『あざみの歌』は まだ歌えますか

泣いて、笑って、歌って介護!!そんな日常の過去の記録と
新たに今一度自らを見つめてぼちぼちと戯言なりを綴ります。

その後・・・。

2006年12月08日 02時51分03秒 | 気付かなかった罪
あの~・・・ごめんなさ~い
うわわ、気がつけば八日間連続更新と言う快挙??・・・つ、疲れた~(どっちが?)
書き始めたら止まらなくなってしまって、連載小説みたいになっちゃいました
ここまで、忍耐強く読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
もしかして、暗い気持ちにさせてしまってたら本当にごめんなさい。


・・・というお話でした~っ
って言えたらいいんだけど、どうもこれが現実なのでどうしようもないのですが
ブログを始める時に、最初に書いておきたかった事なのに、
どうしても、少し書き始めた所で、書けなくなってしまってました。
思い出すのが、まだまだけっこうキツイ 

いや~、強いぞ私!って思ってたけど、まだまだ弱虫、泣き虫でしたの・・・おほほ


これを機会に、書いておきたかった事を少しまとめてみると、

アルツハイマーの初期の段階だったとしても、何かいつもと違った事が起きた時に、
突然に、昨日までは・・・いや、先程までは当たり前に出来ていた正常な判断が、
本当に突然に出来なくなってしまうという事が有り得るという事です。
全国で、行方が分からないままの同じ病気の方は結構沢山いらっしゃると聞きます。
伯母の場合、失禁も徘徊も一度も経験がなかったのに悲しい結果になってしまいました。
脳の中で起きている事って、きっとSF小説やファンタジー小説より、
もっともっと不思議な事なんでしょうね。

どこで何が起きるか分からない・・・見掛けが元気だけに、他人様からみれば分からないのです。
特に初期の頃は・・・だからこそ、事故の無いように・・・と、祈る気持ちです。

で、徘徊に関してですが「外へ出たい」という本人の気持ちを押さえ込むのはよくないそうです。
本人には「外へ出る理由」が必ずあるのだと、私も母を見ていて学ばされました。

けれど、母が何も持たず、鍵も開けたままでふらりと一人で家を出る事が多くなった頃、
「私も姉ちゃんみたいに水に入って死ぬの。」と、何度も言ったりしたもので、
私は外へ出す事が怖くて、必要以上に母を監視してしまいました。
(母のお気に入りの散歩コースが我が家の側を流れる川の河川敷でしたから)
それが、認知症の症状の悪化に拍車をかけたかもしれないと思う事もあります。

でも、私は本気で怖かった。毎日何度か母の家の玄関に立ってドアを開ける瞬間、
鍵がかかっていないと、その度に心臓が締め付けられるみたいでした。
今、こうして落ち着いていられるのは、やはり隣に母がいるという安心感から。
それが大きな理由の一つになっています。

監視しすぎない程度に見守る事が出来れば、それが一番良いのでしょうが、
これは本当に難しいと思います。
でも、うまくやっておられる方もおられるのだろうなぁ。

あと、母の病を知った何人かの方々から、性格の問題を指摘されたり、
私が引越しをさせたせいだと揶揄する方もおられましたが、
性格は、関係ないのじゃないのじゃないかしら・・・伯母と母は全く正反対でしたから

そう、当時伯父が心配していたのは、従弟達や私達が同じ血をひいてるって事ですが、
血縁的にそういう要素があるならば、いつかは私も??・・・。
けど、そんな事を心配していてもどうしようもないし、
夫の親族は、癌で若くして旅立った方が多いし、義父も義母も心筋梗塞。
義母は健在ですが、80歳を過ぎ、施設に入所してから認知症の症状が出ています。
老化が健常者よりも早いと言われるぺこちゃんの事も気になります。
本当に先の事を考えてしまうと、不安な材料は、いくらでもあります。
でも、先の事より「今」「今がどうなのか?」って事の方を大切にしたい。
「今しかない今」をもっともっと楽しみたいし、はじけたいのです。自分の為に

今この時間も、介護生活をされている方々は、それぞれにもっと悲しくて辛い思いを背負って
それでも頑張って明るく日々を過ごしておられる事と思います。
「ひよっこがぁ、な~に言ってるんだぁ?」って呆れられているかもしれませんね。
そうなんです。だからこそ、私も頑張らないと申し訳ない 

うだうだと、泣き言みたいに書き連ねてしまいましたが、
前にも書きましたが、「書けるようになった。」事は。私の中では大きな第一歩
こんな形で過去を振り返る事はもうしないだろうと思います。

そうそう、あえて「罪」という言葉を使ったのは、
気付いてやれなかった事もそうですが、伯母の事等、いろんな経験をさせられて、
母の異常な言動が「病気」のせいだと分かっているのに、
それでも、怒りや、苛立ちが抑えられない自分が常にいるのです。
今のような状態になってでさえ、疎ましかったり、離れたいと思ったりしてしまう・・・。
そんなこんなへの、自戒を念を込めました。だって・・・いけない事沢山してるもん
それに、これからだって愚痴いっぱいで、文句は言い続けると思いますし・・・。

連日の長文、駄文。
本当に、我慢強くお付き合いくださって、ありがとうございました。



何だか、終わりの挨拶みたいになってますが、
え?ブログは止めませんよ。少々スローな更新にはなると思いますが
くっくっくっ・・・本領発揮はこれからなのだ~!前進あるのみなのだ~っ!!
「どこまで暴走する気かい?」冷静な私が問いかけています。
「おうっ!いける所までよ~っ!」   


