■ あまりの事に頭が混乱している・・・ ■
「魔法少女」のアニメなんて、日曜の朝に小学生の娘と見る番組だと思っていた。
「おジャ魔女どれみ」シリーズや、「プリキュア」のファーストシーズンは、大人が見ても良く出来ていて、このジャンルは侮れなかったりもする。
それでも「魔法少女」ものは、「サリーちゃん」や「メグちゃん」の時代から、女の子の夢の安直な反映であり、一部の大きなお友達の「逃避」の場でしか無かったのも事実である。
「魔法少女」ものから、アニメの歴史を塗り替える様な作品は、生まれる訳が無いのである。・・・そう信じていた・・・。
前期のアニメ、「魔法少女まどか☆マギカ」は、その絵柄からも、45歳の大の大人が見る様な番組では無いと思っていた。
それでも今をときめく「新房昭之」のオリジナルなので、チェックだけしようと思い、昨日1話目から見始めた。・・・・今、全12話を見終わって、はっきり言って私は混乱している。
「魔法少女まどか☆マギカ」が、近年日本アニメが越える事の出来なかった「エヴァンゲリオン」を、明らかに凌駕している事を、私は認めざるを得ない。
そして、「新房昭之」の才能を前にして、私は絶望感を噛締める・・。天才と凡人の差に、ただ打ちひしがれる。
■ それは「普通」の顔をして現れる ■
「魔法少女まどか☆マギカ」は、普通の「魔法少女」ものの姿をまとって始まります。
たいした取り得のない中学生の「まどか」は夢の中で悪魔と戦う魔法少女「ほむら」と出会います。そして、「ほむら」は転校生として「まどか」の前に現れて、警告します・・。
「あなたが家族や友人を大切に思っているならば、今とは違う自分になろうだなんて、思わない事ね。さも無くば全てを失う事になる。」と。
ここからはネタバレです。見る予定の方は読まれないように!!
(ネタバレでもしないと、「人力さん、とうとう狂った」と言われそうなので)
少女達はは謎の小動物インキュベーターと契約を交わして「魔法少女」となります。
願い事を一つ適える代わりに、「魔法少女として魔女を狩る者」となるのです。
「魔女」とは人間の妬みや苦しみの象徴であり、人に負の感情を芽生えさせ、不幸を為すと説明されます。
新房の作り出す異界のイメージは斬新です。「化物語」でも見せた実写を平面的に用いる手法で、イメージを増幅させてゆきます。
そして、その中で戦う「魔法少女」達の何と凛々しく優雅な事か。
踏み出されたつま先の動き一つ一つに、このジャンルが積み上げてきた歴史を感じます。
■ ダークな側面を持つサブヒロイン ■
物語は次第に、普通の「魔法少女」から、「ダークな魔法少女」に変調してゆきます。
「ダークなヒーロー」を演じる「ほむら」が、魔法少女としては斬新です。
凡百の魔法少女もので無い事に視聴者は戸惑いを感じ始めます。
そして、3話目で視聴者は「魔法少女の死」に直面します。
こんなのあり得ません。だって、「魔法少女」は女の子の憧れです。決して血を流す事も無く、敵を殺す事も無く、魔法によって世の中を浄化するものと、相場は決まっています。
■ ダークサイドに落ちる魔法少女 ■
インキュベーターは「まどか」と親友の「さやか」に魔法少女になる事を勧めますが、強要はしまんせん。2人とも「願い」を決めかねているうちに、目の前で「マミ」が死に、願いの代償の大きさに2人は愕然とします。
しかし「さやか」は事故に逢った幼馴染の少年の回復を願って、「魔法少女」になります。「皆の願いを叶えたい」と思う「さやか」は戦いの中で、ある不審を抱きます。・・・「自分は既に死んでいるのでは無いか」という不審を・・。
「さやか」はインキュベーターに問います。「私は何なのかと・・」。インキュベーターの答えは冷徹です。「生命の危機を最小にする為に、命は肉体の外にあり、体は痛みを感じる事すら無い」と。そう、「魔法少女」とは、既に「死んでいる」存在だったのです。魂は「魔法少女」の証であるソールジェムの中にあるのです。
「さやか」は少年に思いを打ち明ける事も出来ずに、戦い続け、その心を消耗してゆきます。「さやか」のライバルとして登場した「杏子」は、そんな「さやか」にかつての自分を重ねて、彼女を救おうとしますが、とうとう「さやか」は負の感情に呑まれてしまします。
ダークサイドに落ちた「魔法少女」は「魔女」へと変貌するのです。
