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日本はブータンになれるのか・・・「国民総幸福量」

2011-11-22 09:13:00 | 分類なし
 



■ 「ブータン」ブーム到来? ■

ブータン国王夫妻が新婚旅行で来日され、
その穏やかな笑顔が、日本中で話題です。

きっと、ワイドショーを見た田舎の不良だってこう言っているでしょう。

「ブータン王妃、ッパねーす。マジ、かわぃース。
 それに国王、マジ、すげぇース。
 マジ、猪木ッス。ちょー強そース。」

渋谷の女子高生は、こう言っているでしょう。

「ブータン、マジ、やばくねぇー。
 私だって、王妃になれるっつーの。
 でも、ちょっと、よクネェー。
 マジ、みんな幸せとかって、うらやましくねぇー。」

TVの前のおばあちゃんは、こう言っているでしょう。

「日本だって昔はこうだったよ。
 私がジーさんと結婚した時には、
 新婚旅行は熱海だったよ。」

・・・すみません、私も新婚旅行は熱海でした。
防波堤で、「オッレがカミサン連れて逃げた時、カミサン16歳だったよ」
と話してくれたヤクザのオッサン、元気にしてるかな・・・。

■ 「国民総幸福量=GHN」 /■

ブータンは世界の最貧国の一つです。

ネパールと中国、インドに囲まれた山岳国家で、
チベット仏教を信仰する、農業国です。

「ブータン」というのは、サンスクリット語で「高い所」を意味する
「ブーウッタン」を語源にする説があり、
ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶそうです。
「ドゥック宗派」という意味です。

ブータン国王夫妻の来日と共に話題になったのが、
ブータン国王が掲げる政策、「国民総幸福量」です。

最貧国のブータンではGDPを国家反映のバロメーターとすると、
「ブータン国民は不幸」という評価になってしまいます。

そこで前ブータン国王が提唱したのが「国民総幸福量」
(Gross National Happiness, GNH)という概念です。

<Wikiから引用>

2年ごとに聞き取り調査を実施し、人口67万人のうち、
合計72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い、
8000人のデータを集める。

これを数値化して、歴年変化や地域ごとの特徴、年齢層の違いを把握する。

国内総生産(GDP)が個人消費や設備投資から成り立つように、
GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、
7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素がある。

GDPで計測できない項目の代表例として、心理的幸福が挙げられる。

この場合は正・負の感情(正の感情が 1.寛容、2.満足、3.慈愛、
負の感情が 1.怒り、2.不満、3.嫉妬)を心に抱いた頻度を地域別に聞き、
国民の感情を示す地図を作るという。

どの地域のどんな立場の人が怒っているか、慈愛に満ちているのか、
一目でわかるという[

<引用終わり>

国民の主観評価で「幸福度」を計る方法で、
一種の世論調査とも言えますが、
政策に対する評価を聞き取るのでは無く、
「感情」を聞き取り調査する事に特徴があります。

「寛容・満足・慈愛」という正の感情と、
「怒り・不満・嫉妬」という負の感情のバランスを集計しています。

■ 近代社会へのアンチテーゼ ■

近代化や工業化は人々を幸福にしてきました。
飢餓や病気の不安、生活の不安から人々を解放してきまいた。
ところが反動として、人々は快適な生活を失う事という大きな恐怖に支配されます

これはブータンの様な最貧国から見れば贅沢な悩みですが、
一度味わった贅沢を、人々は手放す事を恐れます。

一方、ブータンは山がちな国土で、
工業化の様な発展とは疎遠な国です。

1949年までイギリスの保護下に置かれ
それ以降1974年まで「鎖国」していました。


「開国後」も「鎖国的」な政策を取り続けています。
当然近代化はアジアの他地域よりも立ち遅れています。

言うなれば「国民総幸福量」とは、
低いGDPに対する不満の捌け口とも言えます。

ところが、実際にブータン国民の、45.1%が「とても幸福」、
51.6%が「幸福」と回答しているそうです。(2005年の国政調査)

これは「近代化による幸福論」に対する大きなアンチテーゼとして注目されています。

■ システムとしての「伝統」 ■

ブータンは、「国民総幸福量」を維持する為に
全体主義的政策を施行しています。

民族衣装の着用を義務付け、
伝統を重んじる様に、国民を教育しています。
 
開国とともに流入する「近代化」という価値観に対して、
「伝統と習慣」をシステム化する事で対抗しています。

ネットで見つけたブータンの少年達の写真を紹介します。




良く見ると、みんな黒のハイソックスをはいています。
おっと、背中にはデイパックを背負っています。
写真の背景には自動車が写っています。
彼らに学ランを着せたら、まんま日本の田舎の中学生です。