・・・突然人格変わりますが、どっちもこっちも私なの~っ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



さて、その後、かぁちゃんは、失禁、便失禁、幻覚等々、瞬く間に私達を巻き込んで、
ものの見事に、順風満帆に いわゆる認知症街道をまっしぐらに突き進んだ。
私は未だに、様々な思いを納得しようとしてもしきれないまま時を過ごして、現在に至ってる。

幻覚に関しては、他にも色んなおかしな事があるけれど、
初失禁の日の夜から毎日、かぼちゃんは姉ちゃんと話をしている
かぁちゃんの世界では、伯母は元気で、いい話し相手になってくれているらしい。

お日様の出ている間は、一日に一言も発しない事が多いのに、
夜中のかぁちゃんが、既に日本語ではないのだけれど、どれほど生き生きと話し、
音程も確かに「あざみの歌」をどれほど朗々と歌っているか、
誰か、見て、見て、聞いて~っと、いつも思うのである。

そして、私が、何の躊躇もなく、かぁちゃんと手を繋げるようになった他に、
あと一つだけ、アルツハイマーという病に感謝するとしたら、
かぁちゃんが悲しみ続ける事を出来なくさせて、笑顔をしっかり残してくれた事。
もしも、かぁちゃんが本来のままだったら、もっと別の悲しい世界へ行ってたかもしれないもの。
そんな風にも思うのである。・・・そう思わなきゃぁ、やっとられんもんね~









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気付いた時・・・これも現実

2006年12月07日 03時22分09秒 | 気付かなかった罪
日記を付けるのが癖だった。
子供達が生まれてから、例え一行でもと毎日書き綴っていた。
母が嫁ぎ先から戻ると決めた頃から「私はあの人がわからない。」と記する事が多くなり、

2003年4月25日
「私はこれ程、母を嫌いになった事はない。・・・あの人が大嫌いだ。」と一行。
その後は、飛び飛びになって半年後には全く書けなくなってしまった。
伯母の葬儀の翌日の事だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


かぁちゃんは葬儀の後、あれほど懇願したにもかかわらず、
伯父が伯母から目を離した事を、何度もなじり、怒って泣いた。
従兄には何故もっと早く病院に連れて行かなかったと文句を言い続け、
一人独身の従弟に向かって「最後まで姉ちゃんに心配かけて。」と傷つける言葉を次々吐いた。
そして、その間には幼馴染みが本を出したのだと、嬉しそうに見せて回っていた。

もう感情を一定に保つことすら出来なくなっていたのだと、今ならわかる。

けれど、その時には、私はかぁちゃんを激しく叱りつけながら、
伯父や従兄弟達に謝るしか術がなかった。

でも、私達姉妹以外、誰もかぁちゃんを怒らなかったし、誰もかぁちゃんを責めなかった。
それどころか、かぁちゃんを責める私に向かって伯父は言ったのだ。
「そんなに、きつく言うないや。言わしておいちゃれ。」
「叔母さん、怒られるから、ちぃとぽれぽれから離れとけぇ。」って。
兄ちゃん、どれ程辛かっただろう・・・その従兄までが、かぁちゃんを庇うんだから。

かぼちゃん、貴女は、その我儘さも弱さも全部ひっくるめて、なんて愛されてる人なんだ。
おばちゃん、貴女はこれ程までに、かぼちゃんを心配し続けてくれてたの?

泣きながら、納得するしかないじゃないか。
私は、おばちゃんや、兄ちゃん達に申し訳ないだけなのに・・・。


その夜、いつものように薬をごそごそ探し始めるかぁちゃんを見て、伯父の顔色が変わった。
「ぽれぽれよぉ、かぼちゃんは、おばちゃんと同じ薬の飲み方をするで・・・。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翌日、甥っ子がいた方が気が紛れるだろうと、妹が自分の家にかぁちゃんを連れて帰った。
ドライブに連れていったりして、元気付けてくれたのだろう。
その時に甥っ子と並んで写っているかぁちゃんは、とびきりの笑顔だ。
そんな笑顔になれっこないじゃない、こんな時に・・・って思うほど。

ぺこちゃんも無事にショートから帰宅して、いつもの毎日が無理矢理始まった。
数日後、妹に連れられて家に帰って来たかぁちゃんは予想外に落ち着いているように見えた。
でも、一人で寝させるのは久々だったので、かぁちゃんが寝付くまで側にいた。
「いろいろとありがとう。だけど、何だか疲れちゃったわ。」と
眠りにつくまえに、可愛い事を言った。


翌朝、何度電話をしてもかぁちゃんは出なかった。
心配になって、かぁちゃんの家に行って見ると、玄関のチャイムを慣らしても出てこない。
慌てて鍵を開けると、かぁちゃんは、寝かせたままの状態でまだ布団の中だった。
顔を覗きこむと笑っている。
枕元には電話があるままなので、どうして出ないのか聞くと
「出れないの。動けないの。」と、やっぱり笑顔で言った。

起き上がらせようとして、体が堅くなっている事に気付く。
布団は、マットを通り越して畳に浸透する程、お小水でびちゃびちゃになっていた。
無理やり立ち上がらせようにも、足の裏が地面につかない。
体を拭いてしばらく足をさすっているとようやく感覚が戻ったらしく自分で足を動かし出した。
ほっと胸を撫で下ろしつつ、同時にあんまり慌ててない自分に驚いた。

初めてかぁちゃんが自分で立てなくなった日。
初めてかぁちゃんが失禁した日。

かぁちゃんは、それまでは何とか意地やプライドで自分を維持してたのかもねぇ。
姉ちゃんがいなくなった事で、かぼちゃんは現実の世の中で生きる事を諦めちゃった。
・・・そんな風に思えて、どうしようもなかった。
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気付いた時・・・だけど・・・。

