前回の記事の続きで赤松小三郎についてです。
「Yahoo知恵袋」で以下のような議論がされているのを見つけた。私は軍事史には詳しくないので詳細はよく分からないが、非常に濃い内容の議論である。慶応2年から慶応3年にかけての政局で、赤松小三郎の存在がいかに重要であったかを示唆するものなので、引用したい。
以下、下記サイトより引用。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1229791987
****引用開始**********
aizu_justiceさん
「戊辰戦争時、會津藩の軍制改革後の軍事力や統率力は、薩長に比べて何年位遅れていたと思われますか?」
質問日時: 2009/8/24 01:11:28
解決日時: 2009/8/28 02:52:58
ベストアンサーに選ばれた回答
suidoukankoujiyaさん
薩摩藩は当初蘭式兵制を導入していましたが、薩英戦争の教訓から1866年にそれまでの蘭式の軍備から英式兵制への変更を行います。
英式への変更に当たり上田藩出身で当時の英式兵制の第一人者赤松小三郎を藩邸に講師として招き、桐野利秋や東郷平八郎など将来有望な藩士多数を受講させると共に、当時最新版の「重訂英国歩兵練法」の翻訳を依頼するなど急速に英式の兵制(前装施条銃を用いた戦闘方法)に改め、1867年にはほぼ改変を終了しています。
(なお赤松は上田藩からの相次ぐ帰国命令に従い上田に戻ろうとしたところを教え子の桐野らの手に掛かり死亡しています。理由は赤松が幕府側についたからだとしていますが、早期から幕府陸海軍の創設や松平春嶽にも認められ議会制による国家など先進的な政策を提言してきた人物を自藩の都合だけで暗殺したこの一件はあまり語られない薩摩藩の恥部の一つです。)
(中略)
さてこれらと相対する会津藩は装備や兵制の変更に出遅れ、京都守護時代でも火縄銃と少数のゲーベル銃といった他藩より一世代遅れた装備でした。
(中略)
以上が薩長と会津の軍制の遍歴と戦闘結果ですが、まともな兵学者について装備の更新を行えば数年で兵制改革は可能であり、このことから見ても会津の兵制と装備は薩長から2~3年遅れていたと思われます。
****引用終わり*************
この議論などを読むと、仮に、薩摩藩より先に会津藩が赤松小三郎を教授に招いていたら、その後の歴史は全く変わっていたのではないかとすら思わせる。まさに赤松小三郎は、時代を動かす鍵を握る「キーパーソン」であった。これをネタに、『大逆転! 鳥羽伏見』といった歴史シミュレーション小説など書いたら面白いかもしれない。
赤松小三郎はとくに薩摩藩のみに英国式兵制を伝授したわけではなかった。薩摩塾とは別に、私塾の「宇宙堂」を開いており、そちらには越前、肥後、会津、鳥取などの諸藩から、何と新選組の隊士まで聴講に来ていたという。まさに赤松塾は「呉越同舟」状態だった。人によっては「そんな危険な、無節操で政治感覚のないことをやっていたから暗殺されたのだ」と言われるかもしれない。
しかし赤松は、政治オンチだったからそのようなことをしていたわけではない。
現代に置き換えれば、例えば佐藤優さんなどは、右の雑誌にも左の雑誌にも頼まれればどこでもホイホイと書き、「無節操」と批判する人もいる。しかし佐藤さん本人が、「右と左の『バカの壁』を崩したい」と言っているように、日本の左右の不毛な対立をより高次の次元で解消したいという構想の下に、戦略的に「無節操」をしているのである。
おそらく当時の赤松も同じ気持ちだったのだ。天文学を究め全宇宙にまで視野を広げている赤松にしてみれば、会津だ長州だ薩摩だといった、狭い日本の中の不毛な対立などアホらしくて仕方なかったのだ。塾の名前の「宇宙堂」は、大宇宙の中のチッポケな惑星の中で諸国が対立し、さらに狭い国の中で幕府だ朝廷だなどと争っているのはじつに不毛なんですよという、赤松のメッセージが強く込められている。「宇宙」の中ではみな平等。だから宇宙堂では、薩摩も肥前も会津も新選組も分け隔てなく教える。
赤松小三郎の中では、幕府と朝廷と諸藩の対立は、「民主的議会制度」という高次の政治システムを導入しさえすれば、自ずから解消するはずのものであった。薩摩も肥前も会津も新選組も平等に扱って軍事教練を施したのも、いずれ諸藩の軍隊も新選組のような諸隊も「国民軍」の中に統合されると考えていたからである。だから、私塾でも薩摩藩邸でも、英国式兵学のみならず、英国式民主的議会政治の導入の必要性をあわせて説いたのである。
私は思う。赤松が生きていれば、陸軍や海軍が長州や薩摩の藩閥によって不当に支配されることもなかったのではないか、そうであれば、昭和になって軍部が愚かな暴走をすることもなかったのではないか。それほどまでに赤松の暗殺は、日本全体にとっての痛恨事であった。
現在、赤松小三郎は、坂本龍馬暗殺事件に連なる伏線としての暗殺という事件的興味で語られることが多い。私は、あくまで赤松本人の生涯と、議会政治の先駆者という業績に関して、十分な視線を注いで欲しいと願うものである。
PS 2013年1月25日の追記
読者の方から赤松小三郎の塾の名前は「宇宙堂」ではないという指摘をいただきました。小三郎の塾、戦前の文献に「宇宙堂」「天雲塾」「青年塾」など様々に書かれています。しかし塾の名前を示す一次的史料は発見されておらず、塾の名前は不明でした。この点、誤りを訂正させていただきます。「宇宙堂」は赤松の師匠の内田弥太郎の号です。
「Yahoo知恵袋」で以下のような議論がされているのを見つけた。私は軍事史には詳しくないので詳細はよく分からないが、非常に濃い内容の議論である。慶応2年から慶応3年にかけての政局で、赤松小三郎の存在がいかに重要であったかを示唆するものなので、引用したい。
以下、下記サイトより引用。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1229791987
****引用開始**********
aizu_justiceさん
「戊辰戦争時、會津藩の軍制改革後の軍事力や統率力は、薩長に比べて何年位遅れていたと思われますか?」
質問日時: 2009/8/24 01:11:28
解決日時: 2009/8/28 02:52:58
ベストアンサーに選ばれた回答
suidoukankoujiyaさん
薩摩藩は当初蘭式兵制を導入していましたが、薩英戦争の教訓から1866年にそれまでの蘭式の軍備から英式兵制への変更を行います。
英式への変更に当たり上田藩出身で当時の英式兵制の第一人者赤松小三郎を藩邸に講師として招き、桐野利秋や東郷平八郎など将来有望な藩士多数を受講させると共に、当時最新版の「重訂英国歩兵練法」の翻訳を依頼するなど急速に英式の兵制(前装施条銃を用いた戦闘方法)に改め、1867年にはほぼ改変を終了しています。
(なお赤松は上田藩からの相次ぐ帰国命令に従い上田に戻ろうとしたところを教え子の桐野らの手に掛かり死亡しています。理由は赤松が幕府側についたからだとしていますが、早期から幕府陸海軍の創設や松平春嶽にも認められ議会制による国家など先進的な政策を提言してきた人物を自藩の都合だけで暗殺したこの一件はあまり語られない薩摩藩の恥部の一つです。)
(中略)
さてこれらと相対する会津藩は装備や兵制の変更に出遅れ、京都守護時代でも火縄銃と少数のゲーベル銃といった他藩より一世代遅れた装備でした。
(中略)
以上が薩長と会津の軍制の遍歴と戦闘結果ですが、まともな兵学者について装備の更新を行えば数年で兵制改革は可能であり、このことから見ても会津の兵制と装備は薩長から2~3年遅れていたと思われます。
****引用終わり*************
この議論などを読むと、仮に、薩摩藩より先に会津藩が赤松小三郎を教授に招いていたら、その後の歴史は全く変わっていたのではないかとすら思わせる。まさに赤松小三郎は、時代を動かす鍵を握る「キーパーソン」であった。これをネタに、『大逆転! 鳥羽伏見』といった歴史シミュレーション小説など書いたら面白いかもしれない。
赤松小三郎はとくに薩摩藩のみに英国式兵制を伝授したわけではなかった。薩摩塾とは別に、私塾の「宇宙堂」を開いており、そちらには越前、肥後、会津、鳥取などの諸藩から、何と新選組の隊士まで聴講に来ていたという。まさに赤松塾は「呉越同舟」状態だった。人によっては「そんな危険な、無節操で政治感覚のないことをやっていたから暗殺されたのだ」と言われるかもしれない。
しかし赤松は、政治オンチだったからそのようなことをしていたわけではない。
現代に置き換えれば、例えば佐藤優さんなどは、右の雑誌にも左の雑誌にも頼まれればどこでもホイホイと書き、「無節操」と批判する人もいる。しかし佐藤さん本人が、「右と左の『バカの壁』を崩したい」と言っているように、日本の左右の不毛な対立をより高次の次元で解消したいという構想の下に、戦略的に「無節操」をしているのである。
おそらく当時の赤松も同じ気持ちだったのだ。天文学を究め全宇宙にまで視野を広げている赤松にしてみれば、会津だ長州だ薩摩だといった、狭い日本の中の不毛な対立などアホらしくて仕方なかったのだ。塾の名前の「宇宙堂」は、大宇宙の中のチッポケな惑星の中で諸国が対立し、さらに狭い国の中で幕府だ朝廷だなどと争っているのはじつに不毛なんですよという、赤松のメッセージが強く込められている。「宇宙」の中ではみな平等。だから宇宙堂では、薩摩も肥前も会津も新選組も分け隔てなく教える。
赤松小三郎の中では、幕府と朝廷と諸藩の対立は、「民主的議会制度」という高次の政治システムを導入しさえすれば、自ずから解消するはずのものであった。薩摩も肥前も会津も新選組も平等に扱って軍事教練を施したのも、いずれ諸藩の軍隊も新選組のような諸隊も「国民軍」の中に統合されると考えていたからである。だから、私塾でも薩摩藩邸でも、英国式兵学のみならず、英国式民主的議会政治の導入の必要性をあわせて説いたのである。
私は思う。赤松が生きていれば、陸軍や海軍が長州や薩摩の藩閥によって不当に支配されることもなかったのではないか、そうであれば、昭和になって軍部が愚かな暴走をすることもなかったのではないか。それほどまでに赤松の暗殺は、日本全体にとっての痛恨事であった。
現在、赤松小三郎は、坂本龍馬暗殺事件に連なる伏線としての暗殺という事件的興味で語られることが多い。私は、あくまで赤松本人の生涯と、議会政治の先駆者という業績に関して、十分な視線を注いで欲しいと願うものである。
PS 2013年1月25日の追記
読者の方から赤松小三郎の塾の名前は「宇宙堂」ではないという指摘をいただきました。小三郎の塾、戦前の文献に「宇宙堂」「天雲塾」「青年塾」など様々に書かれています。しかし塾の名前を示す一次的史料は発見されておらず、塾の名前は不明でした。この点、誤りを訂正させていただきます。「宇宙堂」は赤松の師匠の内田弥太郎の号です。