■ 「インフラ研究者」さんから有益なコメントを頂いた ■
何故か当ブログ一の人気記事になってしまった三橋貴明には気をつけろ・・・「日本はこんなもんじゃない」という幻想に、「インフラ研究者」と名乗られる方から有益なコメントを頂きました。
元々の記事は「年額20兆円の建設国債を継続的に発行して、日本のデフレを早期に終わらせろ」「国家の債務は国民の資産なのだから問題無い」と主張する三橋貴明氏や、それに同調するネトウヨ諸氏に危機感を抱いて書いた記事なので、誇張をして書いた部分も多くあります。
正確にまとめられるか自信が有りませんが、だいたいこの様なご意見を頂きました。それぞれ尤もな内容で反論の余地は少ない。
1)>景観を損なってまで高い防潮堤が必用か?(私)
日本は津波の危険に絶えずさらされているので津波対策は国防同様に不可欠である
2)>避難訓令の徹底の方が有益では無いか(私)
防災インフラは人命と生産設備を守るので、被災した場合の補償や復興費用も含めた
総合的な費用対効果の観点でストック面からも防災インフラに掛かるコストを論ずる
必要ある
3)>防災インフラ完成前に災害が襲う場合もある(私)
既存の全ての防災インフラは、整備途中に災害が襲って来るリスクの中で整備された
4)>防災インフラ完成前に財政が破綻するケースもある(私)
財政赤字の主要因は社会保障コストであり、債務残高1200兆円に対して建設国債
の発行額は6兆円にすぎ無い。債務のリバランスを優先している間にも災害による損失
が度々発生する法が問題である
5)>高齢化が進行する日本でこれ以上のインフラは不要(私)
将来に向けて早めにインフラの質を高め,一人あたりの生産効率を高めるおくことが必用
「ウン、ウン」と頷きながらも、でも、東北沿岸に出現した巨大な防潮堤に何か「違和感」を禁じ得ない自分が居ます。ここは、頭のネジの緩んだ陰謀論のブログですから、多少極論になりますが「違和感」の原因を探ってみたいと思います。
■ 拡大によって充実してきたインフラ ■
古代より日本人は人口の増加に伴って居住地を広げ、耕作(生産)地域を拡大して来ました。
明治時代に入ると国家事業としてインフラ整備が国策となり、近代的な技術による治水工事や、海岸の護岸工事などが全国で行われます。
1) 災害危険地域に防災インフラが整備される
2) 災害危険地域も居住や生産設備の整備が可能になる
3) 技術や想定を上回る災害によって防災インフラが破壊される
4) さらに高性能な防災インフラの整備で災害リスクを低減する
人口が増加する時代、人々は居住可能、或いは生産可能な地域を次々に広げて行きますが、拡大する税収がインフラの整備コストを負担して来ました。
■ 経済が拡大する社会では正当化される整備コスト ■
防災インフラの歴史は自然との闘いです。当時の最先端の技術で建造されたインフラですが、限界を超える災害が起きる度に破壊され、さらに最先端の技術で再構築されて来ました。
ある時点までは、整備される防災インフラが守る人命や製造設備は拡大を続けますから、防災インフラ整備(再整備)の費用対効果は適切な範囲に収まります。
■ 費用対効果が低下する人口減少社会 ■
防災設備は老朽化したり、災害で破壊される度に、以前よりも高い安全基準で更新されてきました。当然、整備コストは増大します。
一方で、人口が減り、産業が衰退する地域では、防災インフラの守る人命も財産も縮小を始めます。顕著な例が山奥の限界集落です。そこに至る生活道の素掘りトンネルが崩落の危険を生じて、現代的なコンクリートのトンネルになったとしても、その先に住む人達が80才以上の老人10数人しか居ない・・・。こんな地域も有るでしょう。10年後にこの集落は放棄されているかも知れません。
■ 災害が「権利の放棄」のスクリーニング機能を持つ時代 ■
人々は先祖伝来の土地を守りたいと考えていますし、住み慣れた土地を離れて暮らす事にも抵抗が有ります。明治以降に急拡大した居住地や耕作地などでも、数世代居住した地域には愛着や義務感が生じます。特に定住指向の強い日本人は欧米人の様に簡単には移住しません。
ところが、一度巨大災害が起きると状況が変わります。東北沿岸の被災地なども良い例で、巨大な防潮堤が完成しても、そこに住む人が激減してしまっている・・・。
人口が増加する時代であれば、防潮堤が完成してある程度の安全が確保されれば、人々は自然に元の場所も戻って来ます。或いは新しい住人が流入します。しかし、人口が減少する社会では、安全性が確保されても人口が回復しません。「そこよりも条件の良い何処か」の土地や家屋が余っている時代に、大規模な災害やその記憶は移住の動機として十分だからです。
さらに復興に掛かる時間が移住を決意する人を増やします。
■ 「財政の限界によるスクリーニング」の時代がやって来るかも知れない ■
現在は「ゼロ金利国債を日銀が引き受ける=財政ファイナンス」によって財政の維持が容易な状況です。
ところが一度金利上昇が発生したら、「ぬるま湯財政」は一気に崩壊します。インフラ整備よりも人々の生存権が優先されますから、拡大し続ける福祉コストによって、ますます公共事業は縮小を余儀なくされます。
老築化が進んだインフラの更新もままならなくなり、優先度が低い物から放棄され始めるでしょう。そうなると・・・不便な地域、危険な地域から人々はだんだんと消えて行きます。
「財政の限界によるスクリーニング」が発生するのです。
■ 「財政破綻」という強制執行 ■
平常時に国家や行政は国民の権利と財産を最大限守ろうと努力します。50年に一度、100年に一度の災害を想定して防災インフラを何十年の計画で整備し、過疎地域のインフラも出来る限り維持しようと努力します。
一方で財政破綻が一度起こると、国家は「暴力的までな合理性」に支配されます。「無理なものは無理」という当然の判断の元に、多くの物が切り捨てられて行きます。夕張市を見れば明らかです。人々に残された選択肢は「残って耐えるか、移住するか」となります。
何だか暗ーい気分に陥って来ましたが、そんな未来を想定しながらも、行政は拡散型のインフラ整備を「その日」がやって来るまでは止められません。
東北の海岸に出現した城壁の様な防潮堤の写真を見るにつけ・・・・何か、もっとマシな方法は無いのか・・・そう心がザワついてしまいます。