「長州史観から日本を取り戻す」シリーズの続編です。今回はいわゆる不平等条約と関税自主権の喪失問題について。
外交能力・交渉能力のない無能な「江戸幕府」の大老の井伊直弼が、1858年に天皇の勅許を得ずに屈辱的な不平等条約を結び、日本は関税自主権を喪失した ― 「長州史観」では、このように説明される。これは誤りである。
事実は次のようになる。
堀田正睦(佐倉藩主)と松平忠固(上田藩主)という二人の優れた閣僚に指導された公儀は、当時の国際情勢の中で最大限に日本に有利な条約を結び、当時の欧米列強間の貿易で一般的な水準の関税率20%を勝ち取った。しかし、長州藩による外国船の無差別砲撃というテロ行為が原因で起こった下関戦争とその敗戦の責任を取らされて、公儀は関税率を20%から5%に変更せざるを得なくなった。かくして日本は関税自主権を失った。
この事実は拙著『自由貿易神話解体新書』(花伝社)にも書いたので、興味のある方はぜひ読んで欲しい。
ちなみに「江戸幕府」という呼び方そのものが長州史観の産物である(renqingさんのブログ「本に溺れたい」を参照されたい)。私も過去「江戸幕府」と書いてきたことを自己批判し、これからはふつうに「公儀」などと呼びたい。
当時の公儀が米国のハリスとのあいだで締結した日米修好通商条約において、輸入関税は、一般の財に対しては20%、酒類には35%、日本に入港する外国人の生活必需品には5%と定められた。輸出関税は一律に5%とされた。
日本は従価税で20%の関税をかけることができた。また、外国が不当な廉価でダンピング輸出をしているとの疑いがあるときには、税関で価格を再設定することもできた。
当時、不平等条約を結ばされていたインドでは関税率2.5%、中国(清)では5%であったから、日本が勝ち取った一般商品に対する関税率20%は、至極まともな税率である。20%という関税率は当時の列強諸国が互いに貿易する際に一般的にかけられていた水準の税率であって、国際水準で見て妥当なものだった。日米修好通商条約は、清が結ばされた南京条約のような次元の「不平等条約」とは言い難い。関税率20%であれば、国内産業を保護しつつ、政府が近代化を遂げるための財源を確保するにも十分であったはずである。またアヘンを禁制品として貿易禁止にした。輸入したくないものを輸入禁止にする権利も獲得したのも大きい。
「関税自主権がない」というのは、インドや中国のように、全ての財に一律の低税率を強要されることであろう。当時の閣僚たちは、南京条約から教訓をくみ取って、清国の轍を踏まないように努力していたことが伺える。少なくとも、この条文を見る限りにおいては、薩長中心史観の歴史ドラマが描くように「幕府」が無能だったとは思われないのである。
ただし、日米修好通商条約において明らかに不平等な内容だったのは、「治外法権」および「外国と日本の金貨・銀貨同量交換」の二つの条項である。とくに金銀交換は致命的なミスであった。日本と諸外国の金貨・銀貨交換比率の違いから、日本の金貨(小判)の国外への大量流出をもたらすことになり、公儀衰亡の大きな原因となった。
日米条約では20%という日本の工業化に有利な税率がいったんは取り決められたものの、その後に様子がおかしくなった。
長州藩が起こした下関砲台での外国船無差別砲撃というテロ行為と、その結果として起こった下関戦争およびその敗戦の責任を取らされて、公儀は戦後賠償金の支払いを要求されていた。巧妙な外交手腕をもった英国公使パークスは、賠償金支払い延期の代償として、関税率の引き下げを要求した。そして1866年、倒壊前の江戸公儀は列強との間の「改税約書」に調印させられる。その中で、従価税方式で20%という関税率を放棄し、従量税方式でほぼ一律に5%にするという、英国公使パークスの要求を呑まされてしまったのだ。
1866年の関税率改定(「江戸協約」とも呼ばれる)について、この研究の第一人者である石井孝氏は以下のように述べている。
****以下、引用****
(石井孝『増訂・明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年:448~449頁)