2006年12月06日 02時09分17秒 | 気付かなかった罪
今も不思議な事がある。
伯母の行方が分からなくなった頃、私は一言も田舎の話をしなかったし、
いつもと変わらないふりを必死で装っていたにも関わらず、
普段は全くといって言い程、伯母の事は口にしないかぁちゃんが、何かにつけて
「ねぇちゃん、元気かしら?とぉから(随分)会ってないわぁ。」と口にし出した。
その度に、胸をえぐられるような思いをしながら、あんまりしつこく言うので、
「昨日、兄ちゃんから電話があったけどみんな元気だって。」と無理に嘘をついた。

おばちゃんがいなくなった事・・・もしかしたら、かぁちゃんは先に知ってたのかな。
現実に・・・ではなく、何か不思議な感覚のようなもので・・・


葬儀に向かう準備の前に、まず私がした事は、かぁちゃんの病院に行って事情を説明し、
安定剤をもらってくる事だった。かぁちゃんの性格上、現実を受け止めた時には
必ず半狂乱になってしまうと思っていたし、そのまま心が完全に壊れてしまうと思ったから。
だって、この時はまだ「かぁちゃんの正常な精神」が存在していると思っていたから。

そして、一番の問題がぺこちゃんの事。
伯母の事は、デイの職員さんに報告してあった。
もちろん、「見つかるまで私がぺこちゃんの事を細かく見ていられないと思うから、何か変化があったら教えてください。」という形で。
まさかの事態になった事を告げると、本来は二ヶ月前から予約しないと希望日が取れないのに、
併設されている、ショートステイの施設に緊急用に部屋が一つ開けてあるからと、
直ぐに手続きをしてくださった。これ程ありがたかった事はない。
ぺこちゃんがデイサービスに通い始めて4ヶ月。初めてのショートステイの利用となった。
「何があるかわからないので、余裕を持って日にちを取りましたから安心してください。」
そう心強い言葉ももらった。・・・ぺこちゃんは不安と緊張で泣きながら出かけていった。


かぁちゃんに、伯母が亡くなった事を告げ、妹の車に同乗して、
そして、田舎に着く前に事の成り行きをかぁちゃんに説明したのだが、
それがどうしても、かぁちゃんには分からないのだ。
「亡くなった。」事はわかるのだが「何故自分に言わなかった?皆が私を騙した。」と
あんまり激しく言い続けるので、妹が怒りで運転出来なくなる程だった

途中の道の駅で一度降りて、人の誰もいないレストランの片隅で落ち着いて説明し、
「頼むから、伯父を責めるような事だけは言ってくれるな。」と、二人で懇願したのだが、
かぁちゃんは「わかったわよ。早く連れて行ってよ。」と不機嫌に応えただけだった。

私達が懐かしい家に到着すると、
既に祭壇が設けられて、少し若い頃の伯母が笑ってこちらを見ていた。
留袖姿・・・笑顔の写真でいいのがこれしかなかったと従兄がぽつりと言った。
私の結婚式の時の写真だった・・・。
周りにはとっても若い、綺麗な伯母の写真がいたる所に貼ってあった。
兄ちゃんが・・・最後に見たかぁさんの姿を払拭しようとしてか、
徹夜でパソコンに古い写真を取り込んで引き伸ばしたのだと、従兄の嫁さんが教えてくれた。

かぁちゃんは、泣き崩れていたし、私も放心状態で、涙で何も見えなかった。


そんな中で・・・つい私達はかぁちゃんから、目を離してしまった。
気付いた時、かぁちゃんは幼馴染みに囲まれて話をしていたので、ほっとしたのだが、
次の瞬間、妹も私も互いに顔を見合わせた。
背中に冷たい物が走り、全身が震え出したのを覚えている。

かぁちゃんは、声をあげて笑い出した。
嬉しそうに、楽しそうに・・・。


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気付かなかった罪(現実)

2006年12月05日 02時09分20秒 | 気付かなかった罪
伯父と伯母は共に、定年後、二人で畑を耕し、年を重ねてから農業に勤しんでいた。

昔はいつもキリッとしていて、自他共に甘えを許さない厳しさを持った人だったのだが、
近年の伯母からの手紙には必ず「私は幸せ。お父さんと結婚して良かった。」と書いてあった。
稀に電話で話しても「私は良い人と結婚して良かった。」と、本当に幸せそうだった。
もちろん、その後には必ず「私は幸せだけど、かぼちゃんは可哀相に。」と続くのだけど


色んな事がある結婚生活だけど、年老いてからそんな風に思えるなんて素敵

そんな伯母が「おばあちゃんが、呆け始めたのが70歳を過ぎた頃だったけど、
そう思ったら、私もだんだん物忘れが酷くなってきたわ。」と笑いながら言うようになった。
確かに、その頃から同じ話をを何度も繰り返すようになっていたけれど、

その辺り、元のしっかりした性格が出てくるのだろう、話をする時は、
「私は同じ話をしてしまうかもしれないけれど、それは私が話をした事を忘れているからなので、我慢して聞いておいて。」と、会話の前に宣言していた。
「忘れないようにメモを書いて張ってるけれど、そのメモをどこに張ったかを忘れるので、張った場所をまたメモしてるんだけど、メモ用紙がいっぱいになるわ。」
なんて、明るく笑って言ってたりもしていた。
・・・実にしっかりとした自己分析。

けれど、次第に物忘れが酷くなって行く伯母を見る事を、私が辛くなってしまった。
多忙な日々を言い訳に、電話も途絶えがちになってしまった。
あの、大好きな「凛」とした伯母が変わってしまうのを認めるのが怖かった。
・・・共に生活する家族じゃないから出来る我儘・・・おばちゃん、ごめんね


