◎三位一体が四位一体に変容
聖母被昇天は、19世紀に無原罪のお宿りがカトリック教会に認められ、さらに1950年に一歩進めたものだった。C.G.ユングですら聖母被昇天というのは、神聖結婚(天国と地獄の結婚)の重要な要素であるにもかかわらず、肉体自体が聖なるものに転化するという望みを捨てていないことに驚かされる。これは、彼が錬金術が黄金という物質を最後の最後まで追い求める姿勢が連綿として変わらないことに影響を受けてしまっているせいかと思う。
歴代錬金術師の中で、錬金術の目的が黄金変成でなく、悟りを求めるものだという見解に立っているのは意外に少ない。それが証拠に無数の錬金術師は、一生の間、全財産を費やし薪・石炭などの燃料を買い水銀や硫黄などの素材を集め、実験に継ぐ実験を繰り返し、最後は文無しに陥るのが常だった。
ユングはそうした例をいくつも見ているから余計に肉体や物質自体が聖なるものに転化するという奇蹟を信じていたのだろう。
イエスの弟子トマスは、イエスの槍で破られた脇腹に手を入れさせてもらってようやく信じた。その姿勢を科学的とか疑り深いというのはたやすいが、その心性は西洋人の深いところに根差すものであり、それが産業革命以来の物質文明発展の原動力になったが、むしろそれは、神、聖なるものを素直に直観しにくいという心性と裏腹であるように思う。
よって、キリスト教では最初に原罪という自分は罪人であるという心的プレッシャーを置かずには、最後の悟りまで突破できないという特徴がみられるのではないかと思う。
釈迦は、馬の中でも実際に鞭に叩かれなくても鞭を見せるだけで走るのが良い馬だと譬えたが、そういうこと。
聖母被昇天は、素朴なキリスト教信者にあっては、マリアは肉体のまま死亡したのか、エノクとエリヤのように生きたまま天に上ったのかという疑問や、肉体のまま死亡したのであれば、苦痛を感じつつ死んだのかなどという疑問などいくらでも突っ込みポイントが出てくる。
だが聖母マリア被昇天の本丸は、完璧な四位一体が成ることで、三位一体が四位一体に変容し、えり好みをしない、反対物の一致、聖なる結婚が公式にあることを認めたということではないのだろうか。
聖霊(鳩)
キリスト + 父なる神
聖母マリア