みみかほう

こころの耳をすませて すてきな果報にであいたいとおもいます。

✿燃ゆる思い

2018年04月03日 | ✿おでかけ

福岡は3月19日開花発表
3月27日満開宣言





そうです。
平野國臣があそこで助けなかったら、
西郷隆盛は、死んでいたのです。


西公園(福岡市中央区西公園)に、行って来ました。
桜の名所です。
ソメイヨシノの花びらが舞うそんな場所に
平野國臣の銅像があります。





一橋慶喜を将軍とするため、島津斉彬の懐刀として暗躍した西郷隆盛。その願い叶わず、同じく一橋派だった僧・月照と、鹿児島の錦江湾に身投げしたのは有名な話です。

こないだは、その薩摩への逃走の手助けをした近藤正慎のお話しをしましたが、
今日は、入水自殺を図った西郷隆盛を助けた平野國臣について
もう一度 書いていきます。
平野國臣について なんどもふれてきました。
大河ドラマ『西郷どん』も、あってますし、もう一度 おさらいです。




平野は文政11年(1828年)、福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の二男として誕生しました。
名前は、二郎です。
西郷隆盛とは旧暦で1才下になり、ほぼ同年代です。


平野の運命を決定付けたのは、21才頃から富永漸斎に国学を学んだことでした。
「日本本来の古制を尊ぶ思想」という尚古主義に傾倒したのです。
名前も、南北朝時代以前に戻すとして平野二郎から、平野國臣と名乗ります。
「國臣」は「國の家臣」という意味です。





薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、北条右門(島津斉彬側近)。
長州藩の勤王豪商・白石正一郎。
他にも梅田雲浜や梁川星巌などと交流をもつようになります。


安政5年(1858年)、井伊直弼の「安政の大獄」が始まると、平野と懇意にしていた人物も処罰対象者として追われることとなりました。

平野は、懇意の僧・月照を逃すため、西郷と尽力。
薩摩までたどり着きます。

しかし薩摩藩は、月照を「日向送り」(※薩摩と日向の国境で切り捨てる=つまり死刑)と決定してしまいます。





三人は船に乗り、西郷と月照は、突如、身を投げました。
平野は急いで二人を引き揚げ、蘇生を行ったものの、息を吹き返したのは西郷だけでした。


平野は、「桜田門外の変」についても、一枚噛んでいました。このことを知って驚愕したのが福岡藩でした。
福岡藩は、急いで平野の捕縛を命じ、彼はまたも追われる身の上となってしまいます。


平野は薩摩に逃げ込みました。
が、責任者の島津久光は冷淡そのもの。
頼みの綱である大久保も、久光の意を受けているのか、動こうとはしません。





平野は失意のまま、薩摩を退去します。
久光は、藩内を引き締め、暴走しそうな行動には目を光らせる主君であったのです。

平野は、去り際にこう詠みました。
「我が胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」

あまりにも有名なうたですね。
久光さん、冷た過ぎやん。。。


とはいえ、これで平野と薩摩の縁が切れたわけではなかったようで、
この後も平野はたびたび薩摩に潜入、著書『尊攘英断録』を大久保に渡してもいます。





文久2年(1862年)の「寺田屋騒動」では、薩摩藩過激派と連携して行動しようとするも失敗し、危険視された平野は福岡藩の牢に入れられるのでした。


文久3年(1863年)、平野はようやく福岡藩より解放されました。
公家と手を組んだ長州藩が、京都で天誅を起こすそんな時期です。

しかし、情勢は一転します。
「八月十八日の政変」によって、長州藩と彼らの味方である公家が追放されたのです。





このとき平野は、大和で蜂起しようとしていた「天誅組」阻止のため、京都を離れていました。

急報を聞いて京都に駆けつけると、尊王攘夷派は壊滅状態。
平野は都落ちした七卿の一人・沢宣嘉(さわのぶよし)を奉じ、但馬・生野で挙兵します(「生野の変」)。

平野は、年貢半減を掲げて農民を動員しようとしますたが、警戒して雇用まではしません。
そしていつの間にか沢が姿を消してしまいます。
乱はあっという間に鎮圧され、平野は捕縛されてしまいました。





