ネトウヨが空想上で想像する「典型的にイヤな韓国人」って、まるで彼らにそっくりですからね。
関良基さま:
関さん、この1月に「長州史観から日本を取り戻す」というカテゴリー・キャプションに惹かれて突然思い立ってコメント欄にお邪魔しまして以降、連日のご多忙のなかでお書きになった本ウェブログの記事ならびにコメントによる得がたいご嚮導、まことにありがとうございました。想像もしていなかった認識の広まりと深まりを与えていただきまして心から感謝いたしております。
最初にお邪魔した記事への最初のコメントをなされた、りくにすさまと関さんのやりとりが非常に印象深く、りくにすさまの「すでに蔓延している?『長州陰謀史観』」というタイトルを勝手にお借りした m(_ _)m 投稿名そのままに、今日その年が終わります。
さて・・・はるか昔の在米時代に、Bertram Gross という米国の政治学者の『 Friendly Fascism : The New Face of Power in America ; M. Evans, 1980 』という著作を読みました。同書の和訳である吉野壯児・鈴木健次訳による『笑顔のファシズム』(日本放送出版協会、昭和59年)によりますと、序章において著者は、本書を米国政府の政策に関与したことへの自省をこめた「(アメリカの)民主主義を、新しいかたちの独裁政治に変えてしまいかねない巧妙なやり口を摘発する書」であるとし、それと同時に「アメリカには、これまでになかった正真正銘の民主主義の成立する可能性がある」と主張する、きわめて印象深い本です。
同訳書の「訳者あとがき」には、1982年に出版されたペーパーバック版の序文で著者が「フレンドリー・ファシズムの足並みは、レーガン政権の出現とともにいよいよその速度を速めた」と指摘する一方で、「反戦運動の高まり、および原子力産業の成長を阻止している反核勢力や環境保護運動、労働組合と市民団体、老人団体などの幅広い連携、それに体制内から呼応する公務員の増加」など希望につながる傾向にも熱っぽく言及している、と記されています。
レーガン政権によって登場したアメリカのネオリベラリズムが新しいかたちのファシズムをはらんでいることを当時のアメリカにおいて敏感にアピールした政治学者が存在したわけです。関さん、当方なりのいささかの体験と見聞にもとづいて「ネオリベラリズム(新自由主義)とは、市場原理主義による(貨幣)資本のグローバルな政治経済社会的な専制の確立の動きである」という渡辺治氏によるデヴィッド・ハーヴェイの仮説のとりまとめに同意せざるを得ません(渡辺治監訳、デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義 その歴史的展開と現在』作品社、2007年、原著は2005年;p291ー295)。
じつはこれは、かって大手証券会社のチーフ・エコノミストであった水野和夫氏が『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞社、2007年)において、グローバリゼーションを「資本の反革命」としたことに見事に対応していると思います。
本ウェブログ記事を念頭において『フレンドリー・ファシズム』に戻りますと、著者 Bertram Gross は、第12章「情報と人心の操作」のなかで、学生たちが一様に受動的になることを強いられていることを指摘し、「アメリカで企業中心の新しい権威主義が台頭するためには、最下層の学生がさらに増加したり、社会全体の構造がもっと際立って階層化される必要がある」「教師は学生をなだめているうちに、自分たち自身がすっかり受動的になってしまっている」(同訳書;下巻p182)と言っています。この教師・学者についての指摘は、関先生にはまったくあてはまりませんが、その学生さんたちとそう離れてはいなかった年代の自分が身を置いていた1980年前後のアメリカにおいてそうであったことが、いま日本に「澎湃として」起こっていることに心がひどく痛みます。