「杏子」は悪魔となった「さやか」と刺し違える道を選びます。
全く救いの無い運命が彼女達にのしかかります。
■ 久遠を生きる「ほむら」 ■
「ほむら」の能力は時間を操る事。彼女は時間を止め、時間を遡行します。
「ほむら」は病弱な女の子でしたが、転校して「まどか」に出会います。
魔女の餌食となり掛けた彼女を救ったのは魔法少女の「まどか」と「マミ」。
しかし、その2人も「ワルブルギスの夜」という最大の危機に、あえなく負け、死に至ります。「ほむら」はインキュレーターに祈ります。「魔法少女」の代償として、彼女たちが出合った日に戻りたいと。
それから「ほむら」は幾百、幾千の1ヶ月を繰り返します。
しかし最後は必ず悲劇で終わります。
幾千、幾百の願いも空しく、「魔法少女」達は、魔女になり、あるいは戦い死んでゆきます。
「ほむら」が「まどか」に寄せる親愛の気持ちが、「ほむら」を強くし、一方「まどか」を平行宇宙を螺旋的に束ねる「特異点」に変えてゆきます。
最強の「魔法少女」、そして「最強の魔女」としての「まどか」の存在は、「ほむら」によって作られたものだったのです。
■ 熱力学の第二法則を覆す「少女の力」 ■
インキュベーターが「魔法少女」を作り出す目的は科学的です。
彼女たちの「希望」が「絶望」に変わる瞬間に、熱力学の第二法則を逆行するエネルギーが得られるのです。
エントロピーの増大による「宇宙の熱死」を防ぐ唯一の手立てが、「感情のエネルギー」の生成と回収だったのです。
元々「感情」を持ち合わせないインキュベーターは、原始の地球に目を付けます。そこには「感情に溢れた」人類の祖先が生息していました。
それから、彼らは数え切れない「魔法少女」達を作り出し、人類の歴史に干渉し続けます。
クレオパトラが、卑弥呼が、ジャンヌダルクが、砂漠で祈る名も無い少女が、「魔法少女」として希望を胸に戦い、そして絶望の内に「魔女」へと遷移する過程で、インキュベーターに膨大なエネルギーを提供してきました。
インキュベーターは「まどか」に言います。「人が家畜の死を悲しむだろうか?」インキュベータにとっては魔法少女達は、エネルギーを生み出す道具でしか無く、それでも彼らは知的生命体としての彼女達に敬意は払って、決して魔法少女になる事は強要しないのだと・・・。
全くもって、救いの無い話です・・・。
■ 因果を超越する願い ■
「ワルブルギスの夜」お絶大な力の前に「ほむら」の戦いは苦戦を強いられます。
幾千、幾万の弾丸を、幾千、幾万の爆撃を彼女は繰り出しますが、歯が立ちません。
瀕死の「ほむら」の前に立つ「まどか」はインキュベーターに願います。
「過去と未来に渡って、魔女の誕生を防ぐのが私の願い」だと。
インキュベーターは驚愕します。それこそが、唯一因果の鎖を解く方法であると同時に、因果の法則が崩れた宇宙がどうなるか、インキュベーターにも予測不能だったのです。
「まどか」の願いは、幾千、幾万の宇宙に拡散し、幾億、幾兆の魔法少女達の「魔女化」を阻止します。その結果「まどか」は存在を越えた存在となり、実存も、そして存在したという記憶をも失っていきます。
時間を超越する存在の「ほむら」だけが彼女の記憶を留めています。
■ 新たな世界 ■
新たな世界に魔女は存在しません。魔法少女達は「根源的悪」と戦い、インキュベーターはそこからエネルギーを回収しています。しかし、希望と絶望のエネルギーに比べて効率は劣ります。
「ほむら」の話す「まどか」と「魔女」の話を、新しい世界のインキュベータは「興味深い仮説」と受け止めます。インキュベーターに「まどか」の存在を確認する手立が無いからです。まどかは既に、「高次の存在」として、新しい宇宙からは認識不能の存在となっているのです。
唯一「ほむら」だけが、「まどか」を記憶にとどめています。
「まどか」という神を認識で出来る唯一の存在として・・・。
■ 「自己犠牲による救済」という普遍のテーマ ■
中盤以降、物語はダークファンタジーの色彩を強めて行きます。
類似する作品は、「灼眼のシャナ」でしょうか。
「自己犠牲による救済」の物語は、「小林靖子(脚本家)」が得意とするジャンルです。
