前回の「第二次世界大戦の航空」シリーズでは、爆弾の種類について、
ごく基本的なようで実はよくわかっていなかった知識を得ることができました。
(あくまでもわたしを基準にお送りしております)
今日は、その続きとして、前回冒頭にアップした爆弾の紹介からです。
U-157.S-33. Bomb 500ポンド焼夷弾 AN-M76
軽構造物、弾薬庫、鉄道や自動車、地上の航空機などといった標的を
破壊するために広く使用され、「解体爆弾」という名前もありました。
本体は鋳鋼製の一体型で、ベースプレートは本体に溶接されています。
爆弾の尾部は鋳鋼製のスリーブで、4枚のシートスチール製「ヒレ」と
内部にボックス型の支柱があります。
着火剤には白リンが含まれており、この爆弾を廃棄する際には適切な注意が必要です。
焼夷混合物PT1は、基本的にマグネシウムペースト、ガソリン、
増粘剤で構成されており、通常の焼夷混合物IMの約4倍の熱量を発生させることができます。
U.S.250ポンド AN-M57 汎用爆弾
1942年3月11日以降、この爆弾に採用されている標準的なカラーは、
オリーブドラブのボディにHE充填剤を示す黄色のバンドと決められました。
充填剤は50/50硝酸アンモニウムとTNTからなるアマトール(Amatol)で、
それを表すためノーズに黄色、爆弾本体の尾部に1インチの黄色、
そして重心に1/4インチの点線の帯が描かれました。
このサイズの高爆発性爆弾は、第二次世界大戦でアメリカの使用した最も効果的なタイプです。
型番の頭の「AN」はこのアイテムがアメリカ陸軍海軍の両方で使用できるよう
標準化されているということを表しています。
また、アメリカのみならずイギリスや他の同盟国によっても採用されました。
ミッションに応じて、信管のタイプを使い分けます。
U.S 100 ポンド、タイプ AN-M30 汎用爆弾
汎用の高爆発性爆弾です。
超重量級の爆撃機が高空から投下した場合に起こる飛行の不安定さを解消するために、
爆弾は従来の尾部ユニットより2インチ短くなっています。
AN-M30爆弾は、その改良型であるAN-M30A1爆弾よりも軽量です、
トリトナル、TNT、アマトールを装填することができます。
爆弾の塗装は全体的にオリーブドラブで、機首と基部には
1インチの黄色の帯が、重心部には1/4インチの黄色の帯が描かれています。
さて、ここからはアメリカの誇る第二次世界大戦時の名戦闘機、
マスタングについてです。
■ 最高のピストンエンジン戦闘機 マスタング
ノースアメリカン P-51D マスタング(Musutang)
多くの人々が、P-51マスタングを、第二次世界大戦における
最高のピストンエンジン戦闘機とみなしています。
同機は射程、機動性、火力の組み合わせにより、非常に多様性に富んだ展開をしました。
第二次世界大戦における主要な戦場では、その航続距離、
高高度における飛行の安定性から、護衛のほか機銃掃射における攻撃、
そして写真偵察に重用されました。
マスタング開発の経緯です。
1940年、イギリスの担当者はノース・アメリカン・アビエーション社に
カーチスP-40の増産を依頼しました。
P-40は当時、アメリカの陸戦型戦闘機としては唯一のものでしたが、
速度、航続距離、高度などの性能は著しく劣っていました。
そのためノースアメリカン社は製造を断り、その代わり完全オリジナルの設計を提案し、
3ヵ月以内に完成させることを約束したのです。
117日後に完成した機体は水平飛行の速度で優れた性能を発揮し、
英国空軍(RAF)はこの機体をマスタングと命名して購入を決めます。
その後、イギリスはこれにマーリン65エンジンを搭載することによって、
「世界最高のプロペラ式長距離護衛戦闘機」を誕生させます。
航続距離と速度が向上したことで、P-51飛行隊は、
第8空軍の爆撃機と一緒にヨーロッパを長距離空襲することができるようになり、
掩護任務においてもおおいに性能を発揮し、このため爆撃機の損失は激減しました。
