東日本大震災で亡くなられてた方には、
改めてご冥福をお祈りいたします。
このような災害がきっかけで、
岩手県で仕事させていただいたこと、
そして沢山の方と出会えたことに、
感謝しています。
この5年で私も共に成長させて頂いて、
次に備える事が出来ました。
さて、今回は県南3市を振り返ります。
単身赴任の居を構えた釜石市中心市街、
赴任当初は住宅需要が飽和していて、
ようやく借りれた古い一軒家を4人で共同生活がスタート、
それもこの先道が無い=人が住めない山の上、
玄関開けると鹿とこんにちは、
家の下にはハクビシンが住み着き、
座布団を上げるとムカデが飛び出してくる。
私以外は単身者なので、
新たに見つかった古い家に引っ越しましたが、
私は約1年その家に住むことになりました。
冬は水道が凍結するので、
水抜きすれば、
配管の錆がストレーナーに詰まるので、
トイレと給湯器の配管を毎晩外して錆を掃除が必要、
翌朝10から東京の新宿で会議が有るため、
3時半起きで凍る坂道を下り、
帰ってくれば積雪で深夜に30㎝の雪かきして駐車場に車を入れる経験、
会社役員さんが「しょうがない」というから、
私と1日でも同行させてあげたいと思う環境でした。
年末の寒い時期に引き渡し前の社内検査と言うことで、
役員さんが来るということで、
経費削減のため私の住まいへ来ることを提案、
氷点下の家で700Wの電気ヒーターひとつで、
木造一軒家の寒さを体感させてあげ、
一睡も出来なかったということで、
石油ファンヒーターを経費で購入することを承諾させた事が無ければ、
経費で必需品さえ購入できない環境を打破できなかった時代です。
出張旅費や遠隔地勤務の改革に少しは貢献したけど、
役員さんからの評価は当時は最低だったと思いますが、
発注先から必要とされたことでプラマイゼロになった感じです。
そんな環境も日を重ねるごとに改善し、
1年後にはどうにかやりきれない状況から
ギリ間に合わない位に改善していきました。
釣りバカ日誌でも映った釜石観音の後ろ姿、
身近にあるほど知らないので、
製鉄記念館から写真を撮ってみました。
赴任当初は街に店も少なく、
19時を過ぎると、
駅前でさえ人が歩いていない状況でした。
夜行バスで東京へ戻る際、
駅周辺の仮設商店街に有ったラーメン店の、
「こんとき」さんに立ち寄らせていただいて、
バス待ちさせていただいたので、
ご挨拶がてらおじゃましたところ、
「おらんとこも今月一杯なんだ」と、
移転先も決まってなく、
奥さんも体調が良くなさそうなので、
もしかしたら閉めてしまうかもと。
今度帰ったときには、
元気な姿を見れることを願ってます。
以降は勤務場所が特定出来る写真しか残っていないので、
差し支えない写真でご紹介します。
昨年オープンした大船渡市中心市街の商業施設キャッセン、
当時は町が復興しているようで復興していないような感覚でしたが、
通うごとに作業服以外の人が多くなっているので、
復興している実感を確認できました。
この時には大船渡市の復興住宅整備は希望数の100%にたっしていたので、
あとは希望する所に入れるかの問題かなと。
中心市街を上空から撮影してみると、
まだまだ、茶色い景色、
大船渡市なら今年度で復興宣言出来ると確信しています。
キャッセンをまたぐ川を河川改修して、
親水性をもたせて造成してみたところですが、
昨年の大雨の土砂流出で、
飛び石が土砂で目え隠れする惨状となりました。
東北は治水事業が関東と比べると、
感覚的に低いようで、
同じ災害を繰り返す傾向がある様に経験しています。
私が居を構える釜石市も度重なる水害を経験していのいるが、
整備が遅れている実態からすると、
水害はしょうがないと諦めている感じがします。
陸前高田市の奇跡の一本松、
壊滅的な被害の中、
波除となった構造物の影響が有ったのでしょう。
こうして振り替えると、
構造物の強度が、
残るか流される影響をかなり大きく左右する事を感じます。
面整備が続く中で、
ポツンと取り残された建物、
震災遺構となった下宿定住促進住宅、
かさ上げの盛り土が迫って、
この周囲も整備が進むのでしょう。
震災から7年でここまでしかと思われますが、
用地買収など、
沢山の試練を越えて来たことを、
少しでも多くの方に知っていただきたい。
大槌町では、
用地買収を担当された、
関西からきた派遣職員が、
苦悩の末、
命を絶った事件もあり、
過重労働から、
建設業者の職員が過労死したり、
岩手県の復興の現状はいまだに問題を抱えています。
暗い話ばかりではなく、
少し明るい話が、
整備の終わった高台では、
商業施設がオープンし、
少しずつですが復興しています。
この5年で見たこと、
経験したことは、
きっと生涯の中でも大切な時間となるでしょう。