アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

あいさつ運動がいじめを生むぅ?マ、マジッスカ?!

2014年02月23日 | Weblog
 「訓練されていない子ども」「要求する前に与えられてしまう子ども」「我慢できない子ども」これらの集団が学校に来ている。このような分析がされています。だったら、訓練しなきゃダメでしょう?要求の意思表示ができるようにしてあげなければダメでしょう?我慢もさせなければ…。

 やさしい物言いで、テレビなどへの露出度が高い教育評論家が…
 「あいさつ運動などを子どもたちに働きかけることが単一の価値観を押しつけることになり、学校そのものがいじめの構造になっている」と、述べました(和歌山市での教育討論会で)。

 お茶の間でも人気の教育評論家の発言ですから重いですよ…!
 あいさつ運動の働きかけが、学校そのものをいじめ構造にしているのだと!コイツは驚いた!と、いうことはなにかい?「あいさつ運動を推進している学校は、いじめ推進校」ということなのかい?

 私は、「あいさつで人を判断」しています。良い人なのか、良くない人なのか、あいさつで瞬時に分かります。
 小中学生のあいさつ運動に対して、「口先だけで気持ちが入っていない」と、いう評価を耳目にすることがあります。冗談じゃない。気持ちが入っているかいないかは、主観の問題。あいさつしている本人は、精一杯の気持ちを込めているかもしれない。
 あいさつは、人を判断することのほかに、「儀礼的、形式的、反射的」な要素を持っているのです。社会に出てから、「あいさつできない人間」という烙印を押されそうになってからがんばっても遅い。小中学生のうち、習慣化させる必要があるのです。反射の問題であって、気持ちがウンヌンという問題ではない。

 あいさつでは、人物を判断できないだろうって?できます。実は誰でもやっていることです。あいさつの際、瞬間ですが目が合います。この瞬間に、全てを感じ取る。「目は口ほどに物を言い」です。瞬間であっても、多くのことを語ってくれます。

 ともあれ、あいさつ様を、単一の価値観であるとか、押し付けるなとか、そんな学校は学校自体がいじめの構造だとか…と、いうことは、「あいさつについて、指導しない学校」が、いじめのない学校ということか?

 「訓練されていない子ども」「要求する前に与えられてしまう子ども」「我慢できない子ども」の対策のひとつとして、道徳教育があります。
 これに関連して…教室で、いのちの大切さなどを規範的に教え込もうとすると逆効果を生み、反発することが自由や勇気の行使となる。無差別殺人などがネット上で「かっこいい」とねじ曲げて評価される危険性も出てくる…
 つまり、道徳教育やいのちの教育は、学校教育など集団教育にはなじまないという専門家の御意見もある。

 あいさつ運動を学校でするなという人やら、道徳教育やいのちの教育は、学校教育になじまないとする人…じゃあ教えて下さいよ!「あいさつ」「道徳」「いのち」の教育はどこでするの?まさか、家庭教育に任せろとか、社会全体で教育しましょうとか言い出すんじゃないでしょうね。

 えっ?「そのために、道徳の時間の道徳を教科にするんじゃないか」って?だ、だから「なじまない」と、言われて教科にしてどーすんの?道徳の教科化のねらいは、別のところにあるのです。

 「学校がいじめの構造」であろうが、「なじまない」と、言われようが、学校がやらなければ、どこもヤリマセン。と、いうかヤレマセン。