****引用終わり*****
こうして南京条約と同じ税率の不平等条約になってしまった。かりに20%の関税率を維持できていたら、日本はもっとすみやかに工業化していたことは間違いがない。明治の薩長藩閥政府は、関税自主権がないことによって長期にわたって苦しめられるのだが、何のことはない、元をたどれば自分たちのまいた種だったのである。
外交能力・交渉能力のない無能な「江戸幕府」の大老の井伊直弼が、1858年に天皇の勅許を得ずに屈辱的な不平等条約を結び、日本は関税自主権を喪失した ― 「長州史観」では、このように説明される。これは誤りである。
事実は次のようになる。
堀田正睦(佐倉藩主)と松平忠固(上田藩主)という二人の優れた閣僚に指導された公儀は、当時の国際情勢の中で最大限に日本に有利な条約を結び、当時の欧米列強間の貿易で一般的な水準の関税率20%を勝ち取った。しかし、長州藩による外国船の無差別砲撃というテロ行為が原因で起こった下関戦争とその敗戦の責任を取らされて、公儀は関税率を20%から5%に変更せざるを得なくなった。かくして日本は関税自主権を失った。
この事実は拙著『自由貿易神話解体新書』(花伝社)にも書いたので、興味のある方はぜひ読んで欲しい。
ちなみに「江戸幕府」という呼び方そのものが長州史観の産物である(renqingさんのブログ「本に溺れたい」を参照されたい)。私も過去「江戸幕府」と書いてきたことを自己批判し、これからはふつうに「公儀」などと呼びたい。
当時の公儀が米国のハリスとのあいだで締結した日米修好通商条約において、輸入関税は、一般の財に対しては20%、酒類には35%、日本に入港する外国人の生活必需品には5%と定められた。輸出関税は一律に5%とされた。
日本は従価税で20%の関税をかけることができた。また、外国が不当な廉価でダンピング輸出をしているとの疑いがあるときには、税関で価格を再設定することもできた。
当時、不平等条約を結ばされていたインドでは関税率2.5%、中国(清)では5%であったから、日本が勝ち取った一般商品に対する関税率20%は、至極まともな税率である。20%という関税率は当時の列強諸国が互いに貿易する際に一般的にかけられていた水準の税率であって、国際水準で見て妥当なものだった。日米修好通商条約は、清が結ばされた南京条約のような次元の「不平等条約」とは言い難い。関税率20%であれば、国内産業を保護しつつ、政府が近代化を遂げるための財源を確保するにも十分であったはずである。またアヘンを禁制品として貿易禁止にした。輸入したくないものを輸入禁止にする権利も獲得したのも大きい。
「関税自主権がない」というのは、インドや中国のように、全ての財に一律の低税率を強要されることであろう。当時の閣僚たちは、南京条約から教訓をくみ取って、清国の轍を踏まないように努力していたことが伺える。少なくとも、この条文を見る限りにおいては、薩長中心史観の歴史ドラマが描くように「幕府」が無能だったとは思われないのである。
ただし、日米修好通商条約において明らかに不平等な内容だったのは、「治外法権」および「外国と日本の金貨・銀貨同量交換」の二つの条項である。とくに金銀交換は致命的なミスであった。日本と諸外国の金貨・銀貨交換比率の違いから、日本の金貨(小判)の国外への大量流出をもたらすことになり、公儀衰亡の大きな原因となった。
日米条約では20%という日本の工業化に有利な税率がいったんは取り決められたものの、その後に様子がおかしくなった。
長州藩が起こした下関砲台での外国船無差別砲撃というテロ行為と、その結果として起こった下関戦争およびその敗戦の責任を取らされて、公儀は戦後賠償金の支払いを要求されていた。巧妙な外交手腕をもった英国公使パークスは、賠償金支払い延期の代償として、関税率の引き下げを要求した。そして1866年、倒壊前の江戸公儀は列強との間の「改税約書」に調印させられる。その中で、従価税方式で20%という関税率を放棄し、従量税方式でほぼ一律に5%にするという、英国公使パークスの要求を呑まされてしまったのだ。
1866年の関税率改定(「江戸協約」とも呼ばれる)について、この研究の第一人者である石井孝氏は以下のように述べている。
****以下、引用****
はじめ英国が通商関係の開始にさいして日本に求めたのは、清国との関係を律するのと同じ条件であった。この条件に反して関税率が、とくに輸入税率において一般的に二○パーセントという高率であったのは、通商条約の原型の作成者が米国の代表者ハリスだったからである。 (中略)