太平洋戦線でP-51はその航続距離、速度、持久力で、長距離爆撃を行う
ボーイングB-29スーパーフォートレスを護衛しました。
しかし、戦後アメリカで独立したアメリカ空軍が朝鮮戦争に投入する頃には、
P-51は冷却装置の防御が弱いという弱点を突かれ、多くが撃墜されることになります。
マスタングのコクピットは狭いながらも大変機能的でした。
特に、後年導入されたバブルキャノピーによって、
搭乗員には視界の広さが確保されることになったのです。
ロイヤルエアフォースのマークを付けて飛ぶマスタング。
わかる人が見たらおお、と思う(かもしれない)写真です。
この機体はオリジナルで、キャノピーの形は初期のものです。
■ スミソニアン博物館展示機
この写真は、当博物館に展示されているマスタングのかつての姿です。
同機は1945年末に製造されたのち1945年7月になってから納入されたため、
結局一度も戦闘に参加しないまま戦争は終わってしまいました。
陸軍航空隊はこの戦闘機を11ヶ月間、合計211飛行時間だけ使用した後、
手放し、後に国立航空博物館に移管されました。
しかしこのマスタング、なんの役にも立たなかったというわけではなかったようです。
NASM(スミソニアン)が入手したとき、機体胴体の両側には
大きな黒い文字で誇らしげな言葉が書かれていたといいます。
その言葉とは・・・。
『勝利を守れ 陸軍航空隊に参加しよう』
"Guard The Victory, Join the AAF"
AAFとはArmy Air Forcesのことです。
軍務を終わったあと、同機は陸軍航空隊の広報機になって、
リクルート活動に使用されていたということになります。
この文言がペイントされたのが、終戦前だったのか、それとも
終戦が分かってからだったのかがちょっと気になります。
「Guard」=一旦手にした勝利を守れ、という意味だったのでしょうか。
このマスタングは、現在、
第8空軍第353戦闘機群第351戦闘機中隊使用機の塗装をされています。
同飛行隊はドイツ奥地に向かう爆撃機を護衛する部隊でした。
爆撃機の掩護任務を終えて帰投する途中、彼らは敵機と交戦、
あるいは地上施設の攻撃を行い、その結果、部隊撃墜数330、
地上での破壊数414を記録し、部隊功労賞を受賞しています。
■ ロシアへのシャトル爆撃
1944年の夏のことです。
アメリカ軍の爆撃機の射程を拡大するための実験が行われました。
アメリカはドイツ東部やバルカン半島の敵目標を爆撃するために、
スターリンを説得して、イギリスやイタリアに戻ることなく、
ロシアにアメリカ軍の重爆撃機をシャトル飛行させることを許可させたのです。
ソ連はキエフ近郊に3つの飛行場を用意し、アメリカは数ヶ月かけて飛行機の受け入れ準備をしました。
計画は、P-51戦闘機に援護されたイギリス軍の第8空軍爆撃機などが
東ヨーロッパに長距離爆撃を行うというものです。
目標は合成オイルの工場であり、ロシア軍がドイツ軍から奪還したウクライナの基地でした。
しかし結論だけ言うと、これはとてもうまくいったとは言えませんでした。
その理由は、皆様も薄々お気づきの通り、
西側同盟国とソビエト連邦の間の「緊張」です。
ソ連の方も西側に対し疑惑を持っていたので、うまくいくはずないですよね。
■ 航空機銃
上から、
ドイツ軍MARSGG-15 7.92MM 機銃
1932年、ラインメタルによる導入されました。
1938年に採用されたより高度なMG-81に代替えされましたが、
MG-15は第二次世界大戦中、さまざまなドイツ軍の航空機の
防御兵器として使用され続けていました。
日本はそれを7.92mmでコピーし、戦争中は68型として使用しています。
MG-15の初速は毎秒2952フィート、発射速度は1分間に1050発でした。
アメリカ軍 ブローニング M2 .50口径機銃
第二次世界大戦で最も広く使用されていた航空機用機関銃であり、
今でも多くの国の空軍に使用されています。