さらにこの『フレンドリー・ファシズム』で著者ははこのように述べています。権力と富の集中によって「・・・学者、芸術家、テクノクラートといった広範な人々が私利を求める追随者の群れを形成する・・・彼らは搾取的な富と権力の集積を加速し、それを正当化するためになおいっそう協力する・・・」と(前同p211)。モンテスキューの「民主政治における国民の無関心は、寡頭政治における貴族の専横より、公共の福祉にとって危険である」という言葉を牽き、つづけて「しらけた<無関心派>は、意識してそうなったというよりは、準少数独裁制、もしくは少数独裁制のもたらした副産物である」と指摘しています(前同p277)。本記事を拝見して、そこで見つめられているものと、バートラム・グロスの語ったものとの一致に固唾をのみました。
ただし、現在目の前で見ている事態は、80年代アメリカの『フレンドリー・ファシズム』とはやはり異なっています。
多くのひとに衝撃をあたえたという矢部宏治著『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、2014年)の「あとがき」によれば、「戦前の軍部・軍国主義者が政府を支配し、国政を私物化することを可能とした大日本帝国憲法の欠陥ならびに権力運用上の悪弊(アビューズ)」を短時日に集中的に研究した米占領軍、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局のマイロ・ラウエル陸軍中佐の報告には:
(1)国民にきちんとした人権が認められていないこと。
(2)天皇に直結し、国民の意思を反映する責任のない憲法外の機関があること。
(3)裁判所が裁判官ではなく、検察官によって支配されていること。
(4)政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けていること。
(5)政府が国民の意思を政治に反映させる責任を負っていないこと。
(6)行政部門が立法行為をおこなっていること。
・・・が結論とされているそうです。(2)の「天皇」という最高権威を「アップデート」すれば、ラウエル中佐は現在の日本を見ているのではないかと息を呑まずにおられません。
明治維新から戦前に成立していた支配構造が、大日本帝国憲法が日本国憲法となったことにかかわらず、そのまま変わることなく続いたということになります。
ラウエル中佐がこれを知ったとすれば、GHQにおける民政局の後退を嘆きつつ憮然として天を仰いだことでしょう。
ラウエル中佐の指摘に加えるべきことは、(7)議会における少数意見の徹底した無視による「多数議席党の専制」。(8)経済界の持つ、政治・行政に対する甚大な影響力。(9)マス・メディアに対して軍部と政官財界が徹底した影響力を持つこと。(10)教育に対して軍部と政官界が直接介入すること。・・・ということかと思います。「軍部」というところを「アップデート」すれば、戦後「日本国憲法下」の日本にそのままあてはまることです。その意味では、白井聡氏が『永続敗戦論』(太田出版、2013年)で独自の視角と表現によって指摘されていることに対応するのではないかと思います。日本は軍事的な対外的敗北を喫しながら、内政的・対内的には「終戦」を経たにすぎなかった、ということになったと。
関曠野氏が指摘する「自国民を植民地原住民のように扱う政府」というのは、明治維新以降、最高宗主権力の所在如何にかかわらず、現内閣まで微動だにせず一貫して継続していると、とりわけて昨今実感せざるを得ません。
寡頭専制をもたらしささえる、かような構造的な要因を根底にしながら、今回の総選挙において、自民党が有権者のわずか17%の支持で(比例区絶対得票率)475議席中291議席、61%の議席を握りました。政権与党、公明党の議席を加えると三分の二を超えます。
政府・与党のマス・メディア支配を駆使しての浮動票層の棄権をねらった投票誘導、「低投票率を促進するという疑いなく公選議会制民主主義に真っ向から敵対する行為」、そして巷間つたえられる得票操作をあわせ考えるまでもなく、「6人に1人しか支持のない政党が6割の議決権を握る」というのは、公選による代議制度が実質的に否定され、内部崩壊をしていると明確に言うことができます。これはまことに深刻重大な事態であり、公選代議制度という形式的民主主義を悪辣に逆用したファシズムであると言わざるを得ません。
