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ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

しなやかに

2013年12月20日 | 命の生き方
いつも笑っている人だから、悲しみがないとは限りません。いつも穏やかだから、苦しくないわけじゃないのです。いわゆる「頑張って」いる人達だけが、頑張っているわけでは無いのです。本当に頑張っているのは、一見穏やかに笑っている人なのかも知れないと、そう思います。

歯を食いしばって踏ん張ることは、時に大切ではあるでしょうけれど、そんな頑張りはいつまでも続けられるわけではありません。いつかポキッと心が折れてしまう時が必ず来るような危うさがあります。「強い」というのは、恐らくは「弱い」ことの裏返しのような気がするから。本当の強さと言うのは、悲しい事も苦しい事もありのままに受け止めたしなやかなモノのような気がします。様々な力に、真っ向から抗うのではなく、向かい風にはそれに沿うようにしなって、いつかピンと青空に向かって背を伸ばしているようなそんなしたたかさです。



データの方向を横と縦を入れ替えてリンクさせたいエクセル終了時、アクティブセルはどこに?

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ヨミCam

2013年12月19日 | 雑談
数年前までは考えもしなかったサービスがどんどん出現して来ます。書店で本の表紙をスマホで撮影すると、自動的に情報を検索してくれるアプリが発表されました。「ヨミCam」と言うのだそうです。表紙にスマホのカメラをかざして検索し、電子書籍版の価格と比較ができるそうです。更に決済用のバーコードも表示され、書店のレジでダウンロード権を購入できたりもするのだそうです。

紹介の記事内では「リアル書店」といった言葉も使われ出しました。三省堂書店と、電子書籍ストアBookLiveが発表したものです。電子書籍とリアル書店は互いにライバル関係にあるわけですが、双方の利益が確保できるように、色々な取り決めがなされているようでした。リアル書店で電子書籍を購入しても、一定の手数料がリアル書店には入るようになっていたり、GPS機能を利用して、加盟店でのみ使えるようになっている模様。

ただ、同様のアプリがすぐに出てきて、共存共栄を図るような取り決めが、いつか無かったも同然になってしまう懸念も拭えません。時代は変わっていきます。リアル書店・電子書籍販売会社と棲み分けをすることは、すぐに無意味になって行くような気もします。書籍という実態は一つで、それを紙化するか情報化するかのオプション選択…といった展開になるのでしょうか。

ただ、スマホ画面のスワイプ操作に慣れきっている子ども達が、実際の本のページをめくる事に戸惑うといった話を聞いたり、顔を左右に振るだけで本のページがめくれるアプリが出現して来たり。私達は、こうしたサービスの進化のせいで受動的に変わらざるを得ないとしたら、それはチョット違うような気もしてきます。1000年後の人類は、コンピューターの進化によって、脳が縮小するとも予想されています。(話が飛びすぎました…笑。)


データの方向を横と縦を入れ替えてリンクさせたい

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充実感

2013年12月18日 | 社会派らぼ
「黒子のバスケ」という高校バスケットボールを題材とした漫画があるのだそうです。藤巻忠俊が「少年ジャンプ」に連載されており、アニメ化されて人気が急上昇し、今「ONE PIECE」に次ぐとも言われています。この人気を嫉んで、世間を賑わせていた犯人が逮捕されました。

コンビニの漫画の関連商品のウエハースに毒を入れて置いた…などの物騒な脅迫文が送られ、実際にニコチンが検出されたとか、作者の出身大学キャンパスで硫化水素が発見されたとか。影響の大きさを心配してイベントが中止されたり、書店が関連商品をF片付けたりとか、1年以上の挙句に逮捕された犯人は職業不詳の36歳の男性でした。報道されている内容によると、脅迫文をポストに入れようとして逮捕された折には、「ごめんなさい。負けました。」という言葉を使ったそうです。何より、逮捕時の爽やかな笑顔に、この男、一体何を考えているのだろうと困惑した人も多いのではないでしょうか。

これから、動機などの追及が始まるのだと思いますが、やっている事の悪辣さの割に、恐らく本人には罪悪感が少ない。軽い嫉妬心がゲーム感覚の脅迫を演じさせた…ような印象があります。「負けました」の言葉は、彼がその脅迫過程を充実して楽しんでいたのではないだろうかと推測さえしたくなります。SNS網が充実している現代では、特に何という事もない普通人が、少なくとも家庭や地域コミュニティに留まらないもっと大きな社会をざわつかせることができるようになり、むしろそれが当たり前になりつつある感があります。