空冷式反動式で、初速はま1秒2800フィート、発砲速度は
毎分700〜850発です。
日本軍 HO-5 20MM 自動航空砲
HO-5は第二次世界大戦中の日本の優れた航空機関砲の一つでした。
ちなみにこれは「エイチオー」ではなく「ホ」と読みます。
(ということは陸軍の装備だな)
ホ5(2型)砲は、1型機関銃をスケールアップして設計された優れた武器で、
陸軍機の固定武器として広く使用されました。
ブローニング社製のショートリコイルアクションを採用し、
分解可能なベルトから給弾される仕組みです。
既存の航空機に搭載されている1式機関銃の代わりになることを期待して、
可能な限り小型軽量化されています。
性能だけで言うと第二次世界大戦中の20mmの中で最高ともいえる銃でしたが、
悲しいことに、製造当時の日本国内での品質管理の悪化により、
カートリッジに火薬が十分に充填されていなかったため、
完全に充填されたカートリッジで可能な秒速820mが出せませんでした。
この銃は主に固定武器として使用されたのですが、1型と同様の
クレードル搭載型のフレキシブル・バージョンも一応製造されました。
(ただし、ほとんど使用されなかったということです)。
ということで、優秀な日本の武器がいきなり登場して驚かされることになりました。
■ 護衛戦闘機の台頭
「エスコートファイター」を日本語にすると、「直掩機」となります。
直掩機とは、敵航空機を迎撃して味方艦船や飛行場を守ったり、
味方の航空機を掩護して戦闘空中哨戒を行う航空機です。
直掩機が台頭してくるのは1943年のことです。
それまでのアメリカとイギリスの空軍力では、戦闘半径800km以上の
シングルエンジンを搭載した戦闘機の設計が可能だとは信じられていませんでした。
イギリス王立空軍はドイツ軍の空爆を防衛するために夜間爆撃にシフトし、
アメリカ空軍の日中爆撃部隊は1943年後半には大きな損失を受けて敗北寸前。
そこでP-38「ライトニング」とP-47「サンダーボルト」戦闘機に増槽を搭載し、
さらに多数の典型的な護衛戦闘機、P-51「マスタング」を投入してルフトヴァッフェを阻止しました。
かたやそのドイツ軍はバトル・オブ・ブリテンですでに護衛戦闘機を実験していました。
しかしながらメッサーシュミットBf109は航続距離が短すぎ、双発のBf110は
RAFのハリケーンにもスピットファイアにも対抗できませんでした。
というわけで、ドイツ軍も長距離護衛戦闘機なるものは不可能だと諦めていたため、
1944年、ドイツ上空に多数のP-47とP-51が出現したことは彼らにとっても衝撃でした。
1944年初頭、B-17フライングフォートレスを援護して飛ぶP-47サンダーボルト。
P-51も1944年から45年にかけてアメリカ陸軍航空隊の爆撃任務を援護することで
数多くの功績を残しましたが、増槽を装備したP-47は、1944年春の大空中戦で
ドイツの戦闘機のほとんどを撃墜するという実績を挙げています。
Air Battles Over Europe (1944)
ニュース解説ではサンダーボルトとマスタングについても言及しています。
Dーデイ、1944年6月6日、ノルマンディ侵攻の際撮られたと言われている写真。
保守要員が金属と含浸紙(薬液などを吸収した保持材)でできた増槽を用意して
待機する基地に、第361戦闘機群 第375戦闘機隊のP-51ムスタングが帰投します。
画像の上下左右に見えているのはガイドで、これはガンカメラショットです。
1944年3月、2機のP-47サンダーボルトがBf110を撃墜しているところで、
写真を撮っているP-47からの攻撃はBF110の左翼に命中しています。
■ドイツ空軍の敗北
西ヨーロッパへの侵攻への道を開いたルフトバッフェの決定的な敗北は、
1944年2月下旬の「ビッグウィーク」から始まりました。
アメリカ航空隊は地上と空中でドイツ空軍を破壊することを目的として、
