1854年5月17日、ペリーは箱館に入港して函館の町に上陸しました。ペリー一行は函館に10日あまり過ごしました。ペリーは函館の町と下田の町の印象を『ペリー艦隊日本遠征記』で語っている。
ペリーの函館の印象
『地中海入口のジブルタルに酷似しており、広い道路が整然と伸び、排水への
配備がなされ、敷石が敷かれ、日本の他の町と同様にきわめて清潔である。
約50キロ離れた幕府直轄地との間にかなりの物資往来がある。幕府の役人は
函館は貧しいと強調するが。この地の将来性は高い。』
ペリーの下田の印象
『下田は文明が進んだ町であることが見とられ、町を建設した人々の衛生や健康面
への配慮は、わが合衆国が誇りとする進歩をはるかに上回っていた。
排水溝だけでなく下水道もあり、汚水や汚物はじかに海に流すか、町中を流れる
小川に流し込んでいる。』
函館の土地は米が採れないので農業より漁業が盛んでした。また松前藩は蝦夷地の物流集積港として函館湊を発展させていました。アメリカはイギリスより独立して約80年が経過した新興国で日本の主要都市の文化水準の高さに驚いのだと思う。
「蝦夷地」現在の北海道は江戸時代はそう呼ばれていました。江戸時代の函館は幕府直轄地であったり松前藩の領地になったりを繰り返していました。それは商業が盛んだった日本に於いて幕閣の蝦夷地利権争いがあったのです。また先住民族アイヌの人々と幕府や松前藩との土地の所有権争いもあったのです。
それに外交問題として帝政ロシアの極東支配に伴って19世紀初頭より蝦夷地や樺太(サハリン)千島列島などの北方領土問題が有り幕府と帝政ロシアは緊張関係に有りました。そこで幕府は1808年、幕府役人の間宮 林蔵(まみや りんぞう)に対して樺太の探検を命じました。間宮の約20年間に渡る探検は千島列島から樺太そして大陸に渡りウラジオストク地域を探検しました。間宮の極東探検により樺太が島であることを確認しました。そして極東地域に於いては多様な民族が居住しており帝政ロシアの支配は十分ではないことを確認したのです。この様に幕府と帝政ロシアは国境策定の北方領土問題を解決しなければならない外交問題だったのです。
江戸時代幕藩体制の収入源は米でしたしかし毎年の様に続く台風による災害や天候不順による作物の不作また農民の農地放棄などによ生産量低下が続き幕府と藩の収入は不安定であっのです。幕府は旗本の(徳川将軍家直属の家臣団)軍事力に支えられたいました。そして旗本の領地に於いても米の生産量低下よる収入が減少し旗本の生活は窮乏していました。
19世紀、日本は不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が発展していました。この頃の幕府財政は危機的状況になり12代将軍家斉と13代将軍家慶は幕政改革を行いましたがその都度抵抗勢力により反対され失敗に終わりました。すでに幕府の内政は制度不良を起し機能不全に陥りかけていたのです。
1854年5月下旬頃、江戸城本丸御殿の御用部屋では安部正弘、徳川斉昭、藤田東湖らが海防強化ための合議をしていました。浦賀奉行より洋式帆走軍艦「鳳凰丸」が6月6日に竣工予定と報告がありました。昨年ペリーが来航し海防強化のため幕府は各藩に対して「大船建造の禁」を解禁し洋式帆走軍艦の建造を許可しました。洋式帆走軍艦の「鳳凰丸」は同型の薩摩藩「昇平丸」水戸藩「旭日丸」より早く竣工したのです。幕府海軍の軍艦洋式化に伴いない現在有る軍艦操練所よりも海軍士官を教育する専門的な海軍教育機関と西洋科学を体系的に教える教育機関が必要となりました。
安部正弘はこれまでの慣例に囚わていたら「日本は清の様に列強諸国の搾取の餌食になると危機感を持つ数少ない幕府閣僚」でした。まず海防掛(外国交渉専門機関)を常設し専門外交官僚として岩瀬忠震(いわせ ただなり)勝海舟(かつ かいしゅう)大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)永井尚志(ながい なおゆき)などの優秀な人材を登用を行いました。
次に250年も平和な時代が続き軍人である旗本がペリー来航の時に何の役に立たないことが判明したのです。その旗本の子弟に対して洋式調練や砲術などの近代的武装に馴染ませるため「講武所(現東京都千代田区三崎町付近)」を開設することにしました。また専門的な海軍教育機関構想については徳川斉昭が旗本に囚われていては誰も集まらないので「広く各藩から募集すればどうか?」と提案しました。安部も斉昭の提案に賛成し長崎に開設することで内定しつつありました。
そして洋式帆走軍艦の建造を許可し今後次々と洋式軍艦が竣工するので外国船と日本船とを識別し区別する統一されたデザインの船舶旗「国旗」が必要となりました。幕府は蝦夷地の警備のため幕府軍艦に「日の丸」を掲げていました。しかし当時は統一されたデザインの旗印「国旗」はありませんでした。安部は統一されたデザインの「国旗」を考えてほしいと斉昭に依頼しました。
東湖は言います
「大殿、我が国は古来より日の丸を掲げてまいりました」
斉昭は言います
「そうじゃ!正弘!日の丸を掲げさせよ!」
斉昭は「国旗」を日の丸にする様に安部に勧め日の丸のデザインを考える事を快諾しました。
1854年6月6日、下田と函館との両港開港の詳細交渉のためにペリー艦隊が下田沖に約束通り戻って来ました。その日は日本初の洋式帆走軍艦「鳳凰丸」が竣工する日でもあった。
つづく
『』内は幕末外交と開国 講談社学術文庫 より引用
お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(23)
参考文献
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
幕末外交と開国 講談社学術文庫 より
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/round_o.gif)
『地中海入口のジブルタルに酷似しており、広い道路が整然と伸び、排水への
配備がなされ、敷石が敷かれ、日本の他の町と同様にきわめて清潔である。
約50キロ離れた幕府直轄地との間にかなりの物資往来がある。幕府の役人は
函館は貧しいと強調するが。この地の将来性は高い。』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/round_o.gif)
『下田は文明が進んだ町であることが見とられ、町を建設した人々の衛生や健康面
への配慮は、わが合衆国が誇りとする進歩をはるかに上回っていた。
排水溝だけでなく下水道もあり、汚水や汚物はじかに海に流すか、町中を流れる
小川に流し込んでいる。』
函館の土地は米が採れないので農業より漁業が盛んでした。また松前藩は蝦夷地の物流集積港として函館湊を発展させていました。アメリカはイギリスより独立して約80年が経過した新興国で日本の主要都市の文化水準の高さに驚いのだと思う。
「蝦夷地」現在の北海道は江戸時代はそう呼ばれていました。江戸時代の函館は幕府直轄地であったり松前藩の領地になったりを繰り返していました。それは商業が盛んだった日本に於いて幕閣の蝦夷地利権争いがあったのです。また先住民族アイヌの人々と幕府や松前藩との土地の所有権争いもあったのです。
それに外交問題として帝政ロシアの極東支配に伴って19世紀初頭より蝦夷地や樺太(サハリン)千島列島などの北方領土問題が有り幕府と帝政ロシアは緊張関係に有りました。そこで幕府は1808年、幕府役人の間宮 林蔵(まみや りんぞう)に対して樺太の探検を命じました。間宮の約20年間に渡る探検は千島列島から樺太そして大陸に渡りウラジオストク地域を探検しました。間宮の極東探検により樺太が島であることを確認しました。そして極東地域に於いては多様な民族が居住しており帝政ロシアの支配は十分ではないことを確認したのです。この様に幕府と帝政ロシアは国境策定の北方領土問題を解決しなければならない外交問題だったのです。
江戸時代幕藩体制の収入源は米でしたしかし毎年の様に続く台風による災害や天候不順による作物の不作また農民の農地放棄などによ生産量低下が続き幕府と藩の収入は不安定であっのです。幕府は旗本の(徳川将軍家直属の家臣団)軍事力に支えられたいました。そして旗本の領地に於いても米の生産量低下よる収入が減少し旗本の生活は窮乏していました。
19世紀、日本は不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が発展していました。この頃の幕府財政は危機的状況になり12代将軍家斉と13代将軍家慶は幕政改革を行いましたがその都度抵抗勢力により反対され失敗に終わりました。すでに幕府の内政は制度不良を起し機能不全に陥りかけていたのです。
1854年5月下旬頃、江戸城本丸御殿の御用部屋では安部正弘、徳川斉昭、藤田東湖らが海防強化ための合議をしていました。浦賀奉行より洋式帆走軍艦「鳳凰丸」が6月6日に竣工予定と報告がありました。昨年ペリーが来航し海防強化のため幕府は各藩に対して「大船建造の禁」を解禁し洋式帆走軍艦の建造を許可しました。洋式帆走軍艦の「鳳凰丸」は同型の薩摩藩「昇平丸」水戸藩「旭日丸」より早く竣工したのです。幕府海軍の軍艦洋式化に伴いない現在有る軍艦操練所よりも海軍士官を教育する専門的な海軍教育機関と西洋科学を体系的に教える教育機関が必要となりました。
安部正弘はこれまでの慣例に囚わていたら「日本は清の様に列強諸国の搾取の餌食になると危機感を持つ数少ない幕府閣僚」でした。まず海防掛(外国交渉専門機関)を常設し専門外交官僚として岩瀬忠震(いわせ ただなり)勝海舟(かつ かいしゅう)大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)永井尚志(ながい なおゆき)などの優秀な人材を登用を行いました。
次に250年も平和な時代が続き軍人である旗本がペリー来航の時に何の役に立たないことが判明したのです。その旗本の子弟に対して洋式調練や砲術などの近代的武装に馴染ませるため「講武所(現東京都千代田区三崎町付近)」を開設することにしました。また専門的な海軍教育機関構想については徳川斉昭が旗本に囚われていては誰も集まらないので「広く各藩から募集すればどうか?」と提案しました。安部も斉昭の提案に賛成し長崎に開設することで内定しつつありました。
そして洋式帆走軍艦の建造を許可し今後次々と洋式軍艦が竣工するので外国船と日本船とを識別し区別する統一されたデザインの船舶旗「国旗」が必要となりました。幕府は蝦夷地の警備のため幕府軍艦に「日の丸」を掲げていました。しかし当時は統一されたデザインの旗印「国旗」はありませんでした。安部は統一されたデザインの「国旗」を考えてほしいと斉昭に依頼しました。
東湖は言います
「大殿、我が国は古来より日の丸を掲げてまいりました」
斉昭は言います
「そうじゃ!正弘!日の丸を掲げさせよ!」
斉昭は「国旗」を日の丸にする様に安部に勧め日の丸のデザインを考える事を快諾しました。
1854年6月6日、下田と函館との両港開港の詳細交渉のためにペリー艦隊が下田沖に約束通り戻って来ました。その日は日本初の洋式帆走軍艦「鳳凰丸」が竣工する日でもあった。
つづく
『』内は幕末外交と開国 講談社学術文庫 より引用
お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(23)
参考文献
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
幕末外交と開国 講談社学術文庫 より
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
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筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
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