しかしこれは、日本を資本主義製品の市場にしようとする英国にとって不満であった。いまや欧米資本主義諸国による対日外交の主導権を完全に掌握した英国は、下関における勝利の余威をかって、清国なみの税即の獲得という宿願を達成したのである。
しかしこれは、日本を資本主義製品の市場にしようとする英国にとって不満であった。いまや欧米資本主義諸国による対日外交の主導権を完全に掌握した英国は、下関における勝利の余威をかって、清国なみの税即の獲得という宿願を達成したのである。
(石井孝『増訂・明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年:448~449頁)
****引用終わり*****
こうして南京条約と同じ税率の不平等条約になってしまった。かりに20%の関税率を維持できていたら、日本はもっとすみやかに工業化していたことは間違いがない。明治の薩長藩閥政府は、関税自主権がないことによって長期にわたって苦しめられるのだが、何のことはない、元をたどれば自分たちのまいた種だったのである。
以前「BS歴史館」で江戸公儀の外交交渉を取り上げたときには、どうして不平等条約になったのか説明しないまま番組が終わったので混乱し、ちょっと不満でした(そもそも関税の話をしたかどうか)。そのころ同じNHKが「龍馬伝」が「無能な幕府」のステレオタイプを製作していましたが。ちなみに「龍馬伝」では金貨が流出したので物価が上がっている、と久坂玄瑞が説明しますが、納得できずにおります。
ところで、ユダヤならぬ「長州陰謀史観」みたいなのが蔓延していて、政治と無関係な田舎の事件まで長州藩の気質のせいにする意見をどこかで見ました。閉鎖的な田舎であればどこでだって起こりそうな事件なのに。
とは言いながらも次の記事に期待しています。
コメントありがとうございました。
>金貨が流出したので物価が上がっている、と久坂玄瑞が説明しますが、納得できずにおります
私もこの説明納得できないです。
横浜開港後のインフレ発生の原因は、単純に輸出超過による供給不足が原因かと思います。もしかしたら、この説明も「幕府」に責任をすべて押し付けようとする長州史観に基づく「言説」かもしれませんね。
>「長州陰謀史観」みたいなのが蔓延していて
そうなのですか。私の場合、明治新政権に正当性を与える目的で、歴史解釈が捻じ曲げられているという点を問題にしているので、「陰謀」というより、どこの国にもある「言説形成」という次元の問題と認識しています。
長州史観の問題の続編、不定期に書くと思います。揚げ足とられないように注意して書かないとまずいので、頻繁には書けないと思いますがよろしくお願いいたします。
「北朝鮮デビル夫人、世界のアイドル」http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_109.html#comment
>朝からデビル・スカトロ夫人は食欲落ちる(´Д`;)
>噂タクさん2014/01/21 08:27
テレビを捨てればこういう醜い魑魅魍魎の姿も声も見ず聞かずで済んでこどもが本を読んで賢くなるよ。
大和魂のご先祖様は外来夷敵鬼畜外道に佛国日本の土を踏ませぬため己の一番大切な命さえ捨てて戦い武士道攘夷菩薩となった。
その大和魂をご先祖様から受け継ぐわれわれ日本人がなんでご先祖の仇ユダ金戦争屋が作る白痴化洗脳電波発信装置テレビごとき惜しんで捨てられぬことがあろうか。
ご先祖様を供養礼拝尊崇する躾正しき日本人は全員ただちにテレビを捨てよ。これが日本悠久の伝統の大和魂であり日本人の証明である。
まーテレビを見ている時点ですでに佛敵ユダ金拝金戦争カルトスパイ伊藤博文田布施人脈棄民テロ贋政府の先制攻撃が奏功していると言うことだね。
靖国の攘夷大和魂菩薩ご先祖さまはすべての世俗の欲も楽も捨てて不惜身命ユダ金と戦った。ユダ金カルト手先拝金政府といまこの地球上で至上の気高い大和魂で戦うもののふは、まさに靖国の仏心英霊を受け継ぐ者である。不惜身命を受け継ぐ日本人が、なんぞテレビ如き仏敵拝金カルトの集金装置ぽっち不燃ゴミ廃棄場へ即座に叩き捨てないでおくべきか。
>大将、小沢さん支持はやめちゃったんですか?
