代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

事実を踏まえた判決が書けるものなら、やってみろ! 八ッ場ダム控訴審結審に思う

2012年12月24日 | 八ッ場ダム裁判
 「私は裁判所に期待していない。しかし事実を踏まえた判決がかけるものなら、やってみろ!」
 さる12月21日、八ッ場ダム建設への公金支出差し止めを求める住民訴訟の結審があり、坂本博之弁護士からは、陳述書にはない、このような異例の発言も飛び出した。傍聴席にいるほとんどの人々の感情を代弁した発言であったと思う。

 治水・利水両面での虚偽とデータの捏造、地すべりの危険性が指摘されながら杜撰な調査で工事を強行してきた事実、不十分な環境アセス、国交省が貴重な遺跡の発掘を妨害すらしている事実・・・・これらはすべて違法性がある。

 被控訴人の東京都は、こうした事実関係に対し、裁判の場で反論できない。反論しないのみならず、被控訴人たちは、裁判中に堂々と居眠りしていた。法廷を侮辱している。

 間違った計算をしていても、図を捏造しても、地すべりの危険性を看過していても、後世に宝となるであろう貴重な遺跡の数々を破壊しても、「行政裁量の範囲内」という判決が出るであろう、行政の勝ちは最初から明らかだ・・・・このようにタカをくくっているから、裁判中に堂々と寝ていられるのだろう。
 
 裁判所は、明らかにナメられている。治水に関して、国交省は裁判所にまで平然と事実と異なる計算の定数表を提出してきた。「裁判官などどうせ分かりやしないだろう」とタカをくくっているからであろう。それについては原告住民が、「虚偽公文書作成」でさいたま地検に告発している。

 公共事業の合理性に関する判断基準として、小田急線の高架訴訟の裁判の最高裁判決がある。その判例によれば、計画の合理性の違法判断の基準は「① その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により重要な事実の基礎を欠くこととなる場合、② 又は、事実に対する評価が明らかに合理性を欠くこと、判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし、著しく妥当性を欠くものと認められる場合」とのことである。

 これが最高裁の判断基準なのだ。「ウソをついても捏造しても行政裁量の範囲内」などという判例はどこにもない。

 八ッ場ダム建設は、治水で氾濫図を捏造し、裁判所には虚偽の定数表を提出し、利水では水需要予測の「事実誤認」をし、地すべり評価も「明らかに合理性を欠き」、世界遺産級の東宮遺跡を破壊するなど、「考慮すべき事情を考慮しない」、「著しく妥当性を欠く」全ての面で完全に違法な公共事業である。

 バーミヤンの大仏を破壊したタリバン政権の犯した罪に匹敵する大罪である。

 本体工事を強行し、湛水すればダムサイトが崩れてくるであろうことも目に見えている。そうなれば損害賠償訴訟が起こるであろう。危険性に目をつむった行政のみならず、それに合法の判断を下した裁判所も共犯ということになる。

 これでも行政に勝たせるとするならば、その判決文は、辻褄の合わない、支離滅裂な文章になることだろう。子供に読ませたくない文章の典型のようなものになるだろう。判決は、2013年3月29日に言い渡されるそうである。
 後世の恥となるような教育上よろしくない支離滅裂な判決文は見たくない。それで坂本弁護士は、異例ともいえる冒頭のような発言をしたのであろう。
 
 限りある人生の中で、現世での栄達など如何ほどのことがあろうか。正しい判決をして左遷されたところで、それはむしろ名誉なことであろう。後世にその名の恥をさらすことの方が、はるかに耐えられないことではないのか。
 


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