伯父からの電話の前日、伯母はいつもと同じ様に伯父と二人で、
それぞれに自転車に乗って、仲良く買い物に行っていたのだそうだ。
伯父の後を伯母がついて走るのもいつも通りで、掛かり付けの病院へ行ってから、
伯母は自分で、キャッシュカードを使ってお金を下ろし、スーパーへ行ったらしい。
スーパーの帰り道、慣れ親しんだ道で、これもまたいつも通りに伯父が後ろを振り返ると
伯母の姿がどこにもなかったのだそうだ・・・ほんの数分の間に・・・。


その日の夜、暖かかった日中から天気は急変して、冷たい雨が降り続いたらしい。


家族は勿論、警察も、村の人も総出で、ありとあらゆる所を探し続けてくれた。
けれど、伯母の行方は分からなかった。
当時、近くの町のお年寄りが、やはり行方不明になり、かなり日数が経ってから二つ三つ離れた県で発見されていた事があったので、必ず無事だと誰もが信じていた。

お年寄りが、記憶の曖昧なまま歩き始めた場合「前に進む事」が目的となってしまうと、
疲れも感じないで、ひたすら歩き続けてしまう事があるらしい。
まして、伯母は自転車。お金の持ち合わせもあったので、
食べるには不自由していないだろうと、私も微かに安心していた。

しかし、一週間近く経っても依然行方は分からず、従兄達は手作りのビラを何万枚も作って、
あちらこちらに頭を下げて貼らせてもらった。
個人情報を書いてあるので、悪用されるかもしれないと警察には言われたそうだが、
「悪用されてもいいから、情報が欲しい。」と、考えられる全ての事をしていた。

妹は車で、伯母の近所から通じる道路沿いの様々な施設に、ビラを配り、
私は、伯母が若い頃に務めていた場所の近辺や、最寄の大きな駅を回った。
みんながそれこそ、全ての力を出し切って必死で探した。
一日も早く、一分でも早くと・・・。


かぁちゃんが知ると、それこそ五分おきに自分が疲れ果てるまで電話をし続けるだろう。
祈るような思いで情報を待っている所へ、そんな迷惑だけはかけられない。
かぁちゃんにはずっと隠していたが、平静を装う事がとても難しかった。

そんな中、従兄との短い電話のやり取りの中で、伯母がアルツハイマーの初期で、
その頃、無理やり説得して、大きな病院に通い始めていた事を知った。



そして・・・いなくなってから、ちょうど二週間後、
あの懐かしい川の河口付近で伯母は見つかった。


伯母が最後に目撃されたのはバスの中から。・・・偶然知人が見かけたようだ。
背筋を伸ばして颯爽と、家とは逆の方向へ猛スピードで自転車をこいでいたらしい。

想像されるに、伯父とはぐれた事が引き金になってパニック状態になり、
自分の家への帰り道がわからなくなったようだ。
そして、川幅が広がり、河川敷がなくなってしまう場所に行き着いた頃、
運悪く降り出した雨で自転車が滑り、川に落ちてしまったらしい。

伯母の腕時計はいなくなった当日の夕食時で止まっていた。

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気付かなかった罪(衝撃)

2006年12月04日 02時11分58秒 | 気付かなかった罪
終戦の日に、小学校4年生だったかぁちゃんは、
村のはずれを流れる大きな川で水遊びをしていたらしい。
友達と一緒にはしゃいでいると、橋の上から近所のおばちゃんに
「のんびりと何してるの、日本が戦争に負けたんよ。」と泣きながら怒られたそうだ。
その川は私も幼い頃、夏休みで田舎に行くと従兄弟達と泳ぎに行った場所でもあり、
湾処に群れる蛍を捕まえに行った、思い出のたくさん詰まった川でもある。

同じ頃、六つ年上のかぁちゃんの姉さん(伯母)は
赤十字の船に乗って戦地を回り、負傷兵の手当てに青春をかけていたそうだ。
原爆投下の一週間後に任務で広島へ入ったそうだから、当日は日本にいたのかな。
伯母から戦争の事は全く聞かされた事はないけれど、
夏休みにテレビで、原爆の事を伝える番組を一緒に見ていたら、
「あんなもんじゃない・・・あんなもんじゃない。」と席を立ったのが忘れられない。

伯母を一言で表現するなら「凛としている。」という言葉が一番合っている。
で、身贔屓だけど、その・・・べっぴんさんだったのだ
だって、私の結婚式に出席してもらう為、前日に最寄の大きな駅まで迎えに行った時、
地下鉄の駅でナンパされたのだもん。品の良いおじさんに
明日嫁ぐ、まだうら若き私ではなく、田舎から出て来たばかりの伯母がですよ~っ
まぁ、そのくらい人目を惹く存在感があった人で、私の憧れの女性でもあった。

かぁちゃんは子供の頃から伯母と比べられて「月とすっぽん」とよく言われたらしく、
おそらく、あの僻みっぽい性格はそこに所以してるのだろうなぁ。
でも、はっきり言って、仕方ないような気もする・・・許せ、かぁちゃん。

以前「かぁちゃん」という呼び名は「母ちゃん」ではなく、
かぁちゃんの名前をもじったあだ名と書いた事があるけれど、
小さい頃のかぁちゃんのあだ名は、その名前から「かぼちゃん」だったらしい。
かぁちゃんは拗ねていたけど、セピア色になった伯母のアルバムには
くったくのない笑顔を振りまく、若かりし頃のかぁちゃんの写真が何枚かあり、
その横には伯母のかっちりとした綺麗な文字で、
「~している、かぼちゃん」と書き添えてある
伯母にとっては、かぁちゃんは幾つになっても、
心配ばかりかけるけど、可愛い妹の「かぼちゃん」だったのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ぺこちゃんがデイサービスに行くようになり、再びかぁちゃんに目が行くようになった頃、
さすがの私もようやく「これはおかしい。」と気付き始めた。