飛躍しますが、これは国家全体が、その運営が民主主義とは無縁で、経済的成果(成長)を第一義的に追求する大企業・経済界のあり方をコピーし始めた結果であると見えますが、同時に、それ以前にその大企業・経済界そのものが、米国発の新自由主義の日本における席巻によって根底的と言える変化をしたことを如実に反映していると思います。
日本における、労働組合を含めた大企業社会の変化はすでに80年代に中曽根政権のもとで始まったと思いますが、日本の背骨としての役割を果たしてきた大企業社会が、雇用慣行を軸として180度の転換を果たすポイントを示すのが、1994年2月に「東京ディズニーランド(千葉県舞浜、1983年開園)」のオフィシャル・ホテルを標榜する「ヒルトン東京ベイ」でおこなわれた経済同友会のコーポレート・ガバナンス討論合宿、「舞浜会議」でした。
「雇用重視か株主重視か」という論点が中心となり、新日鐵の今井敬社長(当時)とオリックス宮内義彦社長(当時)の意見が対立したのが、有名な「今井・宮内論争」です。
「企業は、株主にどれだけ報いるかだ。雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」とオリックス宮内社長、「それはあなた、国賊だ。我々はそんな気持ちで経営をやってきたんじゃない」と新日鐵今井社長。
この「同友会舞浜会議」は「日本型雇用」が崩壊する、まさに転機となったとされています。以降、「株主価値経営」の席巻によって、株主に還元する利益のためのコストダウンとしての人的「リストラ」がごく当然のことになり、これに呼応して、1986年に「派遣労働」が生まれ、1999年に派遣対象業務の原則自由化、2004年に、そのオリックスの宮内氏がブレーンとなった小泉純一郎政権下で竹中平蔵大臣によって「聖域だった製造業」への派遣が自由化されたわけです。以降の非正規雇用の激しい拡大と勤労者所得の減少、および残酷なまでの格差と貧窮の拡大については言及を要しないと思います。
ちなみに、後年(1999年か2000年と思われます)のインタビューで新日鐵の今井会長(当時)は、「舞浜会議」を振り返って、このように語っています。
「ROE(引用者注:株主価値経営の評価基準指標である株主資本利益率)についても、野村證券がその頃からROE経営と言っていましたし、ROEが大事だということはそのときからわかっていた。ただ、雇用が大事だということは当然であって、いまだにその考えは変わっていない」と。(品川正治、牛尾治朗編『日本企業のコーポレート・ガバナンスを問う』商事法務研究会、平成12年:p126)
勢いで、インタビュー者の株主価値経営サイドの経営評論家、矢内浩幸氏との今井会長との対話をピックアップしますと:
今井「谷崎潤一郎は日本にはもう絶対出ないね」
矢内「これからですか」
今井「ええ。ああいう生活をする人は生まれませんよ。これだけギスギスした社会では」
矢内「そんなにギスギスしていますか」
今井「していますよ。潤いが一つもないではないですか。そんなにアメリカの社会がいいですか」
矢内「アメリカは自由社会だと思うのです・・(中略)・・自由をもっとも重視する社会」
今井「それはそうです。だけれども、ものすごく貧富の差が拡大して、それが本当にいいですか。自由が一番いいですか。私も自由主義信奉者なのですよ。だけれども、心の隅ではいつもそれに対する大変な疑問があるのです」
・・・・
今井「『市場』が大事だということ、『透明性』が大事だということ、それから『自由競争』が大事だということ、私はそういうことの信奉者ですけれども、しかし、アメリカをじっと見ていて、アメリカと同じような社会を日本に持ち込もうという気持ちにはまったくなりません」(前同書;p142ー145)
2001年の小泉政権発足少し前のこの頃と、それからわずか15年後の現在との間の大企業の経営の変容と国内社会の激変について言を弄する必要はないと思います。上場企業の外国法人等持株比率は1990年まで5%前後であったものが、以降急増して2013年には30%に達しています。
個別企業をアトランダムに見ますと、オリックス62.8%、花王50.7%、三井不動産50.3%、三井住友47.6%、KDDIが47.9%、日立45.4%、さらにあのトヨタが30.3%となっています。これが日本企業の変質の原因であり、また結果であると考えてよいと思います。
