アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

違う意思を尊重する社会へ!

2014年02月19日 | Weblog
 人権にかかわる教室では、「いじめ」をテーマにすることが多いです。聴衆は、小学生。今どきの小学生、小難しい話を45分間も大人しく聴くことなどできない。私としましても、小学生の苦痛に満ちた顔など見たくもない。それで、パワーポイントで画像中心の教材を用意して、教室に臨んでいます。教材作成には膨大な時間を費やすのですが、楽しいので時を忘れて没頭していますね。

 アンティークマンの授業、人気があるのかって?凄い人気ですよ。小学生はもちろんですが、居並ぶ先生方や、報道陣、市役所・町役場関係者に人気があります。ホントホント!サインをせがまれたことは一度もありませんが、「来年もまた来てくれるんですか!?」と、言われたことはあります。こういうことを言われると、「やったね!」と、効力感に浸ってしまいますね。

 いじめをテーマにした場合、「文化の違い」「障害者」「男女」「人種」…これらについて、「いじめ、差別があってはなりません」と、説きます。

 それで、「障害者」の扱いにもっとも気を使います。
 まず、どんな画像を使うかです。「文化」「男女」「人種」については、自分で撮りためた画像がたくさんありますので、著作権だの肖像権だのの心配なく使えます。さすがの私も、「障害者にかかわる画像」の持ち合わせは少ない。身体障害の画像については、なんとかなるのですが…知的障害、精神障害、その他の心身の機能障害(てんかんなど)を画像で提示することは無理。そのあたりは、ぼかして口頭で説明します。
 
 「障害」という言葉についても、「障碍と書くべきだ」とか「障がいと表記しろ」とか、御意見があります。私は教室では、「障がい」としています。政府が、「障害」と表記しているので問題ないのでしょうが…。「害という漢字を使っているのはけしからん」と、私の授業にケチをつけられたのではなさけないので。

 で、「障害者=可哀想な人」と、いう印象を小学生に与えないように、この点については十二分に配意しています。小学生の家族や知人に障害者がいることも考えなければなりませんから。また、障害を持つ人が、「自分は可哀想なんだぞ!」とは言わないだろうと思うからです。

 「そりゃ無理だろう!」と、言われるかも知れませんが、「障害=個性」であると、基本的に考えています。法の下で平等であるわけですし。
 ところが、今の日本で、「障害は個性です」は、通じない。米国の場合は、障害のある人を差別しないとする、「アメリカ障害者法」がある。国民は、この法律をよりどころに、「分け隔て」などしない。

 あと、米国では、学校(小中高)で法教育が行われています。日本だって、教えてるって?1時間やっても、「やっている」。50時間やっても、「やっている」。そういうレベルの、「やっている」なら、やっているでしょうけどね。
 「法の精神」「社会のルール」を学び、法的なものの考え方を身に付ける。この教育、必要ですよ。ますます価値観や生き方が多様化していきます。そんな社会で生きるのは、なかなか難しい。さまざまな人との共生…これは養わなければならない力でしょう。
 「違う意思を尊重する社会」となれば、「障害=個性」となっていく。