晩御飯のお惣菜も毎日同じ物しか買わなくなり、注意すると怒るので、
私がお弁当を作って届けるようにしていたのだが、
家に入ると食べかけの弁当の残りやスーパーの袋が氾濫していた。
そして、それを片付けようとすると烈火の如く怒り始めてどうしようもなくなり、
やがて、私を家に入れる事も拒むようになっていった。

「これは全部必要だから置いてあるの。私が自分で片付けるから放っておいて。」
私が行く事が罪悪のように言うので、全く手が出せなかった。

春休みに妹達がこちらで用があったとかで、突然かぁちゃんの家に泊まりに来た時、
翌朝、私がかぁちゃんの家に行くとこっそり耳打ちして来た。
「ねぇちゃん、これは普通じゃないよ。」・・・「やっぱりかぁ、そうだよなぁ。」

妹は自分で運転するので、度々自分の家に連れて行ってくれていたし、
かぁちゃんも、甥っ子と遊ぶのを楽しみにしていたので、
それから程なく、かぁちゃんを一週間程連れて帰ってもらい、私が部屋を片付けたのだが、

引き出しの中には、汚れた物とそうでない物がぐちゃぐちゃに詰め込んであるし
考えられない物が考えられない所に置いてあるし
洗濯物が干さないまま、籠に入れた状態で押入れにしまってあるし
食器棚には洗えていない食器がそのまま仕舞ってあり、カビだらけになっているし

ぺこちゃんの対応に慣れず四苦八苦していた頃で、かぁちゃんをまともに見ていなかった・・・。
近くに居ながら、私はどうしてここまで放っておいてしまったのか・・・。


それから間もなく私は、掛かり付けの医者に、かぁちゃんに内緒で相談に行った。
「精神的な物じゃない可能性があるので、一度脳のMRIを撮ってみましょう。」
と、言われたのだが、日程の連絡を受ける前に予定が大幅に狂う事になった。

四月の初め、桜の花が満開の頃だった。夜、伯父からの突然の電話。
伯父は自分では絶対に電話をしない人なので、声を聞いた途端胸騒ぎがした。

「○○が、昨日から行方がわからんのや。」

伯父が私に対して、伯母の事を名前で呼ぶ事はまずない。
・・・全身から血の気が引いた。

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気付かなかった罪(崩壊)

2006年12月02日 03時23分05秒 | 気付かなかった罪
うお~っ!!こうなりゃ、まだまだ続けてしまいます~っ
むふふふ・・・プレッシャーももらっちゃたし、がんばるぞ!お~っ


かぁちゃんが近くに引っ越して来てからしばらくは、
無事に側に来れた事や、百貨店やスーパーのお惣菜売り場に目を輝かせ、
「もう、ごはんの心配はいらないわ。」と、とても安心しているように見えた。
何より、元々住んでいた地域なので、母の友人達が次々に遊びに来てくれたので、
一見、とても楽しそうで、ほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。

けど、やはり普通じゃないって事は次々に出てきた。
相変わらず電話は何十回とかけてくるし、
夜中に玄関のチャイムが鳴って、慌てて飛び起きると寒空の下、靴下も履かずに立っているし。
自分に少しでも、不安や納得が出来ない事があると一時も辛抱出来ないようだった。

けど、この時点でもまだ、元の性格の困った部分だけが増殖してるって感じで、
慣れれば落ち着くと思っていたし、かぁちゃんの事より、
かぁちゃんの行動によって、振り回される家族の方が私にとっては気がかりだった。

やがて4ヶ月程経って、ぺこちゃんが我が家にやって来た。
もちろん、その事はかぁちゃんにも説明していたし、
「今まで通りには、遊びに来れないよ。」と言ったら、
「わかった。あんたも、苦労するわね。」なんて珍しく労いの言葉までかけてくれた。

とは言え、放って置くのも寂しいかな・・・と、毎日三人で買い物に行くのが日課だったのだが、
ここで私はまたしても大きな間違いを犯してしまった。
「お互いに独りで留守番するより寂しくないよね~。」って気楽に思っていた事で
二人は勿論、自分自身の首を絞める事になってしまった。

・・・こんなに間違いを繰り返しても、まだ間違い続けるのかなぁ・・・


かぁちゃんは、どっぷり甘える相手を求めていた。
ぺこちゃんは、母親や恋人のようにべったりくっつく相手を求めていた。
共にその相手がたまたま目の前にいた私一人だったから、次第にややこしくなっていった。

やがて、かぁちゃんは「ぺこちゃんより私の方が大変なんだからね。」と愚痴るようになり
ぺこちゃんは、かぁちゃんが躓いたり、ちょっとした失敗をすると声を上げて笑うようになり
稀に二人で家に寄ると、かぁちゃんは私が玄関に入るとぺこちゃんが入る前にドアをしめるようになり
歩くのがだんだん遅くなっていったかぁちゃんに合わせて私が歩いていると、
ぺこちゃんは不機嫌に、私達を抜かして行き先も分からないのに先を歩き出した

ある日、スーパーで私が品物を取ろうと手を伸ばすと、二人が左右から我先にと私と同じ行動を取った。
その時、私の中でパチンと音を立てて何かが壊れた


半年後、ぺこちゃんがデイサービスに通い始めるまで、
私は毎日が現実でありながらそうでないような、いつも体と心が離れているような
自分自身が虚ろになっていく事を実感していた。
胸の中にはいつも重苦しい塊があって、叫び出したい衝動を堪えるのに必死だった。

かぁちゃんより先に私自身が一度壊れた時期





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気付かなかった罪(兆し)