本ウェブログ記事に戻りますと・・・たしかに状況は絶望的で、人々の無関心というより無気力化されたありさまは絶望的に思えます。しかし、自民党側・政財官の立場に立って考えると、今回の選挙結果が示すものに強い危機感に駆られているだろうと思います。有権者のわずか17%の支持しか得ていない自民党の政権が、「集団的自衛権行使」には二の足を踏むであろう与党公明党の7%弱があるとはいえ、安定した強固な政権であるわけがありません。
本来であれば総選挙の争点となるべき重大な個々の問題については、内閣支持率をきわめて高く出す大手メディアの世論調査においてすら、政府自民党の方針への反対が賛成を大きく上回っています。
それだけに、あとの76%、とりわけその中で、棄権した47%、すなわち有権者国民の半分の存在は非常に「不気味」に思えるはずです。その圧倒的多数の国民から支持されるわけがない一連の施策を急いで進めなければならないわけで、おそらく硬軟問わず恐怖に駆られた強権的支配政策に陥ってゆくのではないかと思われます。いくら多数の国民が「無関心」であると言えど、国際的な批判が高まることを含めて、非常に危うい舵取りに追い込まれます。
現政権を特徴づけ、ささえているカードが、(1)中国・韓国敵視。(2)米日同盟至上主義。(3)国家の企業主義的運営。の三つであるとすれば、すでにカードは切り尽くし、同工異曲の繰り返しか、「ネトウヨ」はともかく、幇間的マス・メディアへの依存をつづけるしかなく、とくに、資金供給という輸血に頼った血圧(=株価)上昇を景気回復と強弁するしかなくなってからすでに長い(3)は限界を迎えつつあります。
のこる切り札は、「戦争による国内統治維持」です。「産業活性化効果」を含めての、中国との局地戦争と「イスラム国」への戦闘派遣ということになりますが・・・このいずれかを武力行使の戦略・戦術の面を含めての国際関係、および対内政策の両面において成功裏にすすめることは現政権と官僚にとって至難の技であろうと思います。泥沼に足を取られ、国内の反戦・厭戦運動を実力で弾圧せざるを得ない状況に陥れば、最悪と言ってよい事態を招きます。一気に兵営国家・監獄国家にすすまざるを得なくなるおそれすらあります。
他方で、「田中宇の国際ニュース解説」、2014年12月25日付け「ロシアが意図的にデフォルトする?」と、2014年12月21日付け「原油安で勃発した金融世界大戦」を見ますと、2015年には世界はアメリカとロシアの衝突を核として動き、EUはアメリカに追随することをせず、米国債を大量に保有して米国に対して金融的に強い立場にある中国がロシアを助けるという構図が出現することが予測されています(双方有料記事なので原記事を検索してご参照ください)。
2015年は世界的な規模の危機が展開し、世界経済(欧米日経済)にふたたびパニックが走るおそれがあるようです。
これまで述べてきた動きの惨めな終着駅として今回の「選挙で生まれた」政権と、理念・使命感・祖国愛を失って久しい官僚、それに同じく経済界が、かような世界的危機における国家の舵取りができると思うのは、あまりにお人好しだろうと思います。
これからは、品性と知性をうしなった0.1%の「勝ち組」側の危機の時代となると思われます。すなわち、99.9%側にとってはチャンスです。このチャンスをどう生かすのか、若い人々におおきな期待を抱きます。関さん、若さとは大変なもの、一気に豹変します。どうか若い世代に「光に向かう意志」をかがり火のように掲げつづけてくださいますよう。
見るに堪えなかった12月総選挙について年末までに曲がりなりの整理をしておこうと、1月1日間際ぎりぎりまで焦った結果の発酵不全、しかも推敲なしの冗長きわまりない投稿をひどく後悔しております。おまけに (>_<) 投稿名を誤るだけではなく、「名前」欄にタイトル全文を入れるというあわてぶりで、まことに申しわけありませんでした <(_ _)> 。
身辺生業諸般の問題課題が如何としがたい力不足によりあいかわらず輻輳しておりまして、羊頭狗肉である大晦日深更の投稿の整理凝縮は当分できぬままであろうことをお詫びします。時機を見て内容をあらためて挑戦するつもりでおります。