>それとも小泉が一緒だから却下?
>ふくろうさん2014/01/21 14:20
ちょっとしらじらしいかなw
別に政治家なんぞに期待する何ものもないが今度の都知事選は2012.12.16と違って単独選挙だからユダ金スパイ総務省選管NHK共犯の不正選挙がボロ出しまくって公務員選挙違反の憲法99条違反内乱罪の動かぬ現行犯証拠がユダ金が嫌がる宇都宮氏を応援することで山盛り捕まえることができるから、選挙の勝敗に関係なく宇都宮氏を応援してるだけである。少し前のエントリー読まなかったのかな、それともただの独立党員撹乱のためかねw
要は不正選挙の証拠をつかんで選管とNHKをぶっつぶして両犯罪組織の所轄省庁総務省を内乱罪で検挙投獄して跡形も残さずぶっつぶす。
今回都知事選で誰が当選しても選挙無効であり、前回1216都知事選の猪瀬当選も無効になる。そうすれば自然に前回次点の宇都宮氏が猪瀬逮捕当選無効を受けて都知事に就任するのさw
同時に1216当選国会議員全員憲法99条違反内乱罪逮捕。安倍ももちろん逮捕。憲法70条総理罷免懲戒免職安倍内閣即日総辞職即日国会解散衆参全議員逮捕してすべて新しい立候補者から両院の全議席に就くべき新しい国会議員を日本国憲法前文「正当な選挙」で選出する。これが立憲法治政治である。
すなわち勝敗に関係なく都知事選で宇都宮氏を応援する。これが大和魂もののふの兵法である。
よって、宇都宮氏は直ちに自分自身で全国の学生生徒に呼びかけて「全国都道府県学生生徒動員社会科実習都知事選挙監視団」を緊急結成せよ。
それが、「天は自ら助くる者を助く」ゆえに「人事を尽くして天命を待つ」ことである。
宇都宮氏が自ら助くるためにこの都知事選に不惜身命人事を尽くさなければ、天も人も宇都宮氏を助けること決して能わず。すなわち宇都宮氏にカンボジアで「公明正大な正当な選挙」実現のために命を捨てて尽くした故中田厚仁くんと同じ不惜身命勇猛心大和魂があるかないかの問題である。
大和魂菩薩の佛教国日本では、選挙は地位や生まれではなく清らかな行いで作り上げられた崇高な人格で選ぶのである。
釈尊の言葉http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149
「道を行きて、己よりも勝れたる者、または、己に等しき人に逢わずんば、むしろ、独り行きて誤るな。愚かなる者の友となるなかれ。」
「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。実に欲望はいろとりどりで甘美である。心を楽しませてくれ、満たしてくれる。しかし、欲望の対償には、憂いがあることをみて、サイの角のように、ただ独り歩め。」
渋沢敬三宮本常一師弟が創学した日本常民民俗学を学問する民俗学者と学生は、ただちに宇都宮氏に全面協力して「全国学徒動員社会科実習都知事選挙不正防止監視団」結成と運用に全員結集参加せよ。
久坂がしていた説明は吉田松陰が説いたものだそうです。
交易が始まったとたんにいろいろなことが起こるので金貨が流出するのに物の値段が上がるといったことが起こったのでしょう。
ところで最近は大院君支配期の朝鮮みたいに外国勢力をはねつけるべきだったという意見もみかけます。
新手の「攘夷派」でしょうか。それとも本当は韓国に劣等感があるとか?