ドウヤラブータンは、昔のままの生活をしているというのは、
彼らが着用すいる民族衣装によるイメージの影響も大きい様です。

さて、比較する為に日本の明治時代の写真を載せます。
白黒だと差が明確すぎるので、着色された写真です。



日本の明治時代の方が貧乏そうですね・・・。
ブータンと言えども、近代化の恩恵は受けているのでしょう。

ブータンの「幸福」は、近代化の拒否によて生まる訳では無さそうです。

■ 「幸福」とは比較によって生まれる ■

人は「幸福か?」と問われると、
周囲の人と比較して「自分は誰々よりも幸福」だとか、
「誰々よりも不幸」だと考えて答えを出します。

「幸福」とは「比較によって生まれる概念」だからです。

そこでブータンが採用したレトリックは、
幸福を「相対的価値」から「絶対的価値」に変更した点です。

元々、仏教国であるブータン人は「足ること」を知る国民です。
「寛容・満足・慈愛」「怒り・不満・嫉妬」を彼らに問うた時、
それは生活に関する質問では無く、宗教的で精神的な質問となります。

聞かれた彼らは、自分の心の底を覗きながら、
宗教的回答として「自分は幸福である」と答えます。

これは、日本の世論調査と対照的です。
世論調査で「幸福か」と聞かれたた、
日本人の多くは、「自分がこんなに不幸なのは、政府や国のせいだ」という怒りを込めて、
「とっても不幸である」と答えるでしょう。
我々は「自分の心に問う」のではなく
「社会」という外的要因から、「幸福」を判断するのです。

ブータンの「幸福」は主観的であるのに対し、
近代国家の「幸福」は、客観的を通り越して、既に客体化しています。

自分の中に無い「幸福」を求めるのですから、
近代国家の国民に「幸福」は訪れる事はありません。


■ 日本は「ブータン」になれないのか? ■

TVで流される穏やかなブータンの日常を見て、
多くの日本人がノスタルジーと共に、ブータンに憧れます。

「受験戦争なんて無いんだろうなぁ・・・」
「満員電車の通勤も無さそうだ・・・」
「一日のんびり過ごせそうだ・・・」

受験戦争の前に、進学率が引くいのです。
満員電車の前に、鉄道が無いのです。
のんびり過ごすから、GDPが低いのです。

TPP論議の中で「鎖国」という言葉が良く持ち出されますが、
今の日本が「鎖国」すれば、生活レベルはブータンへと戻って行きます。

ところが、一度足る事を知った日本人は、決して「満足」や「幸福」を感じません。
日本に自分より富める人が居る限り、幸福は彼らの物であり、不幸は自分の中にあります。

■ 足る事を知る日本人 ■

それでも私達は多くの「足る事を知る日本人」に出会います。

路上で生活する方達です。
彼らは満員電車に揺られることも無く、
のんびりと、一日を過ごします。

食べ物は、コンビニのゴミ箱にあります。
空き缶を集めれば、飲み代だって捻出できます。
尤も、最近は空き缶の争奪戦で、縄張り争いが激しいようです。

しかし、現実に存在する「足る事を知る日本人」も「不幸」です。

■ 「幸福」はどうしたら生み出せるのか ■

ブータン人が自分達を幸福と感じる事は確かな様です。

その最大の要因は「チベット仏教」でしょう。
独特の死生観を持つチベット仏教で現世とは虚ろな存在の一つです。

流転する生命の、一時期を人としてこの世で存在するという仏教思想では、
「次の生」が約束されていますから、現世にそれ程執着しません。
「次の生」がカエルかも知れませんが、それは世の理だから仕方ありません。

この様に、「現世の絶対性」が希薄な社会では、
人々は凡そ「幸福」を感じています。
医療が発達していないだけに「死」も身近な存在です。
だから、「今日生きている事」すらも感謝すべき事と感じます。

要は、「幸福のハードルを下げれば」人は不幸から開放されます。
ニートやフリーターは、意外と「幸福に近い」人達なのかも知れません。

ただ、ニートやフリーターは、社会と隔絶している点において、
やはり「幸福」から遠い存在です。

■ 「原始的共同体」と「宗教」 ■

結局、人が共同体に所属して、共同体の中で差が存在せず、
貧しさを肯定する宗教を共有している事が、
「幸福」を生み出す条件となります。



・・・これって、「オーム真理教」に近くないでしょうか?
近代化の恩恵を一度でも味わった人間達が、
かつての方法論で「幸福」を追求すると、
その結果は、意外とグロテスクなのかも知れません。

彼らは「幸福を実現した」と主張しますが
自分達が「幸福で無い」事を理解していますから、
「幸福の比較対象である社会」を消去し、
「社会を不幸に陥れる」事で、相対的に自分達の幸福を得ようとしたのです。


■ 「幸福」の追求は、意外と「不幸」を招く ■

ブータン国王の来日をきっかけに、
日本でも「真の幸福」を問う気運が生まれています。

しかし「幸福」とは意外と「不幸」の入り口だったるするのです。

日本の貿易収支がまたしても赤字になっています。
我が家の鳥かごの中の「青い鳥」を逃がさない注意が必要ですが、
決してそれが「鎖国」では無い事に、国民は気付くでしょうか?