アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

松尾芭蕉-3-あわれ

2023-11-18 03:33:11 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-21

◎青春期の水平の道-20

◎松尾芭蕉-3-わび、さび、あわれ-3

◎あはれ

◎無念になりきる

 

野ざらしを 心に風のしむ身哉(かな)

(芭蕉)

悟ったからには、あらゆるものが未知の世界である。それが野ざらし。秋の野ざらしの風は、ことさらに心にしみる冷たさである。

 

塚も動け 我が泣く声は 秋の風

(芭蕉)

これは、松尾芭蕉が来らんことを久しく待望していたが、ついにその夢が叶わず先になくなってしまった俳人一笑の墓(塚)に詣でた時の句。芭蕉としての立場なら、さあファンである貴殿の待ち焦がれていた私がやってきたぞという死者への手向けの気持ちが句になっただろう。ここはそうではなくて、芭蕉が、不遇のうちに亡くなった一笑の無念になり切っている。

これは、自分を棄てることにためらいがない人でないと、なかなかこうはなれない。これが芭蕉のあはれ。

 

やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

(芭蕉)

これは蝉の声ではなくて、人の声でも同じ。蝉は地上に出てから6日くらいで亡くなる。人もせいぜい平均寿命で言えば90歳弱。蝉の間断ない声の長さの中に入り込み、その一生を直観してしまったのだ。蝉の一生の無力さ、たよりなさに、自分の一生も引き当てて見ている。

人間は、何一つ自分の思うとおりになりはしない。これがもののあはれ。

それでも何の問題がないことを知るのが悟り。芭蕉はそれを知っていた。

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