その後、1月2日の「THE PAGE」記事、高安健将氏による「政治改革の鬼っ子?─ 安倍首相の政治戦略」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141230-00000017-wordleaf-pol)に、今次の総選挙に対する端正で的確な総括がありましたので、大晦日投稿の書き直しに代えて、強引な抜粋圧縮をさせていただきます:
「・・・十分な議論もないままに議員と政党、政権の選択が求められ、選挙の結果、全てが了解されたという形式のみが重視された・・・安倍・自民党には、総選挙が人びとからの信頼の獲得を目指す作業であって、自らの意思を人びとに押し付ける正当化の機会ではないということを今一度認識してもらう必要がある・・・異なる意見や批判が存在することを認められず、聞く耳を持たない指導者の姿が浮かび上がり・・・ケンカの相手が有権者、国民であったということでは冗談にはならない」
・・・と。
ルソーの『社会契約論』に「イギリスの人々は自分たちは自由だと思っているが、選挙の間のことだけで、選挙後は奴隷となり無に等しいものとなる」(第3篇、第15章)とあることは有名ですが、いまの日本で人々は選挙中においてすでに奴隷であり、無に等しいものになりました。
ここまで徹底された以上、むしろ何とかできようかと思いますが、同時にルソー同様に議席決定主義(多数議席党専制)に化す、公選代議制「民主主義」というものに決定的な疑念を抱かざるを得ません。人々が常時、日常に政治に関与する必要があります。それがなければ変化は起きないであろうと。
ただし眼を大きく外に向けますと、現在おこなわれている対プーチン・ロシア経済金融戦争の原油安、ドル高という戦術が逆に欧米のノドを締めつつあるとのこと。中国を含むBRICSの動きによって、アベ・シン「ファシズム」を笹舟のように翻弄するであろうグローバルな歴史の転換が出現する可能性があります( 2014年12月25日 ドミトリー・カリニチェンコ『達人プーチンのワナ』の本日付和訳記事からそのように思いました。 http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-c100.html )。
しかし、アベ・ジャパンは言うに及ばず、オバマ・アメリカもともかく、ロシア、そして中国においても、決定的な問題はだれも人類的、人類史的な理念・理想を掲げることができないこと、経済主義的・地政学的覇権主義のるつぼで丁半を張ることに終始していることです。
思いますに、関さんが2015年1月4日の最新記事『戦後70年そして元和偃武400年』の末尾で掲げられている日本のあり方に関する三つの「方向性」は、きわめてグローバルな内包を持っています。そしておそらく、BRICS諸国の欧米の包囲に対する動きは、結果的に、また無意識に、そのような方向性を帯びてゆく可能性を持つのではないかと思います。
中南米諸国を敬意を払うべき例外として、BRICSをはじめとする非欧米諸国は、かっての新自由主義の「自由な市場と個人」という、ともあれ「理念理想の輝き」をしのぐものを持ってはいません。
「定常経済・環境重視経済」という一見地味な考え方を飛躍的に魅力的で革新的なものにイノベートすれば、と思いますが、ともかく、かってのエリツィン・ロシアを席巻し、中国においてはその「変種」が国家理念とすらなっている「新自由主義」に対する思想的・哲学的「勝利克服」をする必要があります。
さらに、とくに中国に顕著ですが、いかに経済強国とはいえ、決定的な問題は、中国共産党の方針のなかで問題とされていたと記憶する「技術開発力のなさ」です。
まったくの私見・直感ですが、その原因は、中国が自分の文化的美的伝統・民衆の文化から生み出されてきたものと切り離されたところで「経済成長」と「近代化・現代化」をおこなってきたところにあるとにらみます。
思いますに、古代から大陸中国および朝鮮からの文化的・思想的薫陶のもとに育まれてきた日本がその伝統に立ち戻ることによって、今度は逆に、理念・思想において、また技術革新・開発力において、中国に対して「人類史的な影響・貢献」を果たすことができるのではないでしょうか。
「対中敗戦後70年そして元和偃武400年の初夢」ということになりますが。