2006年12月01日 02時58分54秒 | 気付かなかった罪
自分の気持ちが向いているうちに、一気に書いちゃいます。

連れ合いを亡くしてから、かぁちゃんは一年間一人暮らしをしていた。
それで全てのお勤めがおわるかの様に、勝手に思い込んで、期限を自分で切ってしまった。
かぁちゃんの嫁ぎ先は遠方だったので、私は様子を見にも行かなかった。
無理をすれば行く事が出来たのかもしれないが、
義父が元気な頃は、月に一度は我が家へ里帰り?して来てたので、
嫁がせた側としては、その上こちら側から押しかけるのは申し訳ない気もしていた。

どうも、我が親でありながらそうでない。と言ったおかしな感覚はどうしても抜けない
その「一年間」という期限は私は、あちらの家族と話し合っての事だと思っていたのだが、
どうも、その辺りは今も不明。
かぁちゃんの言い分を鵜呑みにしていただけだったので、後でちょっと大変な事になった。

けれど、既に一人暮らしをさせておける状態じゃないって事は、誰の目にも明らかだと
・・・私はそう思っていたのだけど・・・。
その頃のかぁちゃんが、本来の姿だと思われているままだったら、
あんまりかあちゃんが可哀相。だって、その頃はもう・・・。


我が家に里帰りする回数が減った。
最初は気楽になってしまって、帰る必要がなくなったのかなと思ったけど、よくよく話を聞くと、
「怖い」と言うのだ。電車に乗るのが怖い。駅で迷わないかと怖い。怖いって何よ・・・?

手紙が書けなくなった・・・と、私達や友人達にこぼすようになった。
元々、手紙魔のように手紙好きだったけど、字が書けなくなったと言う。
書いた字を見ると、まだまだ達筆。「書けてる、書けてる!!」って言ってたのだけど・・・。

食事の準備や掃除が出来なくなった。
「今日は何食べた?」と電話で聞くと「どんべえ」と笑いながら言う日が多くなった。
近くのうどん屋さんにもよく行ってたらしいけど、ご近所さんに何か言われたらしく、
そのうち「あら、まだ食べてないわ。お腹がすかないもの。」と、言うようになった。
で、電話しながらいつも言うのだ「まぁ、この家、ほっこりだらけだわ。」
掃除をすればいいじゃないかと言えば、「そうね・・・。」と電話をがちゃり・・・。

こだわりが、へんてこりんになった。
例えば、いつもと違うポストに投函したから、もしかしたら手紙が届かないって、
何事かと思うくらいに、狼狽して電話して来るとか・・・。
書ききれないけど「あほちゃう?」って呆れてしまう事を、異常に心配していた。

着替えたり、風呂に入るのを億劫がるようになった。
家に来た時に気付いたのだけれど、着替えを全く持たずにやって来て、
放っておくと、何日も同じ物を着るようになっていた。
あれだけお風呂好きだったのに、入りたくないと言い出し、無理に入らせると
「気持ち良かった。」と言いながら「でも、つかっただけよ。洗ってないわ。」と言う。
妹宅では、甥っ子が一緒に入って、無理やりばぁちゃんの頭を洗ってたらしい。

頭が痛いと頻繁に言うようになった。
私自身が頭痛持ちだったので余り気に留めなかったけど、
いつも頭のてっぺんを手でつんつんとつまむ様にしてた。
医者から頭痛薬はもらっていたみたいだけど。


思い出せるだけ書いてみて、改めて思ったけど、
何でおかしいって気付かなかったんだろう、私~っ


・・・こ~んなに色々とSOSを出していたのに。
かぁちゃん自身が、「こっちへ帰れば治るわ。」と確信を持って言い続けていたし、
高血圧なので、掛かり付けの大きな病院には毎月通っていたし、
その他は普段通り。相変わらず機関銃の様に喋り続けていたし、

全ての症状は精神的な物が原因してるのだと、私はそう信じて疑わなかった。



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気付かなかった罪(兆しの兆し)

2006年11月29日 02時16分45秒 | 気付かなかった罪
かぁちゃんが再婚した連れ合いを亡くしたのが66歳の時だった。

全ては「今、考えてみると・・・。」という話なのが口惜しいけれど、
振り返って置きたいと言うのがブログを始めた理由の一つでもあるので、
思い出せるだけ思い出しておこうと思う。
と言いつつ、どうしても自分の中で整理できない感情があって、ず~っと書けないままだった。
でも、かぁちゃんが壊れていった段階を振り返らない事には私も先へ進めない。
・・・よなぁ・・・やっぱり
なので、やはり書き留めておこ~っと せめて今年のうちには・・・。



かぁちゃんの嫁いだ人は、比較的若くでパーキンソンを病んだ人だった。
嫁いでしばらくして分かった事で、再婚を強く薦めたかぁちゃんの友人も知らなかったらしい。
・・・事前に調べれば例え恋愛結婚だったとしても、阻止したのかもしれないが
かぁちゃんに対する愛情のなさから、全てを他人事にしてしまっていた。
心のどこかで彼女の側にいる事を拒否した事から来る私の無責任さ。

でも、パーキンソンという病の症状がどういう物で、薬の副作用がどんな物か、
私もだけど、皆、知らなかったのだと思う。一緒に生活してないのだもの。
自分の親は元気で当然。何か特別な事がない限りそう信じてしまっている事は
誰にも責められる事じゃない。

と・・・無理やりそう考えられれば、まだ救いもあるけど、
元々甘えん坊のかぁちゃんには、荷が重すぎた事は安易に想像できる。
徐々に心を病んで行っても仕方がない・・・けど、その頃の私ときたら、
「人の反対を無視して、勝手な事をしておきながら、泣き言を今更言うな。」
という冷たい対応しかしなかったし、
私が側に居るから「甘え癖」が治らないんだ。距離を置くのは彼女の為。
本気でそう思っていた。