司馬遼太郎の、鳥瞰的と言えば聞こえはよいのでしょうが、上から目線で夜郎自大気味の筆致に充満するスノビズムが邪魔をして『世に棲む日々』を手に取ったことはありません。じつはそのように感じ始める前に『坂の上の雲』を愛読して多くの場面を記憶しています(数度通読ののち、対馬沖海戦の戦闘描写からT字型戦法の図解をとこころみてうまくゆかなかったことから彼の叙述に疑問を感じ始めました)。それにしても司馬史観論者はなぜ彼の戦前昭和に対するル・サンチマン的否定には無感覚なのでしょう。まさか、長州神社の威力ではないだろうと思いますが。
長州の庶民を徴発して編成された擬似国民軍のメンタル・インフラとして各部隊ごとに戦死者を顕彰する「招魂場(招魂社)」が設けられ、大村益次郎が旧千代田城(「皇居」)防衛の軍事拠点を兼ねて九段坂に東京招魂社をつくったということを本棚のどこかにあるはずの歴史研究書で読んだことがあります。招魂社というのは、『吾輩は猫である』に長女の「とん子」がお嫁に行きたいところだというので知った名前です。東京の皆さんには「とん子」同様に、招魂社には「でも水道橋を渡るのがいやだ(ネズミ男となんかと)」と言っていただきたいですね。
岩波文庫にあるペリー提督の議会報告(『日本遠征記』)の叙述の端々から推定しますと、当時の公儀は米国艦隊の浦賀来航を知って待っており、アヘン戦争を清に仕掛けたあのイギリス帝国と戦って独立していた米国とコンタクトするのを積極的に期待して準備していたのではないかと思えます(当時の公儀側の資料はすべて明治政府が焼却したでしょうから、これはとうてい歴史学上の問題にはなり得まないでしょうが)。少なくとも、アジアへの進出が後発で英国との一定の対抗関係にあった米国と最初に条約を結んだことが非常に賢明な外交であったことは、御記事「関税自主権喪失は長州藩の責任」(長州「藩」としか言いようがないでしょうね)にあるとおりです。
薩長は自分たちの密貿易利権を消滅させることになる全国的な「開国」を必死で妨害しようと「志士」たちにふんだんにカネをばらまいて「攘夷」を演出していたと指摘したのはアジア史学者の宮崎市定博士だったと思います。宮崎博士の論点は日本史の専門家には無視されているでしょうが、貿易利権独占の維持以外のものではなかった薩長の攘夷が、尊皇の水戸の攘夷とナショナリズムとしての攘夷(新撰組の理念が攘夷であったように)をからめとり巻き込んで明治維新の大きな動線となったわけです。
つまり、密貿易利権によって成立した「長州株式会社」と「薩摩株式会社」が生き残りをかけて攘夷という名の利権闘争を演じるなかで「英国のアジア現地法人」と従属的提携を結び、また公家を買収して朝廷を操った挙げ句に、行くところまで行って日本全体をM&Aしてしまったということではないでしょうか。その後、西郷隆盛を葬り、大久保利通暗殺を奇貨として薩摩勢を組み敷き、長州が全面的に支配権を手に入れ、長州史観を確立したと。三谷博氏が提起しておられる「明治維新三つの謎」を、この薩長密貿易利権仮説によって解くことができるのではないかと考えたりしています。もちろん、不幸にして明治維新といういささか美しからざる(醜悪な、と言いたいところですが弁証法的空間の品位を貶めぬように)かたちにさせられてしまった日本の「近代化」という歴史的変動の全体についての立体的な解明にはならないと思いますが。
この記事で喝破なさっているように、長州の一方的な外国船砲撃・乗組員殺傷というテロ行為こそが、「開国」でアメリカに立ち後れた英国が挽回し、日米間で締結されていた「国際的水準」の交易条件を転覆して、英国が清国に対してアロー戦争という侵略戦争を仕掛けて得た半植民地的交易条件と同等のものに置き換えることを誘導したわけですね。
