幕府の鎖国政策(1612年~1854)は242年続きその弊害として日本に於いて人、物、金が停留し国家としての発展が停滞しました。しかし幕府は他国と全く国交が無かった訳ではありません。幕府は外国に向けて四か所の窓口を外交拠点として設置していました。
『まず一つ目の窓口である松前藩は蝦夷地の物流集積港として北方の外交の窓口である函館湊を発展させていました。』①
『次に二つ目の窓口は対馬府中藩(現長崎県対馬市)は朝鮮通信使を迎える日朝外交の窓口としてまた日朝貿易で栄えていまた。しかし主要な輸入品の朝鮮人参が日本で栽培に成功し19世紀になると朝鮮からの朝鮮人参の輸入が減少し日朝貿易の収益は激減していました。』①
『それから薩摩藩は琉球との貿易を幕府から認めら志布志港(しぶしこう現鹿児島県 志布志市)が三つ目の窓口で南方外交の窓口として発展しました。』①
『そして四つ目の窓口はユーラシア大陸の窓口である長崎の人工の島「出島(でしま 現長崎市出島町)」でオランダ王国と清との貿易(1634年~1859年)を行っていました。出島にはオランダ商館長が本国より赴任し海外情報を提供させ長崎奉行に報告を行っていました。長崎奉行は商館長から聞き取った海外情報を江戸幕府に報告し幕府閣僚は海外の情報を得ていました。』②
『出島貿易での日本の主要な輸出品は銅、陶磁器、漆工芸品などでした。またオランダ王国の主要な輸入品としてビロード、砂糖、ガラス製品、書籍などでした。』②
18世紀、江戸幕府が開闢して100年が経過し江戸開発バブルは今は昔話となっていました。江戸時代幕藩体制の収入源は米でした。しかし毎年の様に続く台風による災害や天候不順による作物の不作また農民の農地放棄などによる生産量低下が続き幕府と藩の収入は不安定であったのです。つまり武士は経済学を学ばなければドンブリ勘定では財政が成り立たなくなっていたのです。
『その頃日本は不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が栄えていました。幕藩体制の改革として八代将軍徳川吉宗は幕府の米に依存する財政を立て直すため産業を興し生糸や陶磁器、漆工芸品などの輸出品の生産を盛んする「殖産興業」を奨励しました。また吉宗は国交があるオランダ王国の学問「オランダ学」を解禁して西洋学を学ぶ事を各藩に奨励しました。』①
『幕府はキリスト教の布教を禁じていましたが吉宗はキリスト教に関係の無い政治学・法律学・天文学・暦学・医学・兵学などの西洋学を解禁して長崎で翻訳されました。』①
長崎は西洋学の発信地となっていき西洋学を学ぶ藩士や学者が長崎に集まって来ます。そして彼等によって長崎には「西洋学の知のネットワーク」が構築されていきます。
19世紀初頭1823年、バイエルン王国(現ドイツ)のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日しました。シーボルトは1824年に「鳴滝塾(なるたきじゅく現長崎市鳴滝)を開いて西洋医学を教えました。シーボルトは楠本滝(くもとたき)と出会いやがて娘の楠本 イネ(くすもと いね)が生まれました。
1854年7月中頃、長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が西洋学の発信地長崎に向かっていました。大村益次郎は長州周防大村(現山口県大島郡周防大島町)の医者でした。大村益次郎は大坂で1838年に緒方洪庵が開校した「適塾」(国立大阪大学の前身)で医学やオランダ学を学びました。塾生には橋本左内・福澤諭吉(ふくざわゆきち)などが共に学んだ。
鳴滝塾でシーボルトから医学を学んだ伊予松山藩の医学者二宮 敬作(にのみや けいさく)と大村益次郎は共に伊予宇和島藩の依頼で軍艦の研究を行うため長崎に向かっていのです。
幕閣安部正弘の幕政近代化改革である海軍士官を教育する専門的な海軍教育機関「長崎海軍伝習所」また西洋科学を体系的に教え研究する教育機関「蛮書調所 ばんしょしらべしょ国立東京大学の前身)に大村益次郎は教授として関わることになります。
その頃江戸城本丸大奥ではペリーの置き土産が騒動になっていました。大奥とは将軍の正室御台所と側室のための江戸城本丸のスペースです。将軍以外は男子禁制で女性の花園です。12代将軍家慶の代には1500人もの女中が働いていました。
ペリーは将軍家定の御台所に「ミシン」を献上したのです。家定の生母である本寿院の女中たちがミシンの使い方が解らず異国の得体の知れない物として怖がって近ずかないのでした。
そこで本寿院が「島津の娘に引き取り来させよ !」と歌橋(うたはし 家定の乳母)に指示しました。歌橋は大奥の下働きの女中に江戸薩摩藩邸の屋敷に使いに出しミシンを引き取る様に幾島に伝えた。幾島は次の日にミシンを引き取りに大奥まで出向いた。
そして幾島が大奥の控えの間で待っていると歌橋が現れた。この時、家定と敬子姫との婚儀は京の清涼殿の再建で出費がかさむので一年延期と決まっていた。この幕府の裁定に不満だった歌橋は幾島にこう言い放った。
「一橋慶喜と一条美賀子との結婚は延期せず
上様と敬子姫との結婚は延期になった悔しくないか?」
幾島は絶句した一橋慶喜の結婚を幕府が延期しなかったことを知らなかったのだ。歌橋は幾島に荷物は「七つ口」(下働きの女中と商人などが出入りする大奥の勝手口の事)にあるそこから下城せよと言いました。幾島は外様の使者の扱いはこんなものかと落胆した。
尊王攘夷を唱える「水戸徳川家の政治的影響力」は絶大です。その中心である徳川斉昭と藤田東湖の「一橋派」が主張する「尊王攘夷論+次期将軍候補一橋慶喜擁立」政治的キャンペーンに消極的開国派である南紀派の本寿院と歌橋はこの頃はやや圧され気味だった。そこで本寿院と歌橋そして井伊直弼らは紀州徳川家の慶福(よしとみ 後 第14代将軍 家茂 いえもち)を次期将軍擁立することを朝廷の九条尚忠(くじょう ひさただ)に対して密かに薦めていました。
1854年7月下旬、西郷吉之助は斉彬の使いで江戸水戸藩邸上屋敷の藤田東湖を訪ねました。斉彬は統一されたデザインの「国旗」を考えてほしいと斉昭から依頼されていたのです。そしてサンプルの国旗が出来たのでデザイン合わせに西郷吉之助が江戸水戸藩邸を訪門したのです。
つづく
『』① 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より より要約
『』② 平成13年改訂版 長崎市教育委員会発行 「出島」より要約
お日様とお月様の光と影 ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(2)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号 新人物往来社
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
『まず一つ目の窓口である松前藩は蝦夷地の物流集積港として北方の外交の窓口である函館湊を発展させていました。』①
『次に二つ目の窓口は対馬府中藩(現長崎県対馬市)は朝鮮通信使を迎える日朝外交の窓口としてまた日朝貿易で栄えていまた。しかし主要な輸入品の朝鮮人参が日本で栽培に成功し19世紀になると朝鮮からの朝鮮人参の輸入が減少し日朝貿易の収益は激減していました。』①
『それから薩摩藩は琉球との貿易を幕府から認めら志布志港(しぶしこう現鹿児島県 志布志市)が三つ目の窓口で南方外交の窓口として発展しました。』①
『そして四つ目の窓口はユーラシア大陸の窓口である長崎の人工の島「出島(でしま 現長崎市出島町)」でオランダ王国と清との貿易(1634年~1859年)を行っていました。出島にはオランダ商館長が本国より赴任し海外情報を提供させ長崎奉行に報告を行っていました。長崎奉行は商館長から聞き取った海外情報を江戸幕府に報告し幕府閣僚は海外の情報を得ていました。』②
『出島貿易での日本の主要な輸出品は銅、陶磁器、漆工芸品などでした。またオランダ王国の主要な輸入品としてビロード、砂糖、ガラス製品、書籍などでした。』②
18世紀、江戸幕府が開闢して100年が経過し江戸開発バブルは今は昔話となっていました。江戸時代幕藩体制の収入源は米でした。しかし毎年の様に続く台風による災害や天候不順による作物の不作また農民の農地放棄などによる生産量低下が続き幕府と藩の収入は不安定であったのです。つまり武士は経済学を学ばなければドンブリ勘定では財政が成り立たなくなっていたのです。
『その頃日本は不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が栄えていました。幕藩体制の改革として八代将軍徳川吉宗は幕府の米に依存する財政を立て直すため産業を興し生糸や陶磁器、漆工芸品などの輸出品の生産を盛んする「殖産興業」を奨励しました。また吉宗は国交があるオランダ王国の学問「オランダ学」を解禁して西洋学を学ぶ事を各藩に奨励しました。』①
『幕府はキリスト教の布教を禁じていましたが吉宗はキリスト教に関係の無い政治学・法律学・天文学・暦学・医学・兵学などの西洋学を解禁して長崎で翻訳されました。』①
長崎は西洋学の発信地となっていき西洋学を学ぶ藩士や学者が長崎に集まって来ます。そして彼等によって長崎には「西洋学の知のネットワーク」が構築されていきます。
19世紀初頭1823年、バイエルン王国(現ドイツ)のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日しました。シーボルトは1824年に「鳴滝塾(なるたきじゅく現長崎市鳴滝)を開いて西洋医学を教えました。シーボルトは楠本滝(くもとたき)と出会いやがて娘の楠本 イネ(くすもと いね)が生まれました。
1854年7月中頃、長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が西洋学の発信地長崎に向かっていました。大村益次郎は長州周防大村(現山口県大島郡周防大島町)の医者でした。大村益次郎は大坂で1838年に緒方洪庵が開校した「適塾」(国立大阪大学の前身)で医学やオランダ学を学びました。塾生には橋本左内・福澤諭吉(ふくざわゆきち)などが共に学んだ。
鳴滝塾でシーボルトから医学を学んだ伊予松山藩の医学者二宮 敬作(にのみや けいさく)と大村益次郎は共に伊予宇和島藩の依頼で軍艦の研究を行うため長崎に向かっていのです。
幕閣安部正弘の幕政近代化改革である海軍士官を教育する専門的な海軍教育機関「長崎海軍伝習所」また西洋科学を体系的に教え研究する教育機関「蛮書調所 ばんしょしらべしょ国立東京大学の前身)に大村益次郎は教授として関わることになります。
その頃江戸城本丸大奥ではペリーの置き土産が騒動になっていました。大奥とは将軍の正室御台所と側室のための江戸城本丸のスペースです。将軍以外は男子禁制で女性の花園です。12代将軍家慶の代には1500人もの女中が働いていました。
ペリーは将軍家定の御台所に「ミシン」を献上したのです。家定の生母である本寿院の女中たちがミシンの使い方が解らず異国の得体の知れない物として怖がって近ずかないのでした。
そこで本寿院が「島津の娘に引き取り来させよ !」と歌橋(うたはし 家定の乳母)に指示しました。歌橋は大奥の下働きの女中に江戸薩摩藩邸の屋敷に使いに出しミシンを引き取る様に幾島に伝えた。幾島は次の日にミシンを引き取りに大奥まで出向いた。
そして幾島が大奥の控えの間で待っていると歌橋が現れた。この時、家定と敬子姫との婚儀は京の清涼殿の再建で出費がかさむので一年延期と決まっていた。この幕府の裁定に不満だった歌橋は幾島にこう言い放った。
「一橋慶喜と一条美賀子との結婚は延期せず
上様と敬子姫との結婚は延期になった悔しくないか?」
幾島は絶句した一橋慶喜の結婚を幕府が延期しなかったことを知らなかったのだ。歌橋は幾島に荷物は「七つ口」(下働きの女中と商人などが出入りする大奥の勝手口の事)にあるそこから下城せよと言いました。幾島は外様の使者の扱いはこんなものかと落胆した。
尊王攘夷を唱える「水戸徳川家の政治的影響力」は絶大です。その中心である徳川斉昭と藤田東湖の「一橋派」が主張する「尊王攘夷論+次期将軍候補一橋慶喜擁立」政治的キャンペーンに消極的開国派である南紀派の本寿院と歌橋はこの頃はやや圧され気味だった。そこで本寿院と歌橋そして井伊直弼らは紀州徳川家の慶福(よしとみ 後 第14代将軍 家茂 いえもち)を次期将軍擁立することを朝廷の九条尚忠(くじょう ひさただ)に対して密かに薦めていました。
1854年7月下旬、西郷吉之助は斉彬の使いで江戸水戸藩邸上屋敷の藤田東湖を訪ねました。斉彬は統一されたデザインの「国旗」を考えてほしいと斉昭から依頼されていたのです。そしてサンプルの国旗が出来たのでデザイン合わせに西郷吉之助が江戸水戸藩邸を訪門したのです。
つづく
『』① 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より より要約
『』② 平成13年改訂版 長崎市教育委員会発行 「出島」より要約
お日様とお月様の光と影 ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(2)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号 新人物往来社
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。