おそらく、私が思っている以上に、かぁちゃんは弱かったのだと思う。
まわりに振りまく我儘としか思えない言動・・・それに皆が惑わされていただけで、
そうでもしないと、自分が保てなかったんだよね。


そして、当時私は・・・「自分の親の老い」なんて事は考えた事もなかった。
そして、パーキンソンが大変な病気だなんて本当の所は何もわかっちゃいなかった。
義理の父にあたる人も、きっと辛かったんだなぁ・・・。
その辛さ、結局誰も分かってあげられてなかったじゃないのかなぁ・・・。



かぁちゃんが「また鍋をこがしちゃった。」と何度も言い出したのは、
連れ合いの具合が悪くなり始めた頃で、かぁちゃんは65歳になるかならないからの頃。
同時にその頃から、我が家への電話の回数が半端でなく増え始めた。
朝、夜中に関わらず、ワンコール切りや、無言電話を含めて20回、30回・・・。
当然、優しい言葉や普通の会話をするのにも限度がある訳で・・・。
留守電にも無言のまま、容量がいっぱいになるまで入っているし、
買い物から帰って来てすぐに鳴った電話に出ると、
「あんた、私の電話に出たくないんでしょ。」と、憎まれ口。
あまりのしつこさに、電話線を抜いてしまった事もある程まいってしまってた。

同じ様な電話を妹宅にもかけていたので、
「おねぇ、今日は○○回やった。しゃぁないなぁ。」
「おお、うちは○○回やったぞ~。ほんまにしゃぁないなぁ。」
と、お互いに電話で一日を締めくくっていたっけ


・・・今なら分かる。鍋を焦がすのも電話の回数も、うっかりや我儘じゃなくって、
鍋を火にかけていた事や、自分が電話をかけた事を忘れかけてたんだよね。
・・・今なら、同じ話を聞けば「気を付けてあげてくださいよ、それは・・・。」と
他人様には言う事だってできる。

けど、その頃は連れ合いの介護疲れで、まいってるんだ。としか思っていなかった。
電話で愚痴を聞いて、かぁちゃんの気が済むならそれでいいや・・・。としか思っていなかった。
コメント (3)
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家族ごっこ

2006年06月29日 02時35分59秒 | 気付かなかった罪
「気付かなかった罪:番外編」その二

・・・とは言え、自分の中の嫌な奴を暴露する事になるので、お願い。軽く流して!!

務めていた全寮制の工場が倒産して、急に家に来る事になったぺこちゃんだけど、
「身の回りの事は普通に出来ますから心配はいらないでしょう。」と説明を受けていた。
まぁ、一緒に暮らしていけば家族になれるのだろう・・・と、戸惑いながらも納得したのだが、
「普通」って言葉は案外魔物である。ひとそれぞれで「普通」の定義は違うのだから。
ぺこちゃんが、自分が「出来ない」事に対しても、「理解できない」事に対しても
「わかった。」という言葉で応える事に気付くのに、それ程時間はかからなかった。
勿論、身の回りの事は全て自分で出来るが「出来る」という事も人によって千差万別。
その範囲は余りにも幅が広く、時には私の想定を遥かに越える。


息子達は当時高校を卒業したばかり。少しではない変化に対して特に文句を言うでもなく
元々親に似て脳天気な事や、もう家にいる時間が少なかった事もあって、
私が拍子抜けする程、文句一ついう事なく当たり前のようにさらりと受け止めた。

「ふ~ん。」・・・おい!ふ~んってそれだけ?
「わかった~。」・・・な、何が?
「おとんの妹やねんやろ?」・・・そうだけど・・・。
「おばちゃんって呼んだらええんか?」・・・そうだよなぁ・・・。
「別に、普通にしとったらええねんやろ?」・・・まぁね。

け、けどさ、何か困った事が起きるかもしれないよ。
母もわかんないけど、迷惑かけるかもしれないよ。

私は一人でぱたぱたしながら、それでも普通に「にわか家族生活」が始まった。
彼らもそれなりに自分のペースは崩さないまま、けど少しは気を使いながら。
このまま、時を重ねれば「共に暮らす」という事で「家族」になっていくのかな?
戸惑いながらも何とかやっていけるのかも・・・なんて甘い考えは一週間で醒めた。

「おか~ん、トイレが汚れてて使われへんで~。」・・・あっ、忘れてた・・・。

「洋式トイレは使った事ある?」最初にぺこちゃんにトイレの場所を説明した時、
「使い方わかる?」の問いに「うん、分かる。」と笑顔で彼女は応えた。
けれど、彼女の入った後に何気なく入ると・・・雑巾を取りに走らなければならない状態だった。
その後は、彼女のトイレの後はそれとなく必ず私がチェックするようにしていたのだが、
少々の慣れと、夕食時のバタバタで、その日はついうっかりしていた。

経血混じりのピンク色のお小水が床一面に広がっていた。
・・・だって女の子だもんね。
今でこそ、すっかり慣れて左程気にならなくなったが、お風呂の後も随分驚かされた。
家庭用のお風呂の経験がないのだから、当たり前の事だったんだよね。

私が気付かなかったのは、ぺこちゃんが、自分では後始末出来ない事をした時に
黙って部屋に駆け込んで、何も言わずに済ませてしまう事。
団体生活の中では、黙っていれば誰がどうしたのかわからないままで事が済んでいたのだろう。
「怒られるかもしれない」と思った事は黙ったままにしてしまう。
「怒られる」という事はぺこちゃんにとっては、一番恐ろしい事なのだ。多分・・・。