Wikipediaで見ますと、長州が封鎖した関門海峡を通過して砲撃を受けたのが、まずアメリカの商船、次にフランスの通報艦、そして公儀の公的な通商国オランダの軍艦であったことに目が惹かれました。えぇ、ロシアを除く英仏蘭米四ヶ国の多国籍軍編成の下地をつくっています。そして四国多国籍軍に対する長州の惨敗後の講和において、高杉晋作は英国側の提示した条件をすべて唯々諾々と受け入れて関門海峡を開放し、ただし、外国船攻撃は公儀が朝廷に約束し全国に通達した攘夷命令によるものであるとして賠償金300万ドルは公儀に請求することとしています。思わず笑ってしまいました。
アヘン戦争後の南京条約によって期待した清国内での商業活動が伸び悩むのに業を煮やしてアロー戦争を仕掛けたオールコック・パークスのコンビが、不本意にもアメリカに先を越された日本で、米国本国の南北戦争の隙を突いて主導権を奪い返そうと長州を利用して演じたのが、見事に図にあたった下関戦争ということではないかと睨みます。長州は、薩英戦争を経た薩摩とともに、その後あっという間に英国製の最新鋭の武器で軍備を固め、軍事クーデターによって覇権を獲得するや否や国内経済社会の近代化(欧化)にまい進(狂奔)するわけで・・・
冗長になった投稿をお詫びします。長州史観への関様の挑戦を固唾を呑んで応援しております。無名人のいい気な投稿コメントの揚げ足を取る人はいないだろうと気を緩め、応援のつもりがかえってお邪魔になったのではないかと懼れつつ。
是非今後ともいろいろ教えてください。この投稿、コメント欄だけではもったいないので、引用する形で本文の新しいエントリーで紹介させていただいてよろしいでしょうか?
公刊されたものにある情報を敷衍して多少見方を変えてカジュアルに言い換えたものばかりでございますから、お役に立ちそうなところがもしありましたら、引用ということではなく、素材としていかようにも(批判的に、を含めて)ご自由にお使いいただけば幸いに存じます。
お言葉に甘えまして、今後引きつづき「長州史観」(「明治維新神話」)に応援のつもりのお邪魔をさせていただくことができればまことに幸いに存じます。どうかよろしくお願いいたします。
今後は関様のほうでご必要な場合に典拠を直接参照いただくことができるようにいたします。
なお、昨日の投稿にあります宮崎市定博士の該当論考だったと思われるものがどうしても手もとに見あたらず、『古代大和朝廷』(ちくま学芸文庫)附録の論文にあると見当をつけ、先ほどネット書店(Amazonではないところです)に注文いたしました。確認いたしますので少々お待ちください。
また弁証法的空間でのハンドル(名前)はこのままで結構です。逐一引用はいたしませんが、薩長の「密貿易」を注目の対象の一つにしている石井孝氏の『明治維新と外圧』(吉川弘文館、平成5年)を急いで再読し、そう決意しました。
なお、弊コメントで言及した宮崎市定博士の攘夷/密貿易論は、「志士にカネをばらまいて攘夷を演出」の箇所のソースは未確認(文献入手途上)ですが、全体の趣旨は、薩長をターミナル文化の社会とした『東洋史の上の日本』(中公クラシックス『アジア史論』所収、2002年:p360)及びオランダとイギリスの長崎出島での利害衝突を契機として攘夷論が出現したことを指摘し、また密貿易の主たる輸出品として黄金を想定した『アジア史上における日本』(中公文庫『アジア史概説』所収、1987年:p436-439)がソースです。
お忙しい中を申しわけありません。同時代の歴史の激動の中どうか今後引きつづきよろしくお願いいたします。
長州史観からの脱却の問題、国民的な課題と思いますので、皆で建設的な議論をしていければと感じております。
さて、庄内出身の清河八郎も早い段階で倒幕を唱えていますが、彼はひところ港町酒田の遊郭に入り浸っていました。たったこれだけで「密貿易」と「倒幕」を結びつけるのは先走りすぎでしょうけど。
質問ばかりですみません。お答えは気長にお待ちします。