かくして京都の六角獄舎につながれた平野。

投獄中の平野は、牢獄内への紙と筆の持ち込みを禁じられたため、支給されるちり紙を使って「紙縒り(こより)」を作り、それを折り曲げるなどして文字の形に仕上げ、その紙縒り文字をご飯粒などを使って、また広げたちり紙に一文字ずつ貼り付けて文章を作成しました。
恐ろしく気の遠くなるような作業だが、平野はこの方法で数篇の著述を行ないました。
これが有名な『平野国臣紙撚文書』と言われるものです。





元治元年(1864年)7月に発生した、「禁門の変」に伴う火災が、彼の運命を決めます。

囚人が逃亡して治安を乱すことをおそれた幕府大目付は、平野を含めた30名を斬首したのです。

「憂国十年 東に走り西に馳せ 成敗天に在り 魂魄(こんぱく) 地に帰す」
辞世を詠んだ平野は、首をさしのべました。享年37。

処分未決のまま最期を迎えたのでした。





なんと、生き急いだ一生だったのでしょう。

こよりでこしらえた手紙は、
志を全うするため離縁した、最愛の妻へも、
送ったそうです。


あの時期、有能な若者が、国を憂いつつ いったい何人 命を落としたのでしょうね。





平野國臣の銅像のそば、ソメイヨシノが美しく咲いていました。


さてさて、
大河ドラマ『西郷どん』では、
どなたが、平野國臣を演じるのでしょう。



西公園4月1日訪問






ダッピィズよろしくお願いします。

・・・






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9 コメント

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平野國臣 (都月満夫)
2018-04-03 14:28:52
知りませんでした。
歴史が身近にあるっていいですね。
激動の時代、若者の熱き思いが国を動かしたのですね^^
したっけ。
返信する
  こんにちわー (ちやこ)
2018-04-03 14:58:11
 歴史に 疎い ちやこ  何 も 語る事なくて
 汗  何時も はなこころさまわ
 歴史に ついて お勉強 なさって  おられるのです   かー   素晴らしい事です。
   
 
返信する
ためになるお話を聞かせていただきました (biko)
2018-04-03 15:22:23
とともに、

私は、有名な歌として、ご紹介された

「我が胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」

を知りませんでしたので、勉強させていただきました。

返信する
こんばんは (まる)
2018-04-03 20:46:01
日本の未来を案じ
同士と 志をともにしながら
願い敵わず 急いだ一生。
そんな 歴史があったのですね
返信する
はなこころさま (Hawks Fan)
2018-04-03 21:24:39
勉強になりました。

漠然としか知りませんでした。

ありがとうございました。

また教えてください。
返信する
その時代だからこそ^^。 (北天使)
2018-04-03 21:27:39
今の世では無理でしょうね^^;
それにしても若いです^^。
当時の寿命からすれば年半ばと言うところなんでしょうね^^。
返信する
今月も (oyajisann)
2018-04-03 21:46:42
幕末の時代国を憂う若者は翻弄されたあげく早死にや
死に急いでしまいましたね。
平野國臣も生きていれば明治の高官になっていたと思い
ます。
銅像まであるのは知りませんでした。
小学生の時に彼の手配書人相書きを見て笑ったのを思
いだしました。
今月もよろしくお願いします。
返信する
篤姫の時に・・・ (ゆり)
2018-04-04 13:34:55
こんにちは。

月照と西郷さんが身を投げたのは覚えてます。
詳しい説明に感謝・・・

時代の変わり目に・・・
有能な若者が命を落とす・・・
時代の流れ・・・とはいえ、むごいものがありますよね。
返信する
こんにちは (小父さん)
2018-04-04 16:42:11
今、はなこころさんの私のブログコメントへのレスを調べ、調べ書いていたところでした!

久々の郷土史を懐かしの場所の写真とともに読ませていただきました。

故郷と言ったら、元寇防塁に日蓮聖人像、黒田五十二萬石、野村望東尼それに緒方竹虎くらいの名前だけを小中学校の時に覚えたくらいでした。

平野二郎國臣像はきっとよく見上げていたと思いますが全く知りませんでした。

野村望東尼にしろ、二郎國臣にしろ近代史を支えていたんですね。
そんなことを知るとまた大河ドラマが一段と興味が沸きますね。

有難うございました。

あっ、小学校の遠足でよく行った首塚と聞いたと思っていた胴塚か?菊池神社のことも思い出しました!(笑)
返信する

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