2018.5.25~27「佐渡島」旅行記10(佐渡金山・北沢浮遊選鉱場跡)
2018.5.25~27 佐渡島へ行ってきました。メインは植物観察。
27日、kouchaが観たいと云うので急きょ、金山へ。そういえば相川にはローソンがありました。ホテルでもコンビニでも
あちこちの販売店でも佐渡の方々は「おもてなし」という言葉がぴったり当てはまるように、とても丁寧に接客してくれます。
道遊の割戸
佐渡金銀山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿
になっています。山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達します。道遊脈と呼ばれる脈幅約10mの優良鉱脈を有して
おり、明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われました。さど観光ナビより。
佐渡金山
宗太夫坑(そうだゆうこう)江戸金山絵巻コース「宗太夫坑」(江戸初期に開発された手掘り坑道。地下深く掘り進んだ
坑道跡に、「佐渡金山絵巻」に描かれている採掘作業を忠実に再現)を見学しましたよ。
佐渡金銀山400年の歴史を伝える史跡。江戸金山絵巻(宗太夫坑)コースでは、人形を使って当時の採掘作業を忠実に再現。
明治官営鉱山(道遊坑)コースには、明治期以降の近代化産業遺産群が残ります。さらに「東洋一の選鉱場」「日本初の西洋式
竪坑」などの施設をガイド付きで巡るコースもあり、壮大なスケールに驚かされます。さど観光ナビより。
鉱脈発見!「金銀山大盛」
採掘坑開きのお祝いの様子で、金銀が多く集まった富鉱帯が見つかると、岩盤が少しでも掘りやすくなるよう『やわらぎ』
という祭礼用の舞を舞って前途を祝したそうですよ。
「ムカデ信仰」
ムカデの姿形が鉱脈の形や鉱山の採掘穴に似ていることから鉱山師や鍛冶師に信仰されたようです。
「毘沙門天の百足」より。
確かにムカデのような・・・。
金鉱石とは
金は、白色の石英脈の中で銀黒(ぎんぐろ)帯と呼ばれる黒色の縞の中に賦存します。黒色の縞は、主に輝銀鉱と呼ばれる銀の
鉱物で黄鉄鉱や黄銅鉱を伴います。金はこの縞の中に含まれています。通常よほどの高品位鉱(500g/トン以上)でなければ
肉眼で見ることはできません。鉱石の中で金色に輝く鉱物の殆どは黄鉄鉱か黄銅鉱で、これらの鉱物はすりつぶして粉にすると
黒色となるので、金と区別できます。http://www.sado-kinzan.com/knowledge/より。
江戸時代に41トン、昭和でも22トンも金産出量があったんですねー。
佐渡金山400年の歴史
佐渡金山は、1601年に山師3人により開山されたと伝えられています。1603年には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が
置かれ、小判の製造も行われ江戸幕府の財政を支えました。1869(明治2)年に官営佐渡鉱山となり、西洋人技術者を招いて
機械化・近代化が図られました。1889(明治22)年には、宮内省御料局管轄の皇室財産となり、模範鉱山として日本産業の
近代化に貢献しました。その後1896(明治29)年に当時の三菱合資会社に払い下げられ、日本最大の金銀山として拡大発展を
遂げました。平成元年3月(1989年)残念ながら、資源枯渇のため操業を休止し、400年近くに及ぶ長い歴史の幕を閉じました。
http://www.sado-kinzan.comより。
続いて、前日草臥れ果てて寄れなかった北沢浮遊選鉱場跡へ。
この写真は、総源寺前から前日に撮ったもの。タクシーの運転手さんに教えてもらった高台。ちょっと木々が生い茂り
残念。。。。。
県道31号線より
いや~、どこを切り取っても絵になりますね。ホントのラピュタのよう。ライトアップもされるようですよ。
北沢浮遊選鉱場跡
近代遺産の象徴「東洋一の浮遊選鉱場」相川の北沢地区には発電所やシックナーなど鉱山の近代化に貢献した施設群(国の史跡)
が密集しています。もともとは銅の製造過程で行われていた技術であった浮遊選鉱法を金銀の採取に応用し、世界で初めて実用化
に成功したものです。戦時下の大増産計画によって大規模な設備投資がされ、1ヶ月で50,000トン以上の鉱石を処理できること
から「東洋一」とうたわれました。さど観光ナビより。
佐渡奉行所跡
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