当時19歳の、男兄弟の中で育った子供達には、なるべく見せたくない場面を
運良く?見つけてしまうのが、家を離れた息子だった。
もちろん、彼がそれに対して文句を言う事はなかったけれど、
つい私は「ごめんね。」と謝るのが癖になってしまった。・・・私は悪くないのに。

けれど、ぺこちゃんと一緒に暮らすという事はそういう事なのだよと
親として、彼らにきちんと説明出来なかった事は、やはり悔いとして残る。
本当の思いやりとは、無理に「家族」という形を演出するのではなく、
「家族として生活する為に必要な事」を教えなければならなかったのだとも思う。
けれど、私には出来なかった。私自身が無知のままで「家族ごっこ」を始めてしまったのだから。

・・・無知故の無謀な決断。けれど、無知故に踏み切れたのだとも思う。
「家族が増える」という事「途中から、分かり合う事が難しい家族が増える事」は
良し悪しは別にして、親子四人の生活に想像以上に変化をもたらせたのは事実だ。
4年間かけて「共に生活する事」は当たり前になったけど・・・。
「家族ごっこ」は出来ても、本当の「家族」にはまだなれない。

少々奇妙な家族の中で育った私は「自分の家族」に対して希望もあり夢もあったけど、
その拘りを捨てて「現在」を素直に受け止める方がずっと気持ちが楽なのだと・・・。
「家族」という拘りが「家族ごっこ」から卒業できなくさせているのだと・・・。
そんな独りよがりな拘りに、すがり付くのは止めようと・・・。

近頃頓に思い始めている。


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こころ、元気かな?

2006年06月26日 17時11分10秒 | 気付かなかった罪
「気付かなかった罪:番外編」その一

「お~い、元気かぁ?」
三日とあけず息子の携帯にメールを入れるようになってから、1年以上が過ぎた。

いつも飄々として、親にはなかなか弱音をはかない息子が家を出てから3年近く。
一人暮らしを経験するには決して早すぎる年齢でもないが、
無理をすれば通えない距離でもなく、経済的に余裕がある訳では決してなかったので、
「食費分しか出せないぞ!家賃が自分で払えるならやってみろぃ!」と言ったら
さっさと勝手に下宿を決めて来た。

サークル活動に情熱を燃やし、何をしに大学へ行ったのやら・・・と言う生活に
無理なアルバイトを重ねる生活は彼にとって親が思うほど簡単ではなかったようで
去年の冬、「俺、ずっと調子悪くて、医者に行ったら抗欝剤出された。」・・・。
まるで人事の様に淡々と告げられたのは、さださんのコンサートに向う途中だった。
チケットはいつも彼が私の分も予約する。(出費はこちらだが・・・複雑~)
彼なりの親孝行のつもりらしいが、それにしても、ちょいとあんた・・・。
それって穏やかではないんじゃないの?

とは言え、最初はあまりにも飄々としているので、脳天気な母親は
「単位が取れてないから、大袈裟に病人ぶってんじゃないの~?ば~か。」
くらいにしか思っていなかったのだが、まさか学校に行けない程追い込まれていたとは。
ふとした時に、彼の表情の変化を目の当たりにした時に、初めて事の深刻さを理解した。
またしても私は「気付かない」という余りにも愚鈍な過ちを犯してしまった。
何よりも大切な我が子に・・・。

かぁちゃんやぺこちゃんに、気持ちも手も取られる事は言い訳にはならない。
子供達の事を何の根拠もなく安心しきって、気付こうともしなかった愚かな自分。
「どうしようもなくなる前に、何故言わなかったのだ?」と腹立たしく思ったが、
“言えない環境”を造り上げてしまっていたのは私自身だった。

私の性格の一部分として、目の前で見えない事には非常に冷たくなってしまう。
ましてや、自分で決めて出ていったのだから勝手に生活して当然だと突き放してきた。
彼の下宿先へも、引越しの当日以来行った事はなかったが、
ようやく危険信号を察して、昨年暮れに彼の住まいを訪ねた時に愕然とした。
彼が私が行く事を抵抗し続けていた理由も分かる。
元々片づけが苦手な奴だが、散らかしよう、汚しようの種類が違った。
「どうしてここまで、放っておいてしまったんだろう・・・。」
最初不機嫌だった彼は、やがて部屋の隅っこでとろとろと眠ってしまって起きなかった。
SOSを出さない事をいい事に、何て事をしてしまったのだと
片付けながら、涙が溢れてどうしようもなかった。馬鹿な親だ、全く。

それから毎月一度は「行くぞ~っ!!」と押しかけお掃除おばさんになった私。
相変わらず、優しい言葉はくすぐったくてかけれないけれど(そういう親です)
「放ってはおかないぞ!!」という無言の強制感情は伝わっているようには思う。
少しずつ素直になって、少しずつ、ヤバイ時にはSOSらしきものを発信するようになった。
おかげで、ゴスペルへはほとんど行けなくなってしまったけれど、
まぁ、こんな時期もあって良いかな・・・。

他人様から見れば、成人した息子に甘いと思われるかもしれないが
私は、手のつけられない程手遅れになりたくはない。もう二度と。
先程突然帰って来たのは、少々しんどいのだろうが、まぁ表情は悪くない。

「腹減った。」
「何、食う?」
「うどんある?」
「ちょいと待ってよ。ねぎはないけどいいかい?」
「あ?いいよ。」

(優しい母は)かつおぶしと昆布で出汁を取り始める・・・。
そんな接し方しか出来ないけど、それはそれで諦めてくれるだろう。
母は、間もなく日常に戻る。当たり前の日常。これ以上の事は出来ないけれど、
「元気かい?心も体も?」っていつも思ってる。
・・・なんて~事をここで言っても通じはしないだろうけど(苦笑)
でも、まぁ、いくつになっても私はあんたの、あんた達の母親だからね~っ!!






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