しかも指紋がつかないように注意する周到さや、遠方まで出向いて脅迫状を投函するような緻密さには、怨念と言うよりも充実感を感じるのです。恐らくは、本当の充実感を知らずに、人生を生きて来たのではないでしょうか。さした努力をすることもなく(というか、本当の努力の仕方を知らず)、ただ現れる結果だけが全てで過ごしているのは、恐らくは彼だけでは無いような気がします。



先頭が○○で始まらないデータの抽出

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公私

2013年12月17日 | 社会派らぼ
私達の日常は、様々なストレスや軋轢に満ちています。人が人と接しながら、日々を営んでいくには、それ相応のいたわりや線引きが必須のように思えるのですが、随所で子どもじみたトラブルが互いのストレスを増幅させてしまいます。どうも日本人は(などと決めつけて良いモノか分かりませんが)、裏表は上手に使い分けるのですが、公私はなかなか巧く切り替えることができません。

日頃の個人的なお付き合いや家族内など内々の言動は勿論「私」の範疇にあります。そこでは、恐らく感情のままに行動したとしても、許容してもらえる相手がいて、凸凹のように互いが補い合うことで、一定の立場が保たれるのだろうと思います。我儘すら許容してもらえることも多々ありますし、それはそれで相手がいて成立します。

が、一歩社会の中に出れば、人は公として振る舞わねばならないことが多くあります。…にも関わらず、個人の感情のままに振る舞う幼児性が抜けなくて、知らないうちに誰かのヒンシュクを買っていることも多くあります。誰かが我慢をすることで成立している関係はやはりいびつです。私として振る舞う場合には、感情のままであって差支えない事も、公として振る舞う時には控えねばならなかったりします。公では、個々の好き嫌いの感情を物差しとして持つこと自体がご法度です、ある程度の寛容さで様々な人の活動を受け容れる覚悟がなければなりません。好悪の感情とは次元の異なるところにであるべきなのです。が一方で、公としては毅然と規範の中ですべてを解決しなければなりません。寛容さと同時に、冷静なシビアさも要求されてきます。

かつて被災地において、駆け付けたボランティアの言動が物議をかもしたこともありました。大方のボランティアは、個人としての義憤に駆られて行動を開始しており、ボランティアは自分の心の赴くままに自由に活動をすれば良いと思っている節があります。恐らくはそうした私的な感情の崇高さの部分で動いているために起こる摩擦が相次いだのではないかと思います。社会の仕組みの中で活動をしようとすれば、それはやはり公であるべきだったのだろうと思います。



ワードの入力時、文字の位置がずれている気がします

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意思なき者は去れ

2013年12月16日 | 雑談
現代はトテモ便利な時代で、スイッチ一つで何もかもができてしまいます。だから…と言って、私たちが手にする知識や技術も、簡単にスイッチ一つで手に入るのかと言うと、そうではありません。新聞のスポーツ面を賑わす多くの選手の活躍を私達は見ていますし、彼らの努力が尋常ではない事も良く知っているつもりですが、それでも私達は彼らの表面しか見る術はありませんので、本当のところの彼らの努力は私達には見えていません。

現代人は随所で、安易に結果だけを求めようとします。勿論、最初は威勢の良い目標などを立てたりもするのですが、所詮逆境には弱く、安易に手に入る方法があるならそちらに傾いてしまうのは(私も含めて)弱い人間の性でしょうか。学校教育の現場でも、「楽しく学ぶ」ことが第1義であって(勿論、そうなのですけれど)、「楽しくなくても学ばねばならない」側面はどうしても追いやられがちです。少し壁にぶつかるだけですぐに投げ出してしまう子ども達には、投げ出さないように、手を変え品を変え、「学んでいただく」工夫が要求されていたりもします。

(それはそれで大切な事なのでしょうけれど)、どうも学び方を知らぬままに大人になったというケースが少なからずあるような気がしています。多くの物事は「求める」からこそ、手に入るわけで、誰しもがただ願望のみで様々なハードルを軽々と越えて行けるわけではないのです。本人的には精一杯だと思っているかも知れないけれど、物事を学ぶには確固たる強い意志が必要なのです、多分。


ワードオブジェクトの枠を縮められない

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受け容れる

2013年12月15日 | 命の生き方
お寺の宣伝がポストに入りました。「生きるとは?」という真面目なメッセージの横に、筋斗雲のような雲がチラホラ飛ばしてあって、つい笑ってしまいました。何とか、親近感を演出しようとした苦肉のデザインだったのでしょう。