「メガレンジャー」「銀河マン」という東映の戦隊物に新風を吹き込み、「仮面ライダー電王」で従来の仮面ライダーのイメージを木っ端微塵にし、「灼眼のシャナ」や「ウィッチブレイド」で素晴らしい世界を築き上げた「小林靖子」の向こうを張る、「自己犠牲と救済」の物語として秀逸です。
この形式の物語は、神話の時代から数々の作品があり、物語のステロタイプとも言えます。
多くの日本のアニメがこの形式を踏襲する中で、その多くは「救済の本質」や「その先の世界」を描き切る事が出来ませんでした。
「魔法少女まどか☆マギカ」は、物語の語り部たる「ほむら」が主人公と言っても過言で無い作品です。新しい世界を「ほむら」の眼を通して描く事で、「救済の先にある世界」の価値を視聴者は理解します。
世界は少ししか代わりませんが、それでも少しマシな姿に変容しています
この事こそが、この作品を名作たらしめる全てでは無いでしょうか。
魔法少女達は相変わらず不幸ですが、それは救いがたい不幸では無くなっています。
■ 全てのSFと全てのアニメを越える「魔法少女」 ■
SFは「永遠」や「無限」をテーマにした作品を数多く生み出してきました。
近年ではグレッグ・ベアーの「久遠」が思い当たりますし、日本のSFの名著、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」は永遠の観察者を描いた話としては「魔法少女まどか☆マギカ」に近い肌合いの小説です。
「涼宮ハルヒの消失」や、「エンドレスエイト」も時間遡行としては良く出来た話ですが、このジャンルの根底を覆すスケールと発想は持っていません。
一方、「世界の消失と、個人の思念による再構成」という話では、「エヴァン・ゲリオン」が最右翼ですが、エヴァは「未来への希望」を失ったままで宙ぶらりんです。
手塚治虫の「火の鳥」も、主人公は再生の主体ではありません。
これら戦後のSFやアニメや漫画で繰り替えされた、永遠と再生の物語は、「再生の主体が不在」の為、主人公は運命に翻弄されるだけの存在でした。歴史の観察者であっても、神にはなれない存在なのです。
唯一、エヴァンゲリオンの碇シンジだけが、再生の主体ですが、彼は目的を欠いています。
彼の「再生」は「進化の拒絶」の意味でしかありません。シンジはいつも決断を拒否します。
一方、「魔法少女まどか☆マギカ」の「まどか」の意思は明確です。最終話まで「魔法少女」になる事を逡巡していた「まどか」の願いは「単純」であるが故に、力強く世界を変えて行きます。
■ エヴァンゲリオンのその先の世界へ ■
「世界の破壊と再生の物語」は人類の永遠のテーマとして語り継がれてきましたが、私はこの作品で、それが新たなフェーズに突入した事を確信しました。
それは、1995年の「エヴァンゲリオン」の登場より止まっていた、SFとアニメの世界が、その先の世界へと新化する瞬間でもあります。
そんな、とてつも無い作品が「魔法少女」というジャンルから生まれた事に驚愕を隠せません。
多くの良識的な大人達が、TSUTAYAのカウンターで借りる事を躊躇するであろう、このジャンルから、この作品が生まれた事が、世界にとっては不幸ではないかと心配にもなります。
多分、「新房昭之」をしても、この作品を一生越える事は出来ないのでは無いかと。
・・・私達は二つの意味から、無限のトラップに落ちてしまったのかも知れません。
<追記>
物語のスケールの大きさや、個々のエピソードのSF的面白さ、世界設定の確かさにおいて、決して「エヴァンゲリオン」を越えるものでは無い「魔法少女まどか☆マギカ」が、何故「エヴァ越え」なのかという疑問を抱かれる方も多いのではないかと思います。
「エヴァ越え」とは、エヴァンゲリオンで「碇シンジが保留にした答えを提示している」という意味であり、「希望の光」が見えているという意味でもあります。
エヴァンゲリオンは「バブル崩壊」という「時代の閉塞感」を見事に表した作品でしたが、「魔法少女まどか☆マギカ」は、その「閉塞の出口を求める気持ち」を象徴しています。
無限にループするかの様なデフレスパイラルのその先が崩壊であるのか、発展であるのはは私達には知る由もありませんが、「世界はほんの少しだけ良くなる」という希望が、今の若者達の心に響いたのでしょう。
「エヴァ越え」とは作品の質やスケールを言うのでは無く、エヴァで立ち止まっていた世界が、その先へ進もうとするベクトルを指しています。