ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

モザイクのある町

2013年07月22日 | 大聖年イタリア巡礼

 エミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャ。
 その隣町?アドリア海に面した町ラヴェンナ、99年に続いて大聖年のイタリア巡礼で訪ねた。

 東西に分裂したローマ帝国の境界辺りにあって早くから発展を遂げ、5世紀初め西ローマ帝国の世紀末にはテオドリック王の東ゴート王国の首都に。

 さらに6世紀半ばに、東方のヴィザンチン帝国の治下、総督府が置かれ栄えたという。
 この時代に生まれたモザイク美術の傑作が教会などの壁を飾り、ヴィザンチン文化の華やぎを今に残す町である。
 ちなみに、モザイクとは1cm四方の石を彩色し埋めこんだもので、驚くほど精緻である。

 ラヴェンナは、フィレンツェを追放された大詩人ダンテが、この地で「神曲」を書き上げ没したとされている。
 彼はこの「神曲」の中で、この町のモザイクを、“色彩のシンフォニー” と賞賛したそうだ。

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 アドリア海の陽光を受けて眩しいほどに明るい町でした(左三枚/99)
 彼の死後500年も経った18世紀末に建てられたダンテの墓(右/99)です
 
中はがらんとしていて、余り面白くありません

 余談だが、ガイドはヘンな日本語を巧みに操るイタリアのおばさんでなんと二度目、この町の日本語ガイドは彼女しかいないのかな?
 その後、サン・ヴィターレ教会の隣にあるサンタ・マリア・マッジョレー教会で、年間第24の主日ミサに与る。

 ミサの後、ラヴェンナで最も古いモザイクとされるガッラ・プラチーディア霊廟へ。
 西ローマ帝国の皇帝ホノリウスの異母妹ガッラ・プラチーディアが、異民族の度重なる侵入に疲弊しきっていた西ローマ帝国を信仰で守ろうと聖堂建設に乗り出したという。
 それはあたかも、滅亡寸前の西ローマ帝国が最後に耀いた時ともされている。

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 その一族を葬ったとされる霊廟、ガッラ・プラチーディア霊廟(左)です
 
壁から円天井(中)までを覆い尽す深い青を基調にしたモザイク
 
左右に設えられた小さな窓からの淡い光に煌めき、まさに、幽玄の世界です
 
その窓は、外光を和らげるために雪花石膏、アラバスターが施されていました

 霊廟と同じ敷地にある、ヨーロッパでも有数のヴィザンチン芸術の傑作・至宝を有するサン・ヴィターレ教会へ向かった。

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 キリスト教で新しい創造を表す “8” の数字で象られた八角形の教会です
 
煉瓦を組んだだけの何の装飾も施されていない素朴な外観ですが・・・
 
その内陣はと言えば、天井や壁は言うに及ばず床に至るまで全部モザイク
 
一角には、イサクの犠牲(右/99)など旧約聖書の物語性の高い一場面が描かれています

 精緻な装飾で覆い尽くされ驚くばかり、これぞまさにヴィザンチン芸術の真髄が今に遺されていて、何度見てもその素晴らしさ、感動は色褪せない。

 聖堂正面には、キリストが聖ヴィタリス=ヴィターレと大司教エクレシウスを従える様が描かれている。

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 中央には草花の繁る楽園に座するキリスト(左)
 
向かって右には、テォドーラ皇后と女官たち(中)が
 
左には、東ローマ帝国の最大の版図を築いたユスティニアヌス帝とその廷臣たち(右)が

 この後、グループツアーだから仕方がないのかも知れないが、ヘンなガイドのおばさんの店で貴重な時間をつぶした。
 所作もなく店の先の小さな十字路辺りでぶらぶらしていたら、昨年、角の薬店でカタリナ のマスクを買ったことを思い出し笑ってしまった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.669

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「イタリアの赤い街」へは、<コチラ>から入れます。

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