ドイツの航空機産業プラントやその他重要な目標に対して、
ほぼ連日激しい爆撃を繰り返し仕掛けました。
それを可能にしたのは増槽の搭載と護衛戦闘機の増加です。
「ビッグウィーク」と呼ばれる空戦とそれから3ヶ月間に渡った空中戦は、
主に「パイロットを消耗する(殺害する)」ことによって、ゆっくりと、
しかし確実にルフトバッフェの戦闘機防衛力を打ち砕いていきました。
そして5月までにドイツの本土防衛の準備とその戦闘能力は劇的低下し、
イギリスを苦しめていた夜間爆撃のオペレーションにおいてすら、影響をもたらしました。
そして連合国がD-デイでフランスに侵攻したときには、
ドイツの空軍力は連合軍にとってほとんど脅威とならなくなっていたのです。
続く。
本機が活躍する数少ない映画の一つがロック・ハドソン主演の"Battle Hymn"(大空の凱歌1956)です。
大戦中誤爆で子供を殺したことを気に病んでいた主人公が、朝鮮戦争で戦災孤児の救済を通じて救われるという、アメリカ人好みのストーリーです。無論、合間に北朝鮮軍を殺しまくったり、韓国人女性とイチャついたりしながらです('ω')ノ
爆弾や砲弾は「りゅう弾」(High Explosive)と「徹甲弾」(Armor Piercing)に大別されます。「りゅう弾」は柔らかい金属のカバーの内側に炸薬(爆薬)が入っており、目標に当たると爆発します。装甲に対する貫徹力はありません。一方「徹甲弾」は硬い金属で出来た弾で、炸薬は入っていないので、当たっても爆発はしませんが、装甲を貫徹します。
そんなのに威力があるのかと思われるかもしれませんが、空中を飛んでいる間、砲弾は空気抵抗しか受けませんが、装甲に当たった瞬間、急激な圧力を受けて圧縮され、装甲を抜けた瞬間、この圧力が解放されるので、金属塊が膨張し、破片となって、装甲の中に飛び散り、内部を破壊します。中に人がいると、バラバラになります。
飛行機は、出来るだけ軽く作るので、飛行機に対しては「りゅう弾」を使い、装甲で守られた戦車や軍艦に対しては「徹甲弾」を使います。
爆弾の場合、堅固な建物を攻撃するのか、工場や民家のような「柔らかい」目標を攻撃するのかで、どういう種類を使うのか決まって来ます。掩体壕のような頑丈な建物だと「徹甲弾」もうちょっと「柔らかい」建物だと「りゅう弾」(汎用爆弾)ですが、日本は木造建築が多いので、対日戦では「焼夷弾」と呼ばれる、高可燃性の爆弾も開発されました。後にベトナム戦争では「ナパーム弾」に進化しました。
信管は、砲弾や爆弾が発射(投下)から、どのような状態で爆発するかを制御します。「りゅう弾」には信管を付けますが「徹甲弾」は爆発しないので、信管はありません。
信管には「着発信管」(目標に当たったら爆発する)「時限信管」(決まった時間で爆発する)と「近接信管」(目標に近付いたら爆発する)があります。
「着発信管」は説明不要だと思います。「時限信管」は「近接信管」が開発される前に高射砲(対空砲)で使われていました。敵機に直接当てるのは難しいので、敵機まで砲弾が到達する時間を計算し、それを設定して爆発させ、直撃しなくても、近傍爆発で敵機に損害を与えられるという考え方でした。
「近接信管」は、信管が電波を出して、目標の近傍を通過すれば爆発する仕組みで、言わば小型のレーダーなので、第二次世界大戦中に開発されました。ご存じのようにアメリカが成功しましたが、日本は開発出来ませんでした。現在、高射砲(対空砲)の信管はすべて「近接信管」です。
「時限信管」は、意図的に目標の上空で爆発させるために使われます。特定の建物を壊すのが目的の場合「着発信管」の方が有利ですが、特定の建物だけでなく、周囲まで広範囲に破壊したい場合には、当てるより上空で爆発させた方が、広範囲に衝撃波が発生するので、効果が高くなります。広島の原爆も長崎の原爆も、この方式です。人間はえげつないことを考えるもんだと思います。総合火力演習で、りゅう弾で「富士山」を描くのも「時限信管」で、細かく爆発する時間を設定して出来ることです。