代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 -その3

2010年03月21日 | 赤松小三郎
 さて、いよいよ次の箇所がすごい。以下の箇所は、議会こそが国権の最高意志決定機関であり、唯一の立法機関であることを明確に述べる。議会の権限は、天皇の権限より強い。「主権在君」の「明治憲法」よりも、戦後に制定された「主権在民」の「日本国憲法」の内容にはるかに近いのである。慶応3年にこれを主張していたのは、本当に驚くべきことである。

 赤松は、「天皇の意見と議会の意見が異なる場合にはどうすればよいのか」という点に関して、以下のように述べる。

*****<引用開始>************

国事は総て此両局にて決議の上、天朝に建白し御許容の上、天朝より国中に命じ、若し御許容なき箇条は、議政局にて再議し、弥公平の説に帰すれば、此令は是非共下さざるを得ざる事を天朝へ建白して、直に議政局より国中に布告すべし。其両局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人を公平に選むべし。其局の主務は、旧例の失を改め、万国普通の法律を立て、並びに諸官の人選を司り、万国交際、財貨出入、富国強兵、人才教育、人気一和の法律を立候を司り候法度、御開成相成候儀御国是の基本かと奉存候。

*****<引用終わり>*************

 
 赤松は問う。議会での決議事項の中で、もし天皇がそれに反対の場合(御許容なき)はどうすればよいのか。その場合、議会は持ち帰って再議し、いよいよ実行すべき確固たる根拠をもって再決議すれば、天皇にその事を述べるのみで、天皇の賛否を問わず、直ちに議会より「国中に布告すべし」というのである。つまり天皇は、議会の決定に異議をはさむことはできても、その最終決定を覆す権限を持たないのである。
 これは、議会こそが国権の最高機関であるということを明確に述べたものである。明治憲法などはるかに飛び越えて、現行憲法の精神により近い内容なのである。

 龍馬の「船中八策」では、「政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」となっているので、全ての政令は天皇の名で出されることになる。小三郎の「御改正口上書」では、議会が決議し、天皇が同意したものは、天皇の名で布告されるが、天皇が同意しなくても「議政局」の名で国中に布告できることになっている。また「国事は総てこの両局にて決議」とあるので、議会の決議を経ずして、天皇が単独で政令の類を出すことはできないことになる。
 龍馬の「八策」では、議会と朝廷の力関係に関しては何も述べられていない。小三郎にあっては、明確に議会の権力が天皇よりも上に位置づけられていて、天皇は議会の同意なしには政令も出せない。
 
 「明治憲法」では、天皇が唯一の立法機関であって、議会は立法を協賛する組織でしかなかった。また大臣は天皇を「輔弼」するものでしかなかった。また天皇には、議会や内閣のコントロールを受けずに陸海軍を直接指揮する「統帥権」が付与され、軍部の暴走の原因をつくった。

 小三郎の構想では、議会が国家の最高機関であって、立法だけではなく、「諸官の人選を司」る。つまり議会が、首相も大臣も任命するのである。これは議員内閣制である。当然のことながら、陸海軍を統括する軍務大臣も、議会の下位に置かれることになり、軍は完全に文民によって統制されることになる。予算を決定するのも議会である。

 「明治憲法」では、陸海軍は、議会や政府の統制から逃れて、天皇に直接統帥されることになっていた。この「統帥権」は、実際のところは、「天皇」を名目にしつつ、薩長の軍閥が国家を恣意的にコントロールしようという利己的欲望に基づいて設けられたのであろう。これが軍部の暴走と15年戦争の原因となったのであった。

 薩摩藩が赤松小三郎を暗殺したのには、この赤松の民主主義思想を何よりも憎んだからであろうことは容易に想像がつくのである。日本の歴史をみると、きわめて残念なことに、国家のグランド・デザインを明確に描ける聡明な人物が政治権力を握ることは滅多になく、権謀術策を弄し、反対派を闇に葬るようなことが平然とできるような愚劣な人間が権力につき、長期ビジョンのない政治を行う。今でもそうである。

 赤松小三郎が生きていれば、明治の歴史は全く違っていたかも知れないと私が残念に思うのは、こういう点にある。赤松小三郎が生きていれば、福井藩や会津藩の賛同の下に、幕府の側が率先してこうした改革を実行することが可能になっていたかもしれない。
 あるいは薩長にもう少し人物がいれば、武力を背景にしながら、小三郎の論を幕府と朝廷に実施させることもできたであろう。この点で、高杉晋作が若死にしたのは返す返すも残念だった。高杉であれば、赤松の論を採用できたかもしれないと思うのである。ちなみに、赤松小三郎は高杉晋作の能力を高く評価し、敬愛していたようである。赤松は、高杉のつくった漢詩を転写して座右に置いていた。そして、第二次征長の役に関しては、「勝算がなく、負けるのは当然だ」と幕府に向かって堂々と主張し、幕府改革の必要性を説く建白書を幕府に出している。

 いずれにせよ、赤松の論が採用されれば、武力討幕路線を封じこめ得ただろう。さすれば、内戦の悲劇もなく、靖国神社もなかったことになる。腐敗した藩閥政治もなかったし、主権在君の明治憲法ではなく議会の権限が強い憲法になったであろうし、もちろん天皇の統帥権などはなく、従って軍部の暴走もなかったことになる。

 さて、赤松の「御改正口上書」はまだまだ続く。あと6箇条も残っているのである。他の条項では、主要都市への国立大学の設置と全国民への教育機会の提供、金銀交換レートの国際基準に合わせた適正化、人民平等、税負担の軽減、軍備の拡充、食生活の改善による日本人の体格の改善、家畜の品種改良などが建白されている。
 残りの六箇条も、追って時間があったら、全文を掲載したい。

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