どう生きるか? 如何に生きるか? なぜ生きるか? は、永遠のテーマです。それは、恐らく「死とは?」という命題と背中合わせになっているものに他なりません。綿々と続いてきた人類の歴史の中で、「死」というテーマは、多くの人が挑みながらも、今日なお解決することのできていません。

「死」とは何であるのか?という命題に、恐らく答えが見つかることは無いのではないだろうかと思います。「死」とは理解するものにあらず、「受け容れる」もののような気がするのです。解釈して、噛み砕いて呑み込むものではなく、そのままに「受け容れる」ことで、自分の中で折り合いがつくもの。そんな心境になるのに、人は何年も要しそれでも行き着くことができないのに、ある瞬間にすっと、隣の部屋に行くかのように、ふすまを開けて奥の間に消えるのではなかろうか…と、訳の分からない事を感じます。




パワーポイントにルビを振りたい

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「力」

2013年12月14日 | 社会派らぼ
政治の話をするつもりはありません。それでも、連日報道される張成沢氏の粛清とやらは、ぞっとします。「政治犯」と呼ばれる人達は、考え方・立場が変われば、180度評価が変わるものです。ある国の政治がどのようにあるべきかは、その国の人たちが決めるべき事ですが、その考え方の下に集わない者に対し、「生きる権利」を奪うべきではない。私はそんな風に思います。国益に反する行為は、厳に慎むべきものです、多分。批判されて然るべき行為です。(その政権下で言えば…。) 「人」としての在り方を逸脱したものは、どんな政権下でも「否」は「否」です。が、政治的な思惑は、ある日突然「否」が「是」に変わり、「是」が「否」に変わるものですから。

それはさておき、東アジアがキナ臭いことに、多分多くの人が心を痛めています。歴史として学ぶ時には、大惨事に至る近辺の数年などひとくくりになってしまいます。私たちがその渦中に居るのでなければ良いと、痛切に願うものです。「強」即ち「正」であるとする考え方が、一部の人たちの脳裏に居座っているような気がします。結局のところ、強くありさえすればそれが即ち正義なのだと…。確かパスカルだったかが、「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」といった言葉を残しています。その肝心な「正義」が「政治犯」のように、考え方が変われば、180度評価が変わるものであってはならないのだと、そんな風に思います。

残念ながら、この手の事は、自分が身を律するだけでは足りず、他者の思惑に物事が左右されてしまいます。が、それはおそらく、自分たちが身を律してから言うべき事なのかも知れません。中国掲示板サイト「百度貼吧」には「もしも日本が消えたら…」というスレッドが立てられ、多くのレスが飛び交っていると聞きます。反日・親日の意見が入り乱れる中「世界経済が30年は逆戻りする」といった経済力・技術力を認める声も、少なからずあると言われます。

私達には私達の将来を決める力が無ければなりません。「力なき正義」の言うところの「力」は、モット多岐に亘って考えられなければなりません。日本の国が生み出していく様々な「モノ」「技術」「知識」「文化」。それらが真に値打ちのあるものであれば、それが即ちは「力」になるのだとは思えないでしょうか。農水産物から科学技術に至るまで、私達はやはり真摯に「モノづくり」をしなくてはならないように思います。小手先だけでモノをこちらからあちらに動かすことで、お金をこちらからあちらに動かすだけで、巨万の富を生み出す事が、さも賢いかのように思っているけれど、それはチョット違うのでは無いでしょうか。随所でモノを作り出すエネルギーが失われています。見せかけだけを取り繕う事で、世の中を回そうとする、何かしら空虚な賢者があまりにも多すぎて…、確固たる力を私達は見失っているような気がするのです。



パソコン起動時「更新プログラムの構成中…」といった表示が出ます。

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学ぶ

2013年12月13日 | 命の生き方
あの(笑)堀江貴文氏が著書の中で「あらゆること-家族との向き合い方や仕事への接し方、服装や体型に至るまで-を、より良き方向へ改善しようとすることを放棄してしまった者」達と、「オヤジ」という言葉を定義(?)しておられます。ここで使われている「オヤジ」という言葉の中には「ダメなオヤジ」と言うニュアンスが込められています。氏が書くからそうなっただけであって、決して性別を限定して言っているわけでもないのだろうと思います。つまり「学ぶということをしなくなった」者達には、魅力を感じない…と、彼は言っているのでしょうか。

人間は、あらゆる機会に学ぶことができます。たとえ、相手が幼稚園児であっても、私たちが学べることはあるのですが、残念ながら最初からそれを放棄していると、宝物のように大切なモノは何一つ見えては来ません。日頃、学びの現場に立っています。謙虚な姿勢で次々新しいモノを吸収していく人がおられる反面、自ら学ぶチャンスをつぶしてしまっている人もおられます。

自分の「これまで」がどうしても捨てられないと、物事を学ぶことは多分できないのだと思います。頑なに、自分の主張ばかりにこだわっているから、それが本当は間違っていることに気づくことができなかったりします。挙句に「今更、学ぶ意思などない(必要などない)」と言うのであれば、それは元々の出発点自体を間違ってしまっているのだと思います。

人は何歳からでも、「学ぶ」ことを始めることができます。年齢だから…と、ツイ自分に免罪符を与えてしまいがちの方もおられるようですが、学ぶということは「意思」です。意思さえあれば、いつからでも始めることが多分できるのだと思います。


パワーポイントのスライド番号を表紙の次に「1」で始めたい

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スマホ子守

2013年12月12日 | 社会派らぼ
私達の子育て期には、テレビに子守をさせ過ぎることが、問題になっていたような気がするのですが、最近はスマホに子守を指せることの是非が取沙汰されます。中高齢者からは、スマホの操作に「難しそう」という声を聴きますが、スマホ操作はとても直観的で、お年寄りや子どもにもトテモ簡単な操作性を備えていると思います。実際、非常に低年齢の子どもであっても、スマホの画面を触ることはすぐに覚えます。ガラケーにも知育アプリはあったのですが、子どもは興味をあまり示しませんでした。が、スマホはどうも夢中になるようです。説明など不要で、すぐに使いこなしてしまいます。日本小児科医会では「スマホで子守をさせないで」といった呼びかけも始めました。

アメリカの市民団体が、ベビー用品メーカーに、「iPadホルダー付きベビーシート」の販売中止を求める運動を始めました。ホルダーが付いていることが、赤ちゃん一人に画面を見せておく時間を長くさせ、言語発達遅延や睡眠障害・学習障害にも繋がりかねないとしています。

恐らくは、スマホに保育をさせることが間違いで、玩具として共に遊ぶことが大切なのでしょう。子どもが夢中になりすぎるため、タイマーをつけて欲しいなどの要望が保護者から出ていると言いますが、親が子どもをとめれば良いだけの話です。動画サイトで暴力的な映像を見ていた…といった悩みも、子どもが一人でスマホを操っていさえしなければ、いくらでも管理することがはできます。

子どもがおとなしいのは、親にとって歓迎すべき事ではあるのですが、テレビ然り、ゲーム然り、どうもそうしたモノには視聴者を受け身にさせ、自ら考えるといった能動的機能気力を失わせるような気がします。絵本を与えられた子どもがページをめくれず、ただページの上を撫でるだけだったなどという話を聞くと、やはりこの手のツールは子ども達の独創性を奪い、人とのコミュニケーションを衰えさせる側面が否めない気がします。



半角のダブルクォーテーションが入力できません

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逃げない

2013年12月07日 | 命の生き方
フィギュアスケートグランプリファイナルで、浅田真央がSP・フリー共に1位で、2季連続4度目の優勝を果たしました。多くの人が、ほっと安堵しているのではないでしょうか。今季は、ソチで冬季オリンピックが開催される年であり、五輪後の引退を表明している浅田選手にとっては、最後の大会。悲願の金メダルを、恐らく日本のほぼすべての人が祈っているからです。

スポーツ選手にも、愛されるキャラと、憎まれ役を演じる性とがあります。勿論、浅田選手は万人に愛され、様々なアスリート人気ランキングでも、イチロー選手に続く位置を占めると言います。絶頂期もあればスランプの時期もありながら、いつも真正面から受け止めて逃げない姿勢が、その人気の理由でしょうか。某テレビ番組で「辞めたいと思った時、くじけそうな時を、どう乗り越えて来たか?」と質問されて、「やるしかない、練習しかない。”浅田真央”から逃げることはできない」と答えたと言います。

人生は良い事ばかりは続きません。類まれな才能を持って生まれ、華やかな光を浴び続ける選手だからこその、苦しみは計り知れないものがあるのですが、そこから逃げないという覚悟は、相当なものに他なりませんし、インタビューにそう言い切るのは相当の器です。大半の私たちは、彼女のような表舞台を経験することもなく、平凡な日々の繰り返しで一生を終えますし、色々な意味でのハンディは、人に不公平に与えられているような気もします。それでも、そこから逃げないという覚悟は、誰しもが持たなければならないように思います。教育が子ども達に教えるべきは、そういうことのような気がします。



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