ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

正規分布

2020年07月07日 | 命の生き方
どんなに科学が発展しても、どんなに医学が発達しても…、人の寿命には限りがあって、いつかその「生」が終わる事を知っていながら、全力疾走をするという矛盾を生きています。「本当に理にかなったものは美しい」。数学的な美しさ…と言うものがトテモ魅力的に見えるのは、私だけでしょうか。

正規分布と言われる分布曲線は、美しく左右対称のカーブを描きます。人の一生も、それを阻む要素がもしなければ、美しい正規分布を描くのが、当然なのかもしれません。

何もできない赤ん坊が、身体的にも知識的にも精神的にも、急速に成長していくカーブは、頂点が過ぎれば、全てが衰えて行くカーブを描いて当たり前なのだと、そう思います。それが、最も美しい曲線なのですから。それなのに、私たちは、ピークを過ぎて突然そこで0に回帰したい…という強い欲望に捨てきれません。何もできない事が武器である赤ん坊に対して、大人のそれは武器とは程遠いからです。いっそ芥川龍之介の小説に出て来る河童のように、生まれた時には老人で、年を取るほど若返る一生であれば…もっと生き易いのかも知れません。

若い時と同様に行かなくなっていく懸念を周囲に振りまきながらも、どうすれば美しい分布曲線の下りカーブを左右対称にせずに済むのか。「人間は何のために生きるのか」と言った、かつての「書生」が必ず通って来た青臭い葛藤を、他人事のようにスルーしてはいけないのだろうと、何となく思います。

SNS

2020年07月06日 | 社会派らぼ
世界中でSNSが利用されています。利用者数が一番多いのは、おそらくLINEでしょうか。次いで、TwitterやInstagram、Facebookなどが続くと思われます。TikTokなども、SNSの一つに入るのでしょうか。更にはYou Tuberなどという「職業」が存在するのも、もはや当たり前の感覚になりました。

Social Networking Service。つまりは社会的な繋がりを作り出せるサービスだというわけです。SNSに登録することで、知っている人は勿論、知らない人や、知っていたけれど交流が無かった人ともコミュニケーションを楽しむことができる…というわけです。SNSを否定するのは、何か時代について行けてない「痛い」大人のような錯覚があって、時代の寵児として受け入れてはいます。…が、本当のところ、SNSなど「要らない」のではないだろうかと考えたりします。

コロナウイルスの感染拡大は、リモートワーク・オンライン授業など、人と人が会う事を物理的に妨げました。ミーティングアプリなどの技術進化や浸透は、After corona にも、確実に生活様式に変化をもたらすはずです。いずれ、人は生身の人と出会うことなく、何不自由なく暮らす時代に突入するかに見えます。そして、SNSを駆使して、自己表現に努め、SNSを介して人と繋がる安心感で満たされる…と言う風には思えないのです。

SNS上に溢れる「生身」は、いわば演出の生身であり、虚飾の生身です。人の「こうありたい」願望を満たすものとしては、優秀なツールなのかも知れませんが、そんなところで出会う「繋がり」には正直、興味はありません。唯一SNSのメリットは「情報」としての値打ちかもしれませんが、それとて溢れんばかりのSNSの世界でまことしやかに流れる情報のどこまでが真実かと言えば…、おそらく数パーセントに過ぎないのではないかと、疑心暗鬼に陥ります。

見も知らぬ人たちと繋がって、大きな輪を広げていくことで、何かしら実りがあるのは、おそらく利用者のほんの一部でしか無くて、大半は時間の無駄をしているのではないでしょうか。やはり、人は向かい合って、心通わせて「なんぼ」ではないかと、SNSが無ければ世の中が回っていかないのではないかとすら思える時代にあって、いっそ無くしても良いのではないかと考えていたりします。活かすなら、活かす方法がキットあるはずです。私たちがまだ思いついていない方法が。

種としてのヒト

2020年07月05日 | 社会派らぼ
全国に緊急事態宣言が発令され、未曽有の「自粛」期間が持たれたため、一時的にコロナは制圧できたかに見えていました。が、宣言が解除され、日常生活が戻るにつれ、やはり感染者数は増えており、一方で経済活動が止まる事がもたらす大打撃の懸念があって、再度の「自粛」が打ち出せずにいます。世の中は「After corona」を目指すことを諦めて、「With corona」を模索していると言われます。東京での1日の新たな感染確認が100人を超え、各地と合わせると250人と発表されています。ただ8割を20~30代が占めているとか…で、更にこれが高齢者層に広がる事に、警戒感を強めています。

加えて九州で、梅雨前線が活発な活動を見せており、断続的に大雨が降っているようです。球磨川では全域7か所で氾濫が発生、熊本や鹿児島で大雨の特別警報が発表されています。コロナ下での災害発生は以前から懸念されており、特に避難所での3密回避が緊急の課題とされていましたが、入念なシュミレーションや対策が確立される前に、災害が起きてしまったかに見えます。避難所での密を避けるための十分なスペース確保や、発熱などの症状を示した者を隔離できるスペース、またホテルや知人宅など避難所外への避難など、綱渡りが要求されています。

つまり、医学や科学技術の発達は、人類にかつてない繁栄を与えたかのように見えはしていましたが、実は未だに未知のウイルスや大自然の驚異の前では太刀打ちができないほどの存在でしかなかったわけです。中国では、更に「新型豚インフル」が確認され、人に広がる恐れも考えられているようです。ここは世界中が手を取り合って、地球の敵に立ち向かわなければならないところ…なのですが、残念ながら今も世界はそこまで成熟してはいないようです。

国同士の小競り合いは、宇宙人でも攻めて来ない限り無くならない…などといった風に揶揄されていました。が、「コロナ」というまさに宇宙人が攻めて来たにも関わらず、世界は互いをけん制し合い、ののしり合う事を止める事が出来ないようです。私たち人間は、単なる一つの「種」に過ぎない事を、改めて心すべきではないでしょうか。2億年も昔でしょうか、地球上では恐竜が栄華を誇っていましたが、7000万年近く前突然滅んだとされています。巨大な隕石が地球に衝突したとか、火山の噴火が続いて環境が大きく変化したとか、滅びた理由については諸説あるようです。ただ恐竜が闊歩した当時、彼らの目を逃れるようにして生きていたか弱い存在の哺乳類がそこを生き延びた…という不思議な事実があります。

地球が、人類を同志だとは考えず、自然そのものが人類を襲ってきています。ここを生き延びる「知恵」を持つモノは、一体どの「種」なのでしょうか。力でねじ伏せられるという自信を疑わねばならない事に気づいているのに、なぜ気づかないふりをし続けるのでしょうか。人間は「絶対」では無い事を、私たちは忘れてはならないはずだと思います。