アジア・オセアニアNews blog ~お日様とお月様の光と影~

アジア・オセアニア地域の通信社が配信する記事から『中国の領土紛争問題』を伝え日本の安全保障などのニュースブログ。

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した (24)

2013年11月10日 | お日様とお月様の光と影
 1854年6月6日アメリカとの交渉条約担当の林復斎、浦賀奉行の黒川嘉兵衛そして下田取締掛の都築峯暉と伊沢政義らが集まり下田応接を了仙寺(りょうせんじ下田市七軒町)に設営しました。  
  同日、洋式帆走軍艦鳳凰丸が浦賀造船所で製造されこの日に竣工しました。鳳凰丸は三本マストの日本初の洋式帆走軍艦です。全長 36.4 m全幅 9.1 m 装備は大小砲門を10門を武装しまた銃剣付式小銃も搭載されていました。もしかするとペリーが浦賀に来航した時に何もできなかった浦賀奉行はプライドが傷ついたため建造を早めさせペリーに見せつけようとしたかもしれません。6月11日に鳳凰丸の試験航海を行っている。 

 6月7日、下田と函館との両港開港交渉のためにペリー艦隊が下田に戻って来ました。下田は横浜の様に新開地ではなく商業港として商人や庶民の生活があり町はにぎわっていました。
下田沖に残っていたアメリカ艦隊はペリーが函館の検分に行っいる二か月間ず~っと毎日の様にアメリカ海兵が下田の町に上陸し散策を楽しんでいました。アメリカ海兵が下田の町に上陸し好き勝手に歩き回りその上商売をするそして商売上のトラブルが起きる。その取り締りを下田奉行黒川嘉兵衛が一人で走り回っていました。

  
 6月8日、アメリカの交渉団はペリーを先頭に通訳官のウィリアムズ、海軍士官、鉄砲隊など総勢三百人の大行列が下田の町に上陸し了仙寺に向かいました。日本とアメリカとの双方条約交渉団は了仙寺で条約再交渉を再開し林とペリーは二か月ぶりに再会しました。

 林とペリーが交渉した「日米和親条約の条約付属」は下記の通り
  ①下田に奉行所を設置
  ②アメリカ人の下田での移動可能範囲に関門を設け28㎞範囲
  ③函館は20㎞四方に定めた。
  ④アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺とした。
  ⑤事故で亡くなったアメリカ人の船員の墓は玉泉寺に置く。
  ⑥アメリカ人による鳥獣の狩猟を禁止。 

 そして日本貨幣とアメリカ貨幣との交換比率の交渉が行われました。林が1ドルを日本銀16匁(もんめ 約3.75グラム)とした。がしかしペリーは納得できないでいました。ペリーは日米和親条約にある第11条「条約調印の日より18ヶ月後に下田に駐在する領事」に交換比率問題を託す事にした。今後も日本貨幣とアメリカ貨幣との交換比率は変転してゆきます。

 林は幕閣安部正弘より条約の言語をオランダ語版・日本語版・英語版の三通作成し署名せよと指示を受けていました。ペリーもこれに承諾しました。そして「日米和親条約の条約付属」は1854年6月17日付けで日本とアメリカとの双方条約交渉団によって翌18日に調印されました。アメリカとの交渉条約担当の林復斎は歴史的大役を果たし江戸に戻っていきました。
 この様にして13か月に及ぶペリーの日本遠征と条約交渉が終了しました。1854年6月25日ペリー艦隊はミシシッピー号を旗艦として故国アメリカ合衆国へ帰途についた18ヶ月後に下田に駐在する領事に多くを託して。


   さてペリーは日本人の技術について「ペリー日本遠征記」で次の様に語っている。
 

    ペリー提督「日本遠征記」『卓越した日本人の技術水準』
 
   『実用的、機械的技術において、日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。
    そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮するとき、
    彼等の手工業上の技術の 完全なことはすばらしいもののようである。』

   『日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず熟練して精通しており、
    国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民
    にいつまでも劣ってはいないことだろう。』

   『他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速
    さによって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が
    緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。
 』

   『日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、
    将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう。』

    『』内は外務省 在NY総領事館 
     ペリー提督「日本遠征記」のエピソード より転載しました。


 八代将軍徳川吉宗は国交があるオランダ王国の学問「オランダ学」を解禁して西洋学を学ぶ事を各藩に奨励しました。18世紀の日本において政治学・法律学・天文学・暦学・医学・兵学などの西洋学の種が蒔かれたのです。
 それから100年が経過した19世紀中頃、日本は貨幣経済の発達に伴って商業が発展していました。商業物流を担う海運業が盛んでそれに伴う造船業と関連工業も発達していたと思われます。日本初の洋式帆走軍艦「鳳凰丸」はわずか8か月間という建造期間で竣工しました。日本の造船技術が高い水準に達していたと思われます。
しかし日本に於いての西洋学は武家階層に浸透していてまだまだ一般庶民には普及してはいませんでした。それに鳳凰丸は完成していも船を操舵する海兵を育成しなければなりませんでした。そのため幕府は海軍士官を教育する専門的な海軍教育機関と西洋科学を体系的に教える教育機関を必要としていました。日本と東アジアの近代化の夜明けはまだまだ遠い。

   
 その頃、徳川斉昭の隠居邸宅にしていた江戸水戸藩邸中屋敷(現東京都文京区本郷)では斉昭が自室で手紙を方々に書いていました。「鳳凰丸」の完成に触発された斉昭は水戸藩「旭日丸」建造の責任者である 戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)と安島 信立(あじま のぶたつ)に対して造船を早める様に促しました。また戸田 忠太夫には統一されたデザインの「国旗」を考える様に命じまていました。
 ペリーが来航した事によって露呈した幕府内政の制度不良と権威が傾き始めた徳川宗家を斉昭は必死なって立て直そうとしていたのでした。それが出来る資格が有るのは水戸徳川家だと斉昭は信じていました。

 斉昭の自室に正室吉子(よしこ)が慶喜の手紙を持ってニコニコしながら入って来ました。吉子は宮家有栖川家(ありすがわ)から水戸徳川家に嫁いで来ました。吉子の願は慶篤や慶喜そして他家へ養子に行った子どもたちが健やかであることだった。吉子は慶喜からの手紙を斉昭に渡した。斉昭は手紙を読みはじめるすると斉昭の顔がみるみるうちに赤くなりました。

     「けしからん!!」斉昭が怒る!!

   吉子には何が斉昭の勘気に触れたか判りませんでした。



  第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 へ つづく 


  お日様とお月様の光と影 ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
  第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
       プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
       第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防


 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
 江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
 幕末外交と開国 講談社学術文庫 より

 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。