平成28(2016)年12月29日(木)
大阪環状線に乗って天王寺区の玉造駅へ。
ここで降りたのは、オマエさんに会いたかったからなのだよ!→
もっと言うならば、この年末の旅に大阪巡りを取り入れたのは、珍しく大河ドラマに熱を上げた「真田丸」の余韻に浸りたかったから。
夏にも長野県上田(初編・2編)にも行ったのもあり、ミーハー感丸出し。
路面にシールが貼られていますが、ここは「真田幸村めぐルート」といい、区のアピールのために天王寺区が設けた真田幸村(真田信繁)ゆかりの名所・旧跡11ヶ所を辿るお散歩コースで、真田山と天王寺の2カ所のエリアに分かれています。
区の設定通りのコースを忠実にとはいきませんが、なるたけ多く見て廻るつもり。
まずは「真田丸」があったとされている真田山エリアへ。
三光神社→
創建は5世紀初めとされていますが詳細不明。
大坂の陣後の寛文元(1661)年に別の地に移転し、宝永3(1706)年にこの地に戻ってきたという神社。
ここがどう幸村とかかわるかというと・・・。
威風堂々、勝ち鬨を上げる幸村さん→
像の左の六文銭の盾が並んでいる下、石塁のようなものは幸村が大阪城まで掘らせたとされる「真田の抜穴跡」。
鉄格子に鍵がかかっていて中に入れませんが、せめて覗いてみる→
古墳の石室のようで、別にどーって事なし。
「真田まつり」のある日だけ(毎年11月の第一日曜日)開けられるようです。
↓本殿
私の訪れた約2か月前の「真田まつり」にお目見えした「幸村ねぶた」が厳つい顔して睨みを利かせております。
ここって「ブラタモリ」で出てきた坂でしたよね?→
↓坂を上ると心眼寺があります。
三光神社もそうでしたが、ここも大河ドラマに触発された?ミーハー観光客で大賑わい。
このお寺さんは元和8(1622)年に白牟(はくむ)という和尚さんが幸村親子を弔うべく建立。
大坂冬の陣から400年の3年前に作られたお墓→
江戸時代は幕府直轄領だとして、作ることを許されなかったお墓。
400という切りのいい数字は分かるけど、明治になって以降作られなかったのは何故なんだろう?
お寺さん正面にある明星高校・中学校脇の「真田丸顕彰碑」→
真田丸やそこでの戦いなどについて解説が書かれているのですが、文字が小さくてとても読みにくいし。
真田山を去って大阪上本町駅前を通ります→
近鉄のターミナル駅で、ここに来るのは初めて。
来る前は渋谷や浅草などの関東大手私鉄のターミナル駅周辺のようなものを想像していたのですが、思ったよりも都会じゃなかったのには拍子抜け。
↓〔52〕大阪府大阪市天王寺区役所
かなりレトロな建物。
↓天王寺区の由来となった「四天王寺」にもちょっと顔を出してみます。
聖徳太子が物部守屋との戦いに前に四天王に祈り、その結果勝ちを収めたので推古天皇元(593)年に建立。
台風や空襲などでの大被害を受けるも、そのたびに復興され、現在ではほぼ元の通りに戻ったという。
「和宗総本山」を名乗っている四天王寺ですが、その意味するところはどの宗派の人でも参詣できるという事。
↓四天王寺の代名詞とも言える中心伽藍に入るとお金を取られるので、ここは眺めるだけ(左・金堂、右・五重塔)。
夏の陣ではこの石鳥居前で決戦が行われたという→
それよりも、幸村とはあまり関係のない、こちらさんを拝んだ方がいいな→
一見なんてことない中小っぽいこの会社は、社寺建築を主目的とする「金剛組」さん。
でも失礼ながら見かけとは裏腹に日本が誇る偉大な会社なのでありまして、何とビックリ仰天、敏達天皇7(578)年に創業された世界最古の超ウルトラスーパーご長寿企業なのであります。す、素晴らしすぎるではありませんか!
私も一介の商売人なので、長く続くようあやかるべく人目もはばからずお店の前で手を合わせる。
通りがかった人はこんな所で何をやっているのだと、さぞかし訝しがったと思うけどね。
参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
大阪環状線に乗って天王寺区の玉造駅へ。
ここで降りたのは、オマエさんに会いたかったからなのだよ!→
もっと言うならば、この年末の旅に大阪巡りを取り入れたのは、珍しく大河ドラマに熱を上げた「真田丸」の余韻に浸りたかったから。
夏にも長野県上田(初編・2編)にも行ったのもあり、ミーハー感丸出し。
路面にシールが貼られていますが、ここは「真田幸村めぐルート」といい、区のアピールのために天王寺区が設けた真田幸村(真田信繁)ゆかりの名所・旧跡11ヶ所を辿るお散歩コースで、真田山と天王寺の2カ所のエリアに分かれています。
区の設定通りのコースを忠実にとはいきませんが、なるたけ多く見て廻るつもり。
まずは「真田丸」があったとされている真田山エリアへ。
三光神社→
創建は5世紀初めとされていますが詳細不明。
大坂の陣後の寛文元(1661)年に別の地に移転し、宝永3(1706)年にこの地に戻ってきたという神社。
ここがどう幸村とかかわるかというと・・・。
威風堂々、勝ち鬨を上げる幸村さん→
像の左の六文銭の盾が並んでいる下、石塁のようなものは幸村が大阪城まで掘らせたとされる「真田の抜穴跡」。
鉄格子に鍵がかかっていて中に入れませんが、せめて覗いてみる→
古墳の石室のようで、別にどーって事なし。
「真田まつり」のある日だけ(毎年11月の第一日曜日)開けられるようです。
↓本殿
私の訪れた約2か月前の「真田まつり」にお目見えした「幸村ねぶた」が厳つい顔して睨みを利かせております。
ここって「ブラタモリ」で出てきた坂でしたよね?→
↓坂を上ると心眼寺があります。
三光神社もそうでしたが、ここも大河ドラマに触発された?
このお寺さんは元和8(1622)年に白牟(はくむ)という和尚さんが幸村親子を弔うべく建立。
大坂冬の陣から400年の3年前に作られたお墓→
江戸時代は幕府直轄領だとして、作ることを許されなかったお墓。
400という切りのいい数字は分かるけど、明治になって以降作られなかったのは何故なんだろう?
お寺さん正面にある明星高校・中学校脇の「真田丸顕彰碑」→
真田丸やそこでの戦いなどについて解説が書かれているのですが、文字が小さくてとても読みにくいし。
真田山を去って大阪上本町駅前を通ります→
近鉄のターミナル駅で、ここに来るのは初めて。
来る前は渋谷や浅草などの関東大手私鉄のターミナル駅周辺のようなものを想像していたのですが、思ったよりも都会じゃなかったのには拍子抜け。
↓〔52〕大阪府大阪市天王寺区役所
かなりレトロな建物。
↓天王寺区の由来となった「四天王寺」にもちょっと顔を出してみます。
聖徳太子が物部守屋との戦いに前に四天王に祈り、その結果勝ちを収めたので推古天皇元(593)年に建立。
台風や空襲などでの大被害を受けるも、そのたびに復興され、現在ではほぼ元の通りに戻ったという。
「和宗総本山」を名乗っている四天王寺ですが、その意味するところはどの宗派の人でも参詣できるという事。
↓四天王寺の代名詞とも言える中心伽藍に入るとお金を取られるので、ここは眺めるだけ(左・金堂、右・五重塔)。
夏の陣ではこの石鳥居前で決戦が行われたという→
それよりも、幸村とはあまり関係のない、こちらさんを拝んだ方がいいな→
一見なんてことない中小っぽいこの会社は、社寺建築を主目的とする「金剛組」さん。
でも失礼ながら見かけとは裏腹に日本が誇る偉大な会社なのでありまして、何とビックリ仰天、敏達天皇7(578)年に創業された世界最古の超ウルトラスーパーご長寿企業なのであります。す、素晴らしすぎるではありませんか!
私も一介の商売人なので、長く続くようあやかるべく人目もはばからずお店の前で手を合わせる。
通りがかった人はこんな所で何をやっているのだと、さぞかし訝しがったと